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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2019年1月6日説教(ルカ3:7-20、先駆者ヨハネ)

投稿日:2019年1月6日 更新日:

2019年1月6日説教(ルカ3:7-20、先駆者ヨハネ)

 

1.先駆者ヨハネの教えたこと

 

・2019年度私たちはルカ福音書を読んでいきます。ルカはイエスの公生涯を洗礼者ヨハネについての記事から始めます。洗礼者ヨハネはイエスが世に出られることを助けました。ヨハネがヨルダン川のほとりで、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ3:2)と宣教を始め、多くの人々がヨハネの元に集まり、「罪の赦しのバプテスマ」を受けました。その中に、ガリラヤのナザレから来られたイエスがおられ、後にイエスの弟子となるペテロやアンデレもいました。イエスはその最初に、ヨハネの弟子として宣教の生涯を始められ、ヨハネがヘロデに捕らえられた時、ご自分の時が来たことを悟られ、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)とご自身の宣教を始められます。イエスはヨハネの下で準備をされてから、宣教の業をお始めになったのです。

・ルカは洗礼者ヨハネが現れたことを次のように記します「皇帝ティベリウスの治世の第十五年に・・・神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」(3:1-2)。皇帝ティベリウスは初代皇帝アウグストゥスの養子で、第2代ローマ皇帝です。皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ヨハネが宣教を始めたのは紀元28年から29年ごろのことになります。その時、歴史に記すべき重大なことが起こった、「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」とルカは記述します。ヨハネは「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝え」(2:3)ました。「洗礼」はギリシア語で「バプテスマ」、「水に沈めること、浸すこと」を意味します。ヨハネのバプテスマとは、ヨルダン川に全身を沈めるものでした。一度水の中に沈んで死に、そこから立ち上がって新たな命に生きる。「悔い改め」はギリシア語「メタノイア」、心の向きを変える、回心を意味します。「心の向きを変えれば罪が赦される、だから神に立ち返れ」とヨハネは叫んだのです。そして悔い改めの告白をした者に、ヨハネはバブテスマを授け、罪の赦しを宣言しました。

・3章7節から、洗礼を受けに来た人々に対するヨハネの言葉が記してあります。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ・・・斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(3:7-9)。厳しい裁きのメッセージです。ヨハネは、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、「悔い改めない者は裁かれる」と宣言しました。

・なぜ悔い改める必要があるのか。人はみな罪人だからです。罪=ハマルティアとは、「的をはずす」、自分を創り、生かしてくださる神の方を見ないで、自分の方だけを見ることが罪です。自分のことだけを見つめ、自分の願い、自分の欲望の実現だけを求めて生きる時、隣人はむさぼりの対象となっていきます。「金の切れ目が縁の切れ目」、「役に立たないものは捨てる」、そのような人間関係から、人と人との争いが生じます。その根本部分を悔い改めること、自分が罪人であることを認めること、救いはそこから始まるとヨハネは言っています。

・斧は既に木の根元に置かれている、このままでは滅びるとのヨハネの宣告に、人々は驚き、恐れ、尋ねます「私たちはどうすればよいのですか」(3:10)。ヨハネは彼らに答えます「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」(3:11)。下着を二枚持つ、裕福な、ゆとりのある生活ではない。その中で分かちあっていけとヨハネは言います。次に「徴税人」が来て尋ねます「先生、私たちはどうすればよいのですか」。彼らに対してヨハネは答えます「規定以上のものは取り立てるな」。「徴税人」はローマ帝国のために同胞から税を取立て、規定以上に取り上げた分が彼らの取り分とされていました。そのため不正な取立てをする者も多く、民衆から嫌われていました。兵士たちも尋ねます「私たちはどうすればよいのですか」。彼らにヨハネは言います「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」。彼らは少ない給与を補うために、民衆を脅して金を取っていました。その兵士たちにヨハネが語ったのは、「自分の給料で満足せよ、人から貪るな」ということでした。ヨハネは徴税人や兵士に向かって、仕事を辞めることを要求しません。「悔い改めにふさわしい実」として必要なことは、修道院に行くことではなく、断食することでもなく、今、自分の置かれた場で神の心にかなう生き方、隣人と共に生きることだと言います。

 

2.来るべき方を指し示すヨハネ

 

