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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2019年6月30日説教(フィリピ4:1-9、神にある平和)

投稿日:2019年6月30日 更新日:

2019年6月30日説教(フィリピ4:1-9、神にある平和)

1.教会内の不和をどう考えるか

 

・今日、私たちは、パウロの書いたフィリピ教会への手紙を通して、教会内に不和が生じた時に、どう対処すれば良いのかを学びます。教会も人の集まりですから、そこには意見の違いや対立が生じます。信仰の先輩たちは私たちに教えます「教会に不満を持つ人、意見の違う少数者の人が教会を去ろうとする時、あなたがたはその人たちを無理に引き留めたり、戻るように呼びかけない方が良い。それはいたずらに混乱を招くだけだから」。意見の異なる人々が教会を去るならそれに任せよというのです。経験に基づく知恵でしょう。しかし、パウロは私たちに言います「あなたがたはそうしてはいけない。気の合う人、意見を同じくする人とだけ礼拝を共にするのは教会ではない」と。私たちはどちらの意見に従うべきなのでしょうか。ご一緒に考えてみたいと思います。
・パウロはエフェソの獄中から、フィリピ教会に手紙を書いています。フィリピの人々は獄中のパウロを慰めるため、贈り物を持たせてエパフロディトを派遣しましたが、彼は重い病気になってフィリピに帰ることになりました。そのエパフロディトに託して、フィリピの人々に感謝を表したのがフィリピ人への手紙です。フィリピ書は礼状なのです。しかし、パウロはその礼状の中で、あえて教会の中にある争いに触れます。4章2-3節です「私はエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげて下さい」。
・この手紙は個人的な手紙ではありません。それは教会に宛てて書かれた公式の手紙であり、教会の礼拝の場で読まれることを期待して書かれました。その手紙の中で、パウロは二人の婦人の名前を挙げて和解するように勧め、また教会の人々にも仲裁の労をとるように書いています。パウロは何故この問題を個人的な問題として、教会の外で解決するようにしないのでしょうか。教会の指導者に個人的な手紙を書き、問題の解決を依頼することも出来たのに、何故あえて教会全体の場に持ち出すのでしょうか。二人の婦人の名前を礼拝の場で読み上げることを通して、二人に悔い改めを迫ったのでしょうか。そうではありません。パウロは「都合の悪い事実があってもそれを覆い隠すな。不和があれば、それを公の場に出して、主の名によって解決しなさい」と求めているのです。「主によって」(4:1)、「主において」(4:2)とパウロは強調します。教会の主がキリストであれば、そこに集う人々は和解できるはずだ、もしそれが出来なければ教会ではないのだと言っているのです。
・この手紙から、私たちは何を読み取ることが出来るのでしょうか。パウロとフィリピの人々は、二人の婦人の仲たがいの原因を知っていますが、私たちにはそれが何かわかりません。パウロとフィリピの人々は「真実の協力者」と言われている人が誰か知っていますが、私たちは知りません。ただ私たちは次のような事実を知ることは出来ます。二人の婦人は福音伝道のために良い働きをした人々であり、教会にとって無くてはならない人であるということ、そして神が二人の和解を望んでおられることも知っています。パウロはそれで十分だと私たちに言います。「神が和解を望んでおられるのならば、そうしなさい。また、周りの人々も和解のために働きなさい」と。

 

2.私たちの人生の現実の中で

 

