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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2019年1月1日説教(ルカ4:1-13、主への道としての試練)

投稿日:2019年1月1日 更新日:

2019年1月1日説教(ルカ4:1-13、主への道としての試練)

 

  • 荒野の誘惑

 

・新しい年を迎え、今年は元旦礼拝を持つことが出来ました。与えられた聖書箇所はルカ4章1-13節「荒野の誘惑」です。イエスはヨルダン川でバプテスマを受けられましたが、その時、天からの声を聞かれました「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」(3:21)。この時、イエスはご自分が神の子として、使命を与えられて世に遣わされたことを自覚され、「神の子として何をすべきか」を模索するために、荒野に行かれます。ルカはそのことを「イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた」(4:1)と記述します。神の霊がイエスを荒野に追い込んだ、神によってこの試練が与えられたとルカは書いています。その荒野で悪魔がイエスの前に現れます。ここでいう悪魔とは、イエスの心の中にあった思いでしょう。さまざまの人間的な思いの中でイエスは悩まれた、それが悪魔の試みとして記録されているように思えます。

・悪魔はイエスに三つのことをささやきます。第一のささやきは「石をパンに変えてみよ」との誘いです。イエスは40日の断食の後に、空腹になられました。悪魔はささやきます「お前は神の子であり、人々を救うために来たのであろう。今、多くの人々が食べるものも無く、飢えに苦しんでいる。もし、おまえがこれらの石をパンに変えれば彼らの命を救うことができるではないか」とのささやきです。これに対しイエスは言われました「人はパンだけで生きるのではない」。

・キリスト教は明治になって日本に伝えられましたが、海外から来た宣教師たちはライ病や結核にかかった病人が路傍に捨てられ、子どもたちは十分な教育を受けられない現実を見て心を痛め、本国からの資金援助で、各地に病院や学校を建てました。それから150年、キリスト教系の病院、たとえば聖路加病院や聖母病院等は、良心的治療で、今日でも高い評価を得ています。多くのミッションスクールが立てられ、白百合や聖心、また立教や青山等のミッションスクールは、今日でも熱心な教育をしてくれる学校として人気があります。150年間、多くの人たちがキリスト教系病院で治療を受け、キリスト教系学校で教育されましたが、ほとんどの人たちはクリスチャンになりませんでした。教育や医療、すなわちパンが与えられても、人々はそれをもらうだけで、与えて下さる神のことは考えなかったのです。ですからイエスは言われました「人はパンだけで生きるのではない」。パンは人を救いに導かないのです。

・次に悪魔は誘います「あなたが私にひれ伏すならば、この世の支配権をあげよう」。悪魔はささやきます「人々はローマの植民地支配に苦しんでいる。あなたがローマからユダヤを解放すれば、ここに神の国ができるではないか」。それに対してイエスは答えられました「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」。キリスト教はその誕生以来、迫害に苦しんで来て、多くの殉教者が出ました。その迫害を経て、4世紀にキリスト教はローマの国教になりますが、教会が支配者側に立った途端、堕落が始まります。迫害の300年間、教会は「剣を取るものは剣で滅ぶ」というイエスの教えを守り、信徒が兵士になることを禁じてきました。しかし、教会が支配者になると、教会の教えは変わり、「政府は神により立てられ、全てのキリスト者は政府に従うべきで、国家の秩序を守るためであれば戦争も許される」と教え始めます。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」(マルコ12:17)という聖書の教えに反する行為です。教会が地上の権力と手を結んだ瞬間から、福音が曲がって行きます。神の国はこの世には、地上にはない。私たちの地上でなすべきことは「人を拝むことではなく、主を拝む」事です。

・第三の誘惑は神殿の屋根から飛び降りてみよとの誘いでした。「おまえが神の子であれば、神が守ってくださる。この屋根から飛び降りて、神の子であるしるしを見せれば、多くのものが信じるだろう。そうすれば神の国を作れるではないか」とのささやきです。それに対してイエスは言われました「あなたの神である主を試してはならない」。人々は繰り返し、しるしを求めました。十字架のイエスに対しても人々は言います「神の子なら自分を救え。十字架から降りて来い」(マタイ27:40)。現代の私たちもしるしを求めます。「私の病気を癒してください」、「私を苦しみから救ってください」、「私を幸福にしてください」。この後には次のような言葉が続きます「そうすれば信じましょう」。私たちは信仰さえも取引の材料にしているのです。

 

2.この世で試みにあう私たち

 

