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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2019年1月13日説教 (ルカ4:16-30、主の恵みの年を実現するために)

投稿日:2019年1月13日 更新日:

2019年1月13日説教 (ルカ4:16-30、主の恵みの年を実現するために)

 

1 故郷ナザレでのイエスの宣教

 

・イエスはヨルダン川で洗礼を受けられた後、ガリラヤに戻られ、その地で宣教の業を始められました。ルカは記します「イエスは"霊"の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた」(4:14-15)。ガリラヤ各地を巡回された後、イエスは生まれ故郷のナザレに行かれました。各地でのイエスの言葉と癒しの業は、評判となり、ナザレにも伝わっていましたから、人々は郷里出身の評判の預言者の話を聞こうと、会堂に集まって来ました。当時のユダヤでは、安息日に人々は会堂に集まり、最初に律法(モーセ五書)が読まれ、その後に預言書が読まれました。会堂に入られたイエスは係りの者から巻物を渡され、読まれました。預言書イザヤ61章の箇所でした。その箇所が、ルカ4:18-19に再録されています。もう一度確かめてみましょう。

・「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。イエスが聖書を読み、席に着かれると、会堂にいるすべての人の目が、イエスに注がれました。何事かを期待する目でした。当時のユダヤの人々は約束の成就を待ち望んでいました。ユダヤは、ローマの植民地であり、ローマへの税金と、ローマが任命した領主への税金の二重の取り立てがあり、もし払えなければ妻や子を売り、それでも払えなければ投獄されました。

・また、多くの人々は自分の土地を持たない小作人でした。地主は都市に住む貴族や祭司たちで、彼らは収穫の半分以上を徴収しました。ですから小作人の手元に残るものは少なく、豊作の時でさえ食べてゆくのがやっとで、天候が悪く凶作になれば飢え、病気になれば医者にもかかれず死ぬばかりの生活でした。ですから彼らはひたすら救い主を待ち望み、この生活が変えられる日を待望していました。その彼らが注目する中で、イエスは「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき実現した」と話されたのです。「救いが今ここに来た」と宣言されたのです。

 

2 イエスの真の姿を見ようとしないナザレの人々

 

・イエスは人々の困窮を憐れんでイザヤ書「主の救いの年」の預言を語られました。同時にご自身がその困窮から人々を救い出す救い主であることを宣言されました。19節「主の恵みの年」は、「ヨベルの年」を指しています。ヨベルの年についてはレビ記25:8-17に書かれていますが、古代のイスラエルでは50年ごとに債務が免除され、奴隷は解放される定めがありました。そのとき雄牛の角で出来た笛(ヨベル)を吹きならして知らせたので、ヨベルの年と呼ばれました。そのいわれは、エジプトで奴隷として苦しんでいた民が主に救われ、今のような安泰な生活ができる。だから感謝のしるしとして、苦しんでいる人々の債務を赦してあげ、奴隷も解放しなさいという規定です。

・イエスは言われました「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき実現した」、今、そのヨベルの年が来ている。あなた方の債務は免除され、苦しみから解放される。今、それを知らせるために、父なる神から油を注がれた私が、ここに来ていると宣言されたのです。それを聞いた人々はその言葉に感動してイエスを讃えます「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いた」(4:22)。しかし、人々が求めたのは病の癒しであり、貧からの解放でした。それに対してイエスは、「神の言葉に信頼せよ」と言うだけで何も具体的なしるしを行わない。だから人々はつぶやき始めます。「この人はヨセフの子ではないか」(4:22)。大工のヨセフの子、自分たちと同じく貧しく、地位も権力もないヨセフの子が、なぜ解放の約束ができるのか。彼には私たちを解放する財力も権力もないではないか。一度は感動した彼らですが、イエスの中に預言者ではなく、大工の子を見てしまった時、イエスの言葉を聞けなくなってしまいました。ナザレの人々は父ヨセフのことも、母マリアのことも、その兄弟たちも知っています。また、イエスの子ども時代のこともよく知っていた。そのため心がくもって、イエスの真の姿が見えなくなってしまった。その結果、イエスが彼らのために用意された恵みと救いの言葉は、彼らの心には届きませんでした。何よりも一番大事なこと、信じる心が欠けていたのです。

