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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2019年6月16日説教(フィリピの信徒への手紙2:12-18、キリストのために苦しむ恵み)

投稿日:2019年6月16日 更新日:

2019年6月16日説教(フィリピの信徒への手紙2:12-18、キリストのために苦しむ恵み)

1.非日常の中で喜ぶ

 

・今日から三回にわたって、私たちは「フィリピの信徒への手紙」を読みます。フィリピはマケドニア州にある港町で、パウロが初めてヨーロッパ伝道を行った記念すべき町です。 キリスト教はパレスチナ(アジア)から始まりましたが、発展したのはヨーロッパです。「福音がアジアからヨーロッパに伝わる」ことがなかったら、その後の世界史は大きく変わったでしょう。パウロのフィリピ伝道は世界史の大きな転換点になりました。そのフィリピで、パウロはリディアという一人の裕福な婦人に出会い、彼女はパウロの話を聞いて、回心し、洗礼を受けます(使徒16:14-15)。やがてこのリディアの家の教会がフィリピ教会と成長していきます。パウロはフィリピを離れた後、テサロニケ、コリント、エフェソ等で伝道活動を続けますが、フィリピ教会はパウロの活動支援のためにエパフロディトに託して献金を送り、彼はパウロの助手として働き始めます。しかし彼は重い病気に罹り、フィリピに帰る事となりました。パウロは帰還するエパフロディトに託して、支援感謝の手紙を書きます。それが「フィリピの信徒への手紙」です。

・パウロはこの手紙をエフェソの獄中から書いています。フィリピ教会の人々はパウロ投獄の知らせを聞いて心配したと思います。その人々にパウロは現況報告を書きます「兄弟たち、私の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。つまり、私が監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、私の捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです」(1:12-14)。パウロは獄中にあって喜んでいます。何故ならば、逮捕と裁判を通して、異教世界の責任のある人たちの居並ぶ法廷で、キリストを述べ伝える道が開かれたからです。そしてパウロの喜びを見て、兵士の中にも回心する者が出てきたようです。パウロは先にフィリピでも投獄されていますが、その時には監獄の看守とその家族が救われる体験をし(使徒16:25)、今また逮捕・監禁・裁判という「強いられた受難」が、エフェソの役人の中から回心者が出ています。「強いられた受難」が「神の恵みとしての受難」に変えられた。パウロはそれを喜んでいるのです。

・フィリピの教会はパウロが捕らえられたと聞き、エパフロディトに慰問の品を持たせて、派遣しました。パウロは教会の支援に感謝すると共に、いま自分が獄にあってフィリピの人々のために働けないことを、心残りに思っています。しかし、パウロの心は彼らと共にあり、パウロがいない今も主に従順であるように祈ります。「愛する人たち、いつも従順であったように、私が共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいなさい」(2:12)。パウロは続けます「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい・・・不平や理屈を述べることを止めなさい」。つぶやきや疑いを捨てなさい、そうすれば「とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう」(2:15-16)とパウロは語ります。

・パウロは獄中にあり、死の脅威の中にあります。1章21節以下でパウロは語ります。「私にとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、私には分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です」(1:21-24)。パウロは、人間としては、釈放されて再びフィリピを訪れることを願っていますが、それは適わないかもしれない。彼は死を覚悟し始めています。それが神の御心であれば受け容れていこうと思っています。彼は語ります「信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえ私の血が注がれるとしても、私は喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。私と一緒に喜びなさい」(2:17-18)。民の罪を購う「贖いの日」には、犠牲の動物の血が祭壇に注がれ、祭壇を清めます。パウロは自分が処刑され、その血がフィリピ教会の祭壇を清めるのであれば、喜んで死のうと語ります。

 

2.善き力にわれ囲まれ

 

・パウロは獄中でキリスト賛歌を歌いました。同じく獄中でキリスト賛歌を歌ったのがD.ボンヘッファーです。讃美歌73番は、デートリッヒ・ボンヘッファーが1944年に書いた「善き力にわれ囲まれ」という詩を歌にしています。ボンヘッファーはナチス時代を生きたドイツの牧師です。1933年、ナチスが政権を取り、ユダヤ人迫害を始めると彼はそれに抗議します。ドイツの大半の教会はナチスの政策に従ってドイツ帝国教会として再編成されますが、ボンヘッファーはカール・バルト共に告白教会を組織し、「不正な指導者には従うな」と呼びかけます。彼は政権ににらまれ、心配した友人たちはニューヨークのユニオン神学校の職をボンヘッファーに提供し、1939年彼はアメリカに渡りますが、1ヶ月間いただけですぐドイツに帰ります。祖国の人々が犠牲になって苦しんでいる時、自分だけが平和な生活を送ることは出来ない、苦しみを共にしなければ、もう祖国の人に福音を語れないと思ったからです。