・ヨハネの出現は、メシアを待ち望んでいた人々に大きな期待を与えました。このヨハネこそ待望されていた「メシア」ではないかと人々は期待しました(3:15)。それに対してヨハネは、「自分はメシアではない」と答えます。彼は語ります「私はあなたたちに水で洗礼を授けるが、私よりも優れた方が来られる。私はその方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」(3:16-17)。

・ヨハネは「自分は「水による洗礼を授けるが、その方は『聖霊と火による洗礼』を授けられる」と言います。「聖霊と火による洗礼」とは何でしょうか。「霊」はギリシア語「プネウマ」で、「風、息」を表します。「風と火」のイメージは本来、裁きのイメージです。収穫された麦は叩いて殻を外しますが、そのままでは実と殻が混ざった状態です。種と殻の混ざったものを空中に放り上げると、殻は軽いので「風」に飛ばされ、重い実だけが残ります。そして殻は集めて焼かれる、神の裁きを示します。洗礼者ヨハネが予告した「来られる方」は、神の裁きをもたらす人でした。ヨハネは裁き人の到来の前に、人々に回心することを呼びかけたのです。

・しかし、メシアとして来られたイエスは、裁き人ではありませんでした。地上のイエスは、神の赦しを説かれました。ヨハネはこの後、ヘロデに捕えられ(3:20)、獄中でイエスの活動の様子を弟子たちから聞き、「罪人を裁くのではなく、赦していく」やり方に疑問を感じ、弟子たちを派遣します「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」(7:20)。それに対してイエスは答えられます「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」(7:22)。ルカは語ります「イエスは私たちの罪のために、十字架で贖罪の死を死なれた。そのことによって、私たちの罪は赦された」と。ここに自分を見つめるのではなく、神を見つめる生き方が示されました。そのことを知った時、私たちも「聖霊による洗礼」を受けるのです。

 

3.自分を愛するように隣人を愛することこそ礼拝だ

 

・今日の招詞にマタイ25:40を選びました。次のような言葉です「そこで、王は答える『はっきり言っておく。私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである』」。最後の審判についてイエスが述べられた言葉です。イエスは十字架を前に弟子たちに話されました「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来る時、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」(マタイ25:31-33)。イエスは続けられます「王は右側にいる人たちに言う『さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、私が飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれたからだ』」(マタイ25:34-39)。そしてイエスは言われます「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのだ」。

・洗礼者ヨハネは人々に教えました「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ」、「規定以上のものは取り立てるな」、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな」。ヨハネの語る「悔い改めにふさわしい実」とは、自分の置かれた場で神の御心にかなう生き方をすることでした。それをマタイの文脈で言い直せば「飢えている人に食べさせ、のどが渇いている人に飲ませ、旅をしている人に宿を貸し、裸の人に着せ、病気の人を見舞い、牢にいる人を訪ねる」行為です。生活の中での愛の実践です。今まで隣人の欠乏を苦にもしなかった私たちが、隣人の困窮に気付き、一つのパンを二つに分けて片方を相手に差し出した時、私たちは「悔い改めにふさわしい実」を得ます。

・「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」という言葉は、多くの人々を動かして来ました。レフ・トルストイはこの言葉を読んで、「愛あるところに神あり」(靴屋のマルティン)という民話を書きました。トルストイは目の前にいる、困っている人こそイエスなのだと気づきました。マザーテレサは言います「この世で最大の不幸は、戦争や貧困などではありません。人から見放され、自分は誰からも必要とされていないと感じる事なのです」。

・この隣人愛の実践が社会を変えていきました。ロドニー・スターク「キリスト教とローマ帝国」によれば、ローマ時代には疫病が繰り返し発生し、死者は数百万人にも上り、人々は感染を恐れて避難しましたが、キリスト教徒たちは病人を訪問し、死にゆく人々を看取り、死者を埋葬したそうです。この「食物と飲み物を与え、死者を葬り、自らも犠牲になって死んでいく」信徒の行為が、疫病の蔓延を防ぎ、人々の関心をキリスト教に向けさせたとスタークは考えています。彼はテキストの最後に述べます「キリスト教が改宗者に与えたのは人間性だった」と(p271)。この生活の中での愛の実践、それこそがイエス・キリストに従う者にとってのふさわしい行為なのです。

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