江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2019年9月22日説教(マタイ25:1-13、終末をどう迎えるか)

投稿日:2019年9月21日 更新日:

 

1.「十人の乙女」の喩え

 

・マタイ福音書では24章から「終末(世の終わり)」の出来事が描き込んであります。最初に神殿崩壊が語られ(24:2)、世の終わりのしるしが語られ(24:15~)、準備をしない者は滅ぶ(24:36~)と警告され、最後に「目を覚ましていなさい」(24:42)と語られます。その文脈の中で「十人の乙女の喩え」が語られます。明らかに「終末をどう迎えるか」が課題となっています。次のような喩えです。「天の国は次のようにたとえられる。十人の乙女がそれぞれ灯し火を持って、花婿を迎えに出て行く」(25:1)。

・当時の婚礼では、花婿は花嫁の家に花嫁を迎えに行き、花嫁を伴って祝宴の開かれる場所(通常は花婿の家)に連れて行きます。花嫁の家では介添人の乙女たちが、手に灯し火を持って待機しており、花婿が来れば灯し火をかざして、花嫁の先頭に立ち、会場まで誘導します。しかし灯し火は数時間で消えてしまうため、万一に備えて予備の油が必要となります。介添人の乙女の中には予備の油を準備していた「賢い乙女たち」と、準備を怠った「愚かな乙女たち」がいたと喩えは語ります。「愚かな乙女たちは、灯し火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢い乙女たちは、それぞれの灯し火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった」(25:2-5)。

・遅れていた花婿が到着します「乙女たちは皆起きて、それぞれの灯し火を整えた。愚かな乙女たちは、賢い乙女たちに言った。『油を分けてください。私たちの灯し火は消えそうです。』賢い乙女たちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい』」(25:6-9)。愚かな乙女たちが油を買いに行っている間に、花婿は花嫁と一緒に婚宴の席(花婿の家)に入り、やがて家の戸が閉められ、遅れて来た乙女たちは婚宴の席から締め出されてしまいます(25:10)。愚かな乙女たちは戸を叩きます(25:11)が、冷たい答えが帰ってきます「はっきり言っておく。私はお前たちを知らない」(25:12)。そして物語の結末が語られます「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」(25:13)。

 

2.当時の教会はこの物語をどう聞いたのだろうか

 

・この喩えは、元来は「やがてくる神の国に備えて準備しなさい」というイエスの教えでしょうが、初代教会の人々は、物語を「主の再臨の遅延」として聞き直しています。福音書が書かれた80年当時、マタイの教会は苦難の中にありました。イスラエルはローマとの戦争に敗れ、ローマ軍がエルサレムを占領し、神殿は崩壊し、マタイの教会の人びとはエルサレムを追われて難民生活をしています。その中でマタイの教会は、「主が来られ」、「神の国が来る」ことを切望していました。彼らは「主よ、来りませ(マラナタ)」と祈り続けていました。それは彼らが迫害を耐えるための大きな支えでした。しかし再臨(終末)はなかなか実現しない。終末遅延の問題は、当時の教会にとって緊急の課題でした。喩えの花婿の到着が遅れたのは、キリスト再臨の遅れを象徴しています。

・マタイの教会は再臨待望の熱意と、それがなかなか来ない焦燥感の中にありました。再臨を待望する者にとって、信仰の火を消すことなく、灯し続けることは重要でした。乙女たちが眠りこんだ真夜中、突然、花婿の到着が告げられ、灯油の控えの用意をしていなかった愚かな乙女たちは、婚宴に遅れ、会場の扉は閉じられ、締め出されます。初代教会の人々にとって復活のイエスとの出会いは強烈であり、終末は既に始まり、「再臨は近い」との熱意を持ち続けていました。しかし主の再臨はなかなか来ません。教会の中には主の再臨の実現を疑う人々も出て来ました「主が来るという約束は、一体どうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか」(第二ペテロ3:4)。その中で教会は、「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせているのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(第二ペテロ3:8-9)と語りました。

 

3.私たちはどう聞くのか

 

・それから2千年の時が経ちました。現代の私たちは、主の復活と再臨の中間期にいます。この再臨(終末)の事柄をどのように考えるべきなのでしょうか。今日の招詞にマタイ24:38-39を選びました。次のような言葉です「洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである」。終末=世の終わりは漠然としていますが、私たちの終末ははっきりしています。やがて来る死です。「死に備えて今をどのように生きるか」が私たちの課題です。その日に備えて何もしないのは愚かだと喩えは問いかけます。

