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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2019年6月9日説教(使徒言行録2:1-13、言葉の奇跡が起きた)

投稿日:2019年6月9日 更新日:

 

2019年6月9日説教(使徒言行録2:1-13、言葉の奇跡が起きた)

1.待つ群れへの聖霊降臨

 

・聖霊降臨節を迎えました。ペンテコステ、元来は過越し祭りから50日目の麦の収穫感謝祭(ユダヤ教の五旬祭)でしたが、この日に、イエスの弟子たちに聖霊が下り、弟子たちの宣教を通して多くの人が回心し、教会が生まれた日としてお祝いするようになりました。具体的には弟子たちが「異なる言葉」で話始め、その結果、エルサレムで生まれた福音「キリストの教え」が言葉の壁、民族の壁を超えて伝わり始める、という出来事が起こりました。それがペンテコステです。使徒言行録2章はその日に起こった出来事を記しています。

・使徒言行録は、十字架で死なれたイエスが三日目に甦り、その後40日間弟子たちと共にいて、聖霊が与えられるまでエルサレムに留まるように指示されたと伝えます「エルサレムを離れず、前に私から聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」(使徒1:4-5)。40日後、イエスは昇天されました。残された弟子たちは、一同に集まり、聖霊を与えてくれるように祈り続けます。その祈りに答えて、神の力、聖霊が与えられたとルカは記します。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(使徒2:1-3)。

・現代の私たちには理解できない表現を用いて、ルカは聖霊降臨の出来事を伝えようとしています。「激しい風が吹いてきた」、風の原語はプノエ、霊はプネウマです。「炎のような舌が見えた」、舌はグロッサで、その複数形グロッサイは言葉です。つまり、霊=プネウマが風=プノエのように下り、舌=グロッサが言葉=グロッサイを与えたとルカは説明しています。「風」、「火」、「現れる」等の表現は、旧約聖書では、「神の臨在」を示す言葉です。風は見えないが感じることが出来る、見えない聖霊が風のように弟子たちに下り、その霊によって弟子たちに語る言葉が与えられたという意味です。ルカは記します「一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」(2:4)。「ほかの国々の言葉」、原文をそのままで訳すと、「異なる言葉」、になります。

・エルサレムには外国生まれのユダヤ人たちや、ユダヤ教に改宗した異邦人たちが数多く住んでいました。ユダヤは何度も国を滅ぼされ、その度に人々は外国に散らされてそれぞれの地に住み、その子孫たちが祭りにエルサレム神殿に参拝するため、故国に帰っていたと思われます。彼等はヘレニスタイと呼ばれ(6:1)、コイネーと呼ばれる俗語ギリシャ語を話していました。大きな物音にびっくりして弟子たちのいた家の周りに集まった人々は、ガリラヤ出身の弟子たちが自分たちの国の言葉で(すなわちギリシャ語で)、語っているのを聞き、驚いて言います「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうして私たちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか」(2:7-8)。ルカは続けて報告します「私たちの中には・・・ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」(2:9-11)。人々は驚き、とまどいました。

 

2.弟子たちが伝わる言葉で語り始めた

 

・実際に何が起きたのかはわかりません。しかしルカの報告を通して、二つのことを知ることができます。その一つは臆病だった弟子たちに、語る力が与えられたことです。弟子たちはイエスが捕らえられた時、その場から逃げ出しました。弟子の一人ペテロは心配になってイエスの後をついて行き、大祭司の屋敷まで行きましたが、そこで女中に見とがめられます「あなたもイエスの仲間だ」(ルカ22:56)。ペテロは激しく否定します「そんな人は知らない」。他の人もペテロを仲間だと言いましたが、ペテロは否定します。そして三度目に否定した時、鶏が鳴きました。ペテロは「この人こそメシア」と慕っていたイエスを裏切りました。自分も殺されるかも知れないという恐怖の前に、ペテロは過ちを犯しました。ほんの50日前、夜の闇の中で女中にさえ語ることの出来なかったペテロが、群集を前にイエスのことを語り始めたという奇跡が起きたのです。神の霊はちりに命の息吹を吹き込み、人間を創造しました(創世記2:7)。今また、神の霊は臆病であった弟子に命を吹き入れ、大胆に語る賜物を持った新しい人間を創造しました。語ることの出来なかった人々が、語るための舌を与えられた。それがペンテコステの日に起こった出来事の意味の一つです。

・もう一つの出来事の意味は、「神が為された偉大な業」(2:11)を、人々にわかる言葉で伝えることができたということです。ルカは「"霊"が語らせるままに、(弟子たちが)ほかの国々の言葉で話しだした」と記しますが、おそらく弟子たちは、外国生まれのユダヤ人や異邦人改宗者も理解できる当時の共通語であるギリシャ語で語り始めたのでと思えます。イエスや弟子たちが日常に用いていた言葉は、ヘブル語またはその方言であるアラム語です。他方、外国に住む、あるいは外国から帰国したユダヤ人たちは、ヘブル語を理解せず、ギリシャ・ローマ世界の共通語であるギリシャ語しか話せませんでした。その彼等に福音を伝えるにはギリシャ語で話すしかない。弟子たちの出身はガリラヤですが、その地は「異邦人のガリラヤ」と呼ばれたほど、ギリシャ化が進み、弟子たちの何人かはギリシャ語を話すことが出来たのでしょう(今日のヨーロッパの人々が母国語はもちろん、共通語である英語を話せるのと同じです)。弟子たちがイエスの受難と復活をギリシャ語で語った結果、その言葉は人々に伝わり、その日に3千人が洗礼を受けたとルカは記します(2:41)。

