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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2019年6月23日説教(フィリピ3:12-21、天に国籍を持つ者として生きる)

投稿日:2019年6月23日 更新日:

2019年6月23日説教(フィリピ3:12-21、天に国籍を持つ者として生きる)

1.キリストに出会った喜びを伝えるパウロ

 

・フィリピ書は、「喜びの書簡」と言われています。私たちは、自分が幸福で満たされている時には喜びます。ただ、苦難の中にある時、重荷を担っている時には、喜べません。しかし、パウロは、「キリスト者は苦難の中でも喜ぶことが出来る」と語ります。パウロがこの手紙を書いた時、彼はエフェソの獄中にあり、殉教を前にした緊迫した状況の中にありました。にもかかわらず、この手紙には「喜ぶ」という言葉が多く用いられています。パウロはエフェソの獄中から、フィリピ教会に手紙を書いています。

・パウロがエフェソの獄中にいると知らされたフィリピの教会は、パウロを慰めるためにエパフロディトに贈り物を託して送り、エフェソでパウロに仕えるように手配しました。そのエパフロディトが重い病になってフィリピに帰ることになり、彼に託して、パウロはフィリピの人々に手紙を書きました。それがフィリピ書です。パウロは案じてくれたフィリピの人々に感謝し、教会のために祈ります。フィリピ書1~2章はパウロの感謝とフィリピの信徒を気遣う愛情に満ちた手紙です。3章の始めでパウロは書きます「最後に、私の兄弟たちよ。主にあって喜びなさい」(3:1)。「主にあって喜びなさい」、フィリピ書を貫くパウロのメッセージです。

・その感謝の手紙が、3章2節から突然激しい語調になります。「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい」(3:2)。パウロは手紙を書いている中で、フィリピ教会を混乱させているユダヤ主義キリスト者の活動をここで思い起こし、警告します。手紙には、「犬ども」、「よこしまな働き手」、「切り傷に過ぎない割礼を持つ者たち」、と激しい言葉が並びます。当時のエルサレム教会は、「洗礼を受けただけでは救われない。割礼を受け、律法を守らないと救われない」として、巡回伝道者を各地の教会に派遣していました。フィリピ教会にも伝道者たちが訪れ、教会の中に混乱が生じていた。パウロはユダヤ人が大切にする割礼を「切り傷に過ぎない」とし、彼らを「犬」と呼びます。何故このような激しい言葉を投げかけるのか、それはユダヤ主義者の活動が教会を壊しかねない要素を持っていたからです。割礼を受けなければ救われないとしたら、キリストは何のために死なれたのか。割礼を強制する彼らはキリストの十字架を無益なものにしている。だから「よこしまな働き手」なのだ、とパウロは批判します。

・パウロもかつては律法による救いを求め、そのために努力し、そのような自分を誇った時もありました。彼は言います「私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」(3:5-6)。彼はユダヤ人の誰よりも、熱心に律法による救いを求め、熱心のあまり律法を守らないキリスト者共同体への迫害者にさえなった。その彼がダマスコ途上で復活のキリストに出会い、キリストに捕らえられ、教会の迫害者から伝道者になりました(使徒9:1-9)。彼は律法学者としての名声も、教師としての安定した生活も失くし、ユダヤ人からは「裏切り者」として命を狙われるようにもなりました。

・しかしパウロは、「私にとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、私はすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」(3:7-8)と語ります。律法を守ろうとする者は自分の功績を誇ります「これだけ努力をして、これだけ実績を上げてきた。だから救われるのは当然だ」。パウロは自分を誇った過去を恥ずかしく思い、それらを「糞土」のように捨てたと語ります。パウロはすべてを失くしましたが、キリストを得た。彼はキリストに出会って命を見出しました。彼は語ります「私には、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」(3:9)。

 

2.キリストに出会った者の生き方

 