・現代の私たちは、死を認識しない日常生活をおくっています。かつては人生50年であり、若いうちに死ぬ人も多く、死がいつも隣にありました。しかし、人生80年時代になり、60歳になっても70歳になっても死なず、いつまでも生きるかのような幻想を私たちは持つようになりました。信仰においても死ではなく、生が中心になってきました。しかし、主を信じ、その救いにあずかる事の中に「死がない」故に、近親者の死や自分の病気等により死が目前に迫ってくると、信仰者でさえ慌てふためく時代になりました。

・現代は科学の時代です。私たちは科学的真理を信じます。しかしその結果、私たちは科学が承認することしか受け入れることができなくなり、死からの解放であるべき復活を信じることが難しくなりました。復活を信じることの出来ない現代人は、ますます死の束縛の中に捕われ、死はタブーとなって社会から隠されました。しかし死は厳然としてあります。科学ですべてのことが語り尽くされるのではない。この科学の時代において、私たちは改めて復活信仰を正しく理解しなければならないのです。

・私たちは復活を信じます。復活を信じる者は、この世で成功し、人から賞賛されることが人生の目標ではなくなります。この世の成功は、死を前にしては何の意味もないからです。復活を信じる者は、障害を持って生まれ幼くして命を召された子どもたちの人生も、志半ばで病に倒れて亡くなられた方の人生も無意味ではないと信じることが出来ます。このような信仰を与えられた者は、病気で苦しんでいる人々や、親しい人を亡くして喪失感に悩んでいる人々を助けることが出来ます。何故ならば自分の問題、「どう生きるべきか」は解決済みですので、私たちの人生の目的は「他者をどう慰め、どう励ますか」となり、それが喜びになって行きます。人はだれかの役に立つ時にこそ、本当の喜びを覚えるのです。

・ペテロは「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」(第二ペテロ3:8)と語りました。一日とはいろいろなことが出来る時間です。同時に、残された時は無限ではありません。精神科医フランクルは講演の中で語ります「ある人が訊ねた『いずれ死ぬのであれば、人生は初めから無意味ではないか』。その問いに私は答えた『もし私たちが不死の存在だったらどうなっていたのか。私たちはいつでもできるから、何もかも後回しにするだろう。明日するか、十年後にするかということが全然問題にならないからだ。しかし、私たちがいつか死ぬ存在であり、人生は有限であり、時間が限られているからこそ、何かをやってみようと思ったり、何かの可能性を生かしたり、実現したり、充実させようとする。つまり、死は生きる意味の一部になっている。死こそが人生を意味あるものにする」(フランクル「それでも人生にイエスという」)。死があるからこそ、この一度きりの人生は貴重であり、死に備えて現在を生きることこそが、「準備をして生きる」ことなのです。

・十人の乙女の喩えでは、十人とも花婿を待つ間に眠ってしまいましたが、それについては叱られていません。何故ならばイエスは私たちの弱さを知っておられるからです。イエスはゲッセマネの園で眠り込んだ弟子たちを赦されています(マタイ26:41「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」)。とすれば祝宴から締め出された五人の愚かな娘たちも、締め出されたままではなく、もし彼女たちが求め続けるならば、やがて門は開かれるでしょう。イエスは約束しておられます「たたきなさい。そうすれば門は開かれる」(マタイ7:8)。愚かなことをした、取り返しのつかない罪を犯したことが問題ではなく、その後でどう立ち直るかが問われているのです。

・イエス・キリストは私たちの弱さや悲しみを知っておられる方です。ユルゲン・モルトマンは語りました「私たちの失望も、私たちの孤独も、私たちの敗北も、私たちをこの方から引き離さない。私たちはいっそう深く、この方との交わりの中に導かれ、答えのない最後の叫び、『どうして、わが神、どうして』に、その死の叫びに唱和し、彼と共に復活を待つ。私たちのために、私たちの故に、孤独となり、絶望し、見捨てられたキリストこそ、私たちの真の希望となりうる」(モルトマン説教集「無力の力強さ」)。イエスは、「私たちが一人もかけることなく天の国に入り、共に祝宴にあずかることを待ち望んでおられる。それを信じて今日を生きよ」というのが、この譬えのメッセージだと思います。

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