・このギリシャ語を話すユダヤ人たちが、やがて福音宣教の担い手になります。使徒8章でエルサレム教会にユダヤ教会からの迫害が行われたことが記されていますが、この迫害の結果、ギリシャ語を話すユダヤ人たちがエルサレムを追われ、サマリアやシリア、さらにはアジア地方にまで伝道を行い、その結果、福音が民族、国境を超えて広がっていきます。ルカはその歴史を踏まえて、ペンテコステの出来事を書き記しているのです。

 

3.福音の真理は言葉を超える

 

・聖霊は、教会が福音(良い知らせ)を持って、人々のところに出て行く力を与えます。その行為は、当初は戸惑いと疑いと嘲りを招くでしょうが、やがて少数の人々であれ、存在の根底から悔い改めさせる力を持ちます。今日の招詞に使徒1:8を選びました。次のような言葉です。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、私の証人となる」。昇天するイエスが弟子たちに託した言葉です。福音は神の業の目撃証言を通して伝わり、その証しは言葉を通して語られます。その証言を集めたものが新約聖書で、その新約聖書がギリシャ語で書かれたことは、考えれば不思議です。何故ならイエスも弟子たちもアラム語で語っていたからです。アラム語で語られた出来事が、ギリシャ語という当時の共通語で書き記されることを通して、福音が世界に伝えられていった、その出発点がペンテコステの日に起こった「異なる言葉」の奇跡でした。

・イエスや弟子たちの証言集であった新約聖書はギリシャ語で書かれましたが、キリスト教がローマ帝国の公認宗教になると、やがて帝国の原語「ラテン語」に翻訳され、ラテン語聖書(ウルガタ)が権威を持つようになります。ただ民衆はラテン語がわからず、聖書が何を語っているのかを理解できませんでした。その壁を破ったのが、宗教改革です。イギリスではウィクリフが聖書を英語に翻訳し、ドイツではルターによりドイツ語聖書に生まれ、それがグーテンベルクの発明した印刷術によって、世界各地に伝えられていきます。宗教改革を起こしたものは、各国語に翻訳された聖書の力でした。日本ではキリシタン時代に最初に日本語聖書翻訳がなされました。1837年に出されたギュツラフ訳ヨハネ福音書です。この聖書翻訳は日本から漂流した三人の船乗りの協力で為され、三浦綾子著「海嶺」に詳しく報告されています。その後、明治になってキリスト教の布教が許されるようになると、多くの外国人宣教師が日本を訪れ、聖書の翻訳を手がけるようになります。その一人がマタイ福音書を翻訳したヘボンで、彼はローマ字表記の考案者としても有名です。それから150年、現在の私たちは多くの日本語訳聖書を持つことを許されています。

・最近出た新しい翻訳の一つが、山浦玄嗣(はるつぐ)氏のケセン語訳聖書です。ケセン語は東北・気仙地方の方言で、使う人口も少ない言葉です。山浦さんは岩手県大船渡市のカトリック医師ですが、ある時教会で「マタイ福音書・山上の説教」をケセン語で読んで聞かせた所、ある老婦人が涙を流して、「今日ぐらいイエス様の気持ちがわかったことはなかった」と彼の手を掴んで感謝したことから、50歳を超えて聖書の原語であるギリシャ語を学び、翻訳を始めたというのです。何とかイエスの心を伝えたい、その熱情がケセン語聖書を生みました。その山浦さんの熱情が別の回心者を生んでいきます。常盤台教会の会員であった太田雅一兄は、教会に講演で来られた山浦玄嗣さんの証しを聞いて、自分もギリシャ語を学びたいとして東京バプテスト神学校に入学され、やがて牧師になられました。伝わる言葉は奇跡を生んでいくのです。使徒言行録2章1-13節の短い文章の中に、「聞く」という言葉が繰り返されています(2節、6節、11節)。理解できる言葉で話された福音は、「聞かれる」ことによって伝わって行きます。使徒言行録によれば、この日、3000人が、ペテロの「悔い改めてバプテスマを受けなさい」という勧めに応えて、バプテスマを受けたとされています(使徒2:41)。教会が説教を大事にするのも、会衆が「聞く」ことによって、回心の奇跡が起きるからです。教会とは、「神のみ言葉が語られ、神のみ言葉が聞かれる」共同体なのです。キリスト教信仰は、教会という共同体を通しての、交わりの信仰なのです。

・ペンテコステの日に弟子たちに聖霊が下り、彼らに語る力が与えられ、普遍的な言語であるギリシャ語で福音が述べ伝えられ、聞かれました。その聖書が最初にラテン語に翻訳され、さらには英語やドイツ語に翻訳され、今では日本語にも翻訳され、言語の力が福音を世界に伝えました。そして今でも、多くの人々が、異なる言語の人々に福音を伝えたいとして活動しています。先日不幸な事件のありましたカリタス学園は、もともとカナダのケベックに設立されたカリタス修道会が、1960年に三人の修道女を日本に派遣して設立されたとのことです。その三人の修道女たちは、来日当初は日本語が話せなかった。福音を伝えるために必死に言葉を学び、それが実って学校設立まで至った。ペンテコステの奇跡は現代でも起こり続けているのです。

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