・三つの誘惑には共通項があります。いずれも与えられた力を使って、地上に神の国を作れとの誘いです。「お前は石をパンに変える力を与えられた。民衆にパンを与えれば、彼らは喜んでおまえを王にする。お前はローマを倒す力を与えられた。ローマを倒してユダヤを独立国にしたら民衆は喜ぶ。お前は奇蹟を起こす力を与えられた。奇跡を起こせば、人々はおまえに従う」。「神の子であればその力を使え、十字架で苦しんでも何も生まれないではないか」との試みです。教会もまた同じ試みの中にあります。私たちは「地域に仕える」ことを教会の標語にしていますが、地域の人々が教会に求めるのは、病の癒しであり、苦しみからの解放です。目の前の苦難を取り除いて欲しい、それが地域の人々の願いです。

・荒野の試みを通して、私たちが知るのは、そのような求めに私たちが応じることが出来ても、そこには何も生まれないという事実です。パンは一時的な飢えを満たすかもしれませんが、やがてまた空腹になります。私たちがホームレスの方々の支援活動を行い、カウンセリング活動をすることは意味がありますが、教会の本質的な業ではありません。教会はあくまでも、解放の言葉である福音を宣べ伝え、福音の光の中で人々に自分の罪を知らせ、その罪を赦して下さるキリストを指し示すことを本来の使命とします。

・病の癒しも同じです。癒されれば、人々は一時的には幸福になりますが、やがて死にます。本当に必要なものは心の救い、平安です。福音はどのような状況の中でも、平安をもたらす力を持っています。これを信じて、福音伝道にまい進することこそが教会の使命です。また教会はこの世的な繁栄を求めるべきでないことも知らされます。私たちの教会は30人ほどの小さな集まりですが、100人、200人の大教会を目指すことが大事だとは思いません。人数は少なくても、一人一人が福音を生活の中で生きる、そのような共同体を目指したいと思います。

 

3.主からの鍛錬としての試み

 

・今日の招詞としてヘブル12:5-6を選びました。次のような言葉です「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」。イエスは試みの中で最後まで、ご自分の力を用いようとはされませんでした。ある人は言います「キリスト者にとって最大の誘惑は、試みに会った時、自分で勝とうとする、また勝ちうると思う、更には勝たねばならないと思う時だ」と。

・カトリックでは、祭司は独身を貫き、肉欲に打ち勝たなければいけないと勧めます。プロテスタントでは信徒に禁酒禁煙を勧め、それが清くなることだと言います。しかし、人が自分の力で試みに勝とうとする時、そこに罪が生まれます。カトリック教会では抑圧された性欲が少年に向かい、多く性的犯罪を生みました。プロテスタント教会では禁酒禁煙を守る人は他の人がお酒を飲み、たばこを吸うことを許すことが出来ず、裁きます。イエスは、自分はどうしようもない罪びとだと悲しむ徴税人の祈りを肯定されました「徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人の私を憐れんでください』。言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(18:13-14)。自分は正しいとして誇るファリサイ人の祈りは否定された。人が自分で試みに勝とうとする時、その心は神から離れます。試みに負けて打ちのめされ、どうしていいかわからなくなる時、人は始めて神に生かされている自分を見出します。試みに勝つ必要はない、試みを神からの鍛錬と受け入れればそれでよいのです。

・人生に試みは必要です。河野進という牧師がいます。50年間岡山のライ病院で奉仕した人です。彼の詩に「病まなければ」という歌があります。 “病まなければ聞き得ない慰めのみ言葉があり、捧げ得ない真実な祈りがあり、感謝し得ない一杯の水があり、見得ない奉仕の天使があり、信じ得ない愛の奇跡があり、下り得ない謙遜の谷があり、登り得ない希望の山頂がある”。自らが病むことによって始めて見えてくる世界があるのです。いろいろな試みがあります。ある人は重い病を与えられ、別の人は事業の失敗という挫折を与えられます。家庭の不和という苦しみを与えられる人もいます。しかし、苦しみの中で祈り、その祈りを通して、試みが私たちを導くために与えられたことを知る時、苦難や挫折の意味が変って来ます。ヘブル書は語ります「鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」(12:11)。試みこそが私たちを門の外で苦難に遭われた主へ(ヘブライ13:12)、そして救いに導くのです。私たちはこの年にも、様々の苦しみや悲しみがあるでしょう。苦しみや悲しみの多くは、人の心の闇がもたらすものです。その闇を取り除くために、私たちに何が出来るかを祈り求める1年でありたいと願います。

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