・私たちは、水曜日の祈祷会でサムエル記を読んできました。サムエル記の主役はダビデで、イスラエル王国はダビデ王の時代に繁栄の頂点を迎えました。ダビデは偉大な王として歴史に名前を残しています。しかしサムエル記はダビデが罪を犯さずに、正しい人として神に仕え続けたとは記述しません。そうではなく、ダビデもまた人間の弱さのゆえに罪を犯し続けたことをあからさまに記しています。サムエル記下の主題はダビデ家の家庭紛争です。ダビデは多くの妻や側女を与えられましたが、それに満足せず、姦淫の罪を犯します。ある時、部下の兵士ウリヤの妻バテシバが水浴している姿を見てその美しさに焦がれ、彼女を王宮に呼び、彼女と寝るという過ちを犯しました。バテシバは妊娠し、困ったダビデは、夫ウリヤを殺させ、女を自分の妻とします。このことを責められたダビデは悔い改めますが、この事件を契機にダビデ家に次から次に不幸が訪れます。自分の撒いた悪を神が刈り取らせられるのです。
・最初は息子アムノンの不祥事です。ダビデの長男アムノンは異母妹タマルに恋をして彼女を力ずくで自分のものにした後、辱めて捨てます。ダビデは自らもバテシバを手に入れるためにウリヤを殺した過去を持っていますので、アムノンを処罰することが出来ず、放置します。この措置にタマルの兄アブサロムは怒り、妹を辱めたアムノンを自らの手で殺して国外に逃亡します。ダビデは長男アムノンの死を悲しみ、三男アブサロムを許すことが出来ません。部下の将軍ヨアブが両者のために和解の労をとり、アブサロムは帰国を許されますが、ダビデは息子と会おうとしません。このダビデの子を許さない態度がアブサロムの心をかたくなにし、彼はダビデに反旗を翻して、王としての即位を宣言します。やがてアブサロム軍とダビデ軍の間に戦いが起こり、アブサロムは敗れて殺されます。アブサロムの死を知ったダビデの嘆きの歌をサムエル記は次のように記しています。「私の息子アブサロムよ、私の息子よ。私の息子アブサロムよ、私がお前に代わって死ねばよかった。アブサロム、私の息子よ」(サムエル記下19:1)。
・聖書はダビデを信仰の偉人と称えますが、そのダビデでさえ、人を許せず、その結果、長男が殺され、三男も死んでいきます。私たちもまた人を許すことが出来ないゆえに、家庭や職場での不和に悩まされています。これが人生の現実です。人は王宮の中にいても、兄弟同士の不和があり、親子の不和があって、幸せではないのです。人の幸せは私たちが獲得したお金や地位に依存せず、逆にお金や地位が私たちを虜にして不幸に導いていく現実があります。私たちはこの現実を知ったから、平安を求めて教会に来ました。しかし、教会にも不和があり、平安が無ければ、私たちはどうすればよいのでしょうか。

 

3.喜べない状況でも喜びなさい

 

・今日の招詞として、私たちは、フィリピ4:4-5を選びました。次のような言葉です「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます」。私たちは平安を求めて教会に来たのに、教会の中にも不和があって平安がありません。私たちはどこにも行く場所がありません。だからパウロは不和を解決せよ、和解して喜べというのです。何故いがみ合いが教会の中で生じるのでしょうか。

・キリストは私たちが神と和解できるように死んで下さいました。キリストの死によって私たちは神と和解したのです。そして神と和解した者は人とも和解します。もし、私たちが人と和解できないとしたら、それは神との和解が無いからなのです。不和の根本原因は私たちと神との関係の不完全なのです。ですから、根本を解決しなければ、意見の違う人たちが教会から出て行っても教会内の不和は残ります。時間と共に新しい不和が教会内で生じるでしょう。それゆえ、人との不和の問題は人間的に解決すべき問題ではなく、教会全体で考える問題なのだとパウロは言うのです。
・私たちの毎日は常に喜べる状況ではありません。挫折も失意も仲たがいもあります。しかし、その中で喜んで行くのがキリスト者ではないかとパウロは言います。パウロは続けます。「どんなことでも、思いわずらうのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(4:6-7)。不和がある時、何故それを人間的に解決しようとするのか、何故人知を超える神の平和を求めないのかとパウロは言います。宝を見出した人は全てを捨てても宝を贖います。キリストと出会った人もそうします。キリストに出会った人は、自分の内には何の義も無く、ただキリストが死んで下さったから義とされた事を知りました。だから自分の誇りも捨てます。自分の誇りを捨てた時、人との争いもなくなります。何故なら、争いとは人と人の誇りのぶつかりあいだからです。
・人生は短く、その終わりは見えています。「もし、不和の人がいれば、一刻も早く和解しなさい。相手が許さなくともあなたは許しなさい」とパウロは訴えます。前にご紹介したマザーテレサの「あなたの最良のものを」という言葉をもう一度引用します「人は不合理、非論理、利己的です。気にすることなく、人を愛しなさい。あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう。気にすることなく、善を行いなさい・・・善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。気にすることなく、し続けなさい。あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう。気にすることなく、正直で誠実であり続けなさい。・・・助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。気にすることなく、助け続けなさい。あなたの中の最良のものを、この世界に与えなさい。たとえそれが十分でなくても、気にすることなく、最良のものをこの世界に与え続けなさい」。

・そしてマザーは大切なことを伝えます「最後に振り返ると、あなたにもわかるはず、結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです。あなたと他の人の間のことであったことは一度もなかったのです」。「人との関係の断絶は神との関係の断絶なのだ、だから神と和解している人は人と和解せよ、相手が赦さなくともあなたは赦せ」とマザーは言っています。マザーの言葉こそピリピ4章の最善の注解なのです。私たちは相手を変えることは出来ません。しかし、自分が変わることは出来ます。私たちが相手を赦した時に、相手も私たちに心を開き始めます。「人知を超える神の平和」は働き始めるのです。教会はその神の平和を知る場所なのです。

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