・イエスは彼らに言われます。「あなたがたは『医者よ,自分自身を治せ』と言うことわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない」(4:23)と言われ、さらにつけ加えて「預言者は自分の郷里では歓迎されないものだ」(4:24)と言われました。イエスは目に見えるものしか信じようとしない、彼らの心を見透かされていたのです。ルカはイエスのナザレでの出来事を通して、心の目を開かなければ、真実は決して見えないことを教えているのです。

 

3 預言者は郷里で受け入れられなくとも

 

・今日の招詞にヨハネ6:35-36を選びました。次のような言葉です。「イエスは言われた。『私が命のパンである。私のもとへ来る者は、けっして飢えることがなく、けっして渇くこともない。しかし、前にもいったように、あなたがたは、私を見たのに信じない。』」イエスはナザレでは「何のしるしもできなかった」、あるいは「されなかった」とマルコも記します。ナザレの人々がイエスに求めたものは、目に見えるしるしでした。イエスは言われます「カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ」とあなた方は求めていると。人々はイエスに、病気を治し、石をパンに変えて腹一杯食べられるような奇跡を求めたのです。しかしイエスは拒否されました。だからナザレの人々は怒り始めたのです。

・イエスは村人に霊のパンを与えようとされましたが、人々は物質的なパンを求めました。イエスは人々にお互いが愛し合って生きることのできる神の国を与えようとされましたが、人々はローマの支配から自由な地上の王国を欲しました。ナザレの人々はせっかくイエスを自分たちの村の会堂に迎えたのに、イエスを否定してしまいました。私たちはこの物語をどうきくのでしょうか。私たちはイエスに何を求めているのでしょうか。私たちは自分たちが捕らわれており、目が見えず、圧迫され、債務を負っていることを本当に知り、それからの解放を求めているのでしょうか。私たちは本当にナザレでイエスが宣言されたように、「神の国は来た、解放の時は来た」と受け止めているのでしょうか。もし、そうならば何故私たちから応答の行為が出ないのでしょうか。

・ルカ4章のイエスの言葉を文字通り受け止めて行動した人々がいます。ジュビリー2000の運動を推し進めた人たちです。ジュビリーとはヘブル語「ヨベルの年」の英訳です。西暦2000年、イエス生誕2000年はヨベルの年、主の恵みの年でした。イギリスの聖公会を始めとするキリスト教諸団体が、発展途上国の累積債務免除運動を主の恵みの年の具体化として始めました。アフリカや中南米等の最貧国と言われる国々は、先進国からの債務の返済が国家予算の半分以上を占め、教育や福祉のお金を削って債務の返済を行っていました。その結果、貧しいものがさらに貧しくなるという悪循環の中にあり、これを打破するには累積債務の免除を行うしかないとして、教会は国連や先進諸国に働きかけました。99年のケルンサミットの時には1700万人の署名を集めて、債務の一部削減を合意させます。そして翌年の沖縄サミットでは貧困国のためのエイズ基金の設置が合意され、エイズ治療薬を無料で配布できるようになりました。エイズは治療薬の開発により先進国ではエイズは普通の病気になりましたが、薬を買えない貧しい国では依然死病でした。この基金の創立により、多くの命が救われるようになります。祈りが行為となった。これこそ私たちが目指すべき事柄ではないでしょうか。信仰の具体化です。

・「預言者は郷里で受け入れられない」、それは現在でもそうです。キリスト者は神の言葉を預かり、世を改める新しい世界観を世に示す役割を担っています。しかし人々はそんなものは要らない、毎日を楽しく暮らせるものを欲しいと言います。それゆえにキリスト者は人々から理解され難い。それが日本の社会でキリスト者が少数派であり続ける原因の一つと考えられます。それでも私たちは伝道を続けたいと思います。マルコは、「(イエスは)そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」(マルコ6:5)と書きます。もし村人らがイエスを信じることができれば、イエスはもっと多くの業をされたであろうと彼は示唆します。信仰のないところでは神の祝福は限定されるのです。

・私たちは、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)ことを知っています。そして「求めなさい。そうすれば与えられる」(ルカ11:9)ことも知っています。例え私たちが少数であっても、私たちは何かが出来るのです。そのことを私たちが信じた時、神はあふれるような祝福を、「私はあなたたちのために、天の窓を開き、祝福を限りなく注ぐであろう」(マラキ3:10)といわれたような出来事が生じます。パウロは言いました「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」(第一コリント1:21)。この宣教の言葉を私たちはイエスから委ねられ、述べ伝えていくのです。

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