・私たちはキリストに出会った。キリストに捕らえられた。だからキリストを追い求めていくとパウロは言います「私は、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、私自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(3:12-14)。人間の目から見れば、「成功の人生」があり、「失敗の人生」もあります。何の成果もあげられなかったと悔やむこともあります。パウロは語ります「後ろのものは忘れよう」(3:13a)。神の目から見れば「過去の功績」等どうでもよく、いかに「今を一生懸命に生きるか」のみが評価される。実績を上げることが出来なくとも、一生懸命に走った人に、神は「賞」をお与え下さる(3:14)。だから「前のものに全身を向けよう」(3:13b)とパウロは語ります。

・そして有名な言葉が来ます「私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、私たちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」(3:20-21)。ここに永遠の命を求めるのか、この世での救いを求めるのか、信仰の分かれ目があります。島田裕巳著「日本の10大新宗教」によりますと、創価学会は1,000万人の信徒を持ち、立正佼成会は300万人、霊友会も300万人の信徒がいます。キリスト教人口100万人に比し、驚くべき数です。大教団に成長した新宗教のほとんどは「日蓮・法華系」の教団です。浄土信仰を説く既成仏教に飽き足らない人々が、現世における救いを強調する法華信仰に惹かれている。「南無妙法蓮華経」を唱えれば救われる、信じれば豊かな生活が送れるという教えが人々を捕らえている。これは律法を守れば救われる、善行を積めば幸せになれるとするユダヤ主義者の考え方と同じです。しかし、パウロはこのような考え方を、「絶対そうではない」と否定します。

 

3.苦難の中で喜ぶ信仰

 

・今日の招詞としてフィリピ4:4-6を選びました。次のような言葉です「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思いわずらうのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」。パウロは獄中にあっても喜んでいます。

・パウロは手紙の冒頭で言います「兄弟たち・・・私が監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、私の捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになった」(1:12-14)。獄中でパウロが気力を失わずにいる姿を見て、大勢の人が励まされ、ある者はキリスト教に回心しました。神が監獄という場所においても、働いてくださることを知るゆえにパウロは喜ぶ。どこにおいても私たちは神を賛美することが出来ます。現にパウロはエフェソの牢獄から、この手紙を書いています。私たちは、自由に外出の出来ない老人ホームにいても、病気で入院した病院においても、神のために働けるのです。

・私たちが苦しみの中にあれば、その苦しみを神の前に差し出す。悲しみの中にあれば、その悲しみを神の前に訴える。その時、神は悲しみの意味、苦しみの意味を教えてくださる。意味がわかった時、苦しみは苦しみのままで、悲しみは悲しみのままで、祝福に変わっていく。苦しくてたまらない時、祈って与えられた御言葉が私たちの人生を変えた経験を何度もしています。苦しみや悲しみがなくなることが救いではなく、苦しみ悲しみの中で神の声を聞くことこそ救いなのです。現世利益、功績主義は必ず行き詰ります。お題目を唱えても、治らない病気は治らないし、解決しない問題は解決しない。癒しは仮のものであり、救いではない。私たちは、病人は病気のままで、苦しむ人は苦しみながら、救われていく。悲しみや苦しみがもはや私たちを支配しない、神の平安の中にあるからです。それこそが救いではないでしょうか。

・パウロは言います「私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待っています」(3:20)。フィリピはローマの植民都市で、市民はローマ市民権を与えられていました。フィリピの市民がローマ市民であるように、私たちも地上に暮らしていても、天の国の市民なのだとパウロは言います。ペテロも語ります「愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい(第一ペテロ2:11)。旅人であり、仮住まいの身ですから、自分の家を持つとか、老後の資金を蓄えることに価値を置かない。「年金だけでは暮らせない。老後には2千万円が必要だ」と言われても、動揺しない。神が道を開いて下さる、神が養って下さると信じるからです。この野放図な楽天性こそ、天の市民の生き方です。私たちはこの地上で多くのものを失うかもしれないし、多くの人たちから捨てられるかもしれませんが、神が私たちを見捨てられることは決してない。何故なら、神は私たちのためにキリストを遣わして、その命で私たちを贖ってくださった方だからです。そのキリストは私たちの重荷を共に負って下さる、キリストが共にいてくださるから、私たちはどのような状況下でも心配しない、だから喜ぶことが出来るのです。

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