・彼はドイツに戻り、ヒットラー暗殺計画に加わります。彼は語ります「車に轢かれた犠牲者の看護をすることは大事な務めだ。しかし、車が暴走を続け、新しい被害者を生み続けているとすれば、車自体を止める努力をすべきだ」。暴走を続けるナチスを止めるには、その頭であるヒットラーを倒すしかない。そう考えたボンヘッファーは国防軍情報部に入り、ヒトラー暗殺計画を推し進めますが、発覚し、1943年4月に捕らえられます。1年半後の1944年12月に彼は獄中から家族にあてて手紙を書きますが、そこに同封されていたのが、讃美歌の元になった詩です。

・1番は次のような詩です。「善き力にわれ囲まれ、守り慰められて、世の悩み共に分かち、新しい日を望もう」。1年半にわたって彼は投獄されています。その中で、家族や友人が彼のために祈り続けてくれる事を感謝し、それを与えてくれた神の守りを「善き力に囲まれ」と歌います。ナチスに対する反逆罪で捕らえられた彼は死刑になることを覚悟しています。また牧師として、暗殺行為に関ったことが良かったのか、迷いはあります。その迷いの中で「過ぎた日々の悩み重く、なおのしかかる時も、さわぎ立つ心しずめ、御旨に従い行く」と歌います。

・2番が続きます「たとい主から差し出される杯は苦くとも、恐れず感謝をこめて、愛する手から受けよう」。主から差し出される杯は「死」かも知れない。死ぬのは怖いし、人としては、釈放されてまた家族や友人と楽しい日々を過ごしたいと願います。しかし、それは適わないかもしれない。その時は主から差し出される杯をいただこう。この邪な、曲がった時代の中にも、神の光は輝いている。「輝かせよ、主のともし火、われらの闇の中に。望みを主の手にゆだね、来るべき朝を待とう」と彼は歌います。いつ処刑されるかわからない不安の中にありながら、主にある平安を彼は喜びます「善き力に守られつつ、来るべき時を待とう。夜も朝もいつも神は、われらと共にいます」。神がわれらと共にいませば、それでいいではないか。4ヵ月後の1945年4月に処刑されて、彼は39歳の若さで死んで行きます。

 

3.キリストのために苦しむ恵み

 

・今日の招詞にフィリピ1:29-30を選びました。次のような言葉です「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。あなたがたは、私の戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです」。パウロは今キリストの福音を伝えた故に獄にいます。福音は時として迫害をもたらします。

・イエスは安息日に病人を治療してはいけないという律法を知りながら、目の前に病人を憐れみ、いやされました。らい病人には触れていけないという掟があっても、愛の故にそれを無視されました。だから律法を重んじるユダヤ人たちはイエスを捕らえました。ローマ帝国は皇帝を神として拝めと求め、パウロはこれを拒否したため、帝国はパウロを捕らえました。キリストに従うとする時、世から迫害を受けることはあり、迫害を受けた時、私たちは日常の平和から、非日常の苦難の中に入ります。しかし、その苦難が神ゆえのものであることを知る時はもう怖れません。

・パウロの言葉はボンヘッファーを慰めましたが、鈴木正久という日本人牧師にも死を超えた希望を与えています。日本基督教団議長を務めた鈴木正久牧師は死が避けられないことを知り、嘆きます。その彼を再び立ち上がらせたのは、フィリピ書でした。鈴木牧師は語ります「フィリピ人への手紙を読んでもらっていた時、パウロが自分自身の肉体の死を前にしながら非常に喜びにあふれて他の信徒に語りかけているのを聞きました・・・パウロは、生涯の目標を自分の死の時と考えていません。それを超えてイエス・キリストに出会う日、キリスト・イエスの日と述べています。そしてそれが本当の「明日」なのです。本当に明日というものがあるときに、今日というものが今まで以上に生き生きと私の目の前にあらわれてきました」(鈴木正久・病床日記から)。「神が共にいてくださる」ことを知る時、牢獄もまた喜びの場になります。キリストを信じる者にも死は恐怖です。しかし、その恐怖は神が取り去って下さいます。信仰のある者と無い者の違いは、いざと言う時に絶望に押しひさがれるか、それとも神による救いを見出すかです。パウロは語ります「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」。

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