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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2017年4月16日説教(マタイ28:1-10、イースターの朝)

投稿日:2017年4月16日 更新日:

2017年4月16日説教(マタイ28:1-10、イースターの朝)

 

1.空の墓

 

・今日、私たちはイースター(復活祭)を祝います。イースターは教会にとって、クリスマスと同じく大事な日です。イエスは金曜日にローマの官憲よって十字架で殺され、ガリラヤから従って来た弟子たちは、「もう駄目だ、何の望みもない」と絶望していました。そのイエスが三日目によみがえり、弟子たちの前に現われます。当初、弟子たちは復活を信じることが出来ませんでしたが、イエスの声を聞き、体に触ることによって、イエスが本当に復活されたことを知り、イエスを「神の子」として礼拝するようになります。こうして、教会が生まれ、教会はイエスが復活された日曜日を「主の日」と呼んで、毎日曜日に礼拝を持つようになります。それが2千年後の今日でも継続され、私たちの行う日曜礼拝は全て、「復活記念礼拝」であり、その中心に位置するのが、「復活日=イースターの出来事」です。

・イエスは金曜日の朝9時に十字架にかけられました。その時、弟子たちは逃げていなくなっており、婦人たちだけが十字架の下にいました。午後3時にイエスが息を引き取られると、有力者であったアリマタヤのヨセフが、ピラトに願い出てイエスの遺体を引き取り、自分の墓に納めます。婦人たちは何も出来ず、ただ遺体が納められた墓を見つめていただけでした。翌土曜日は安息日であり、外出は禁止されていたので、婦人たちは安息日明けの日曜日の朝、香料と香油を持って、墓に向かいます。あわただしく葬られたイエスの遺体を洗い清め、ふさわしく葬りたいと願ったからです。しかし、墓の入り口には大きな石が置かれ、どうすればその石を取り除いて墓に入ることが出来るか、婦人たちはわかりませんでした。それでも婦人たちは墓へ急ぎました。

・墓に着くと、石は既に取り除いてあり、中に天使が座っているのを見て、婦人たちは驚き、怖れます。彼女たちは幻想を見ているのか。しかし、事実として、石は取り除かれ、遺体は墓の中にはありません。婦人たちは天使の声を聞きます「恐れることはない。十字架につけられたイエスは、ここにはおられない。復活なさったのだ・・・急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる』」(28:6-7)。婦人たちは恐れてその場を去りました。婦人たちが墓に来たのは、イエスの遺体を清めるためでした。イエスがよみがえられるとは、予想もしていません。だから怖れました。婦人たちは、「復活の出来事を弟子たちに伝えよ」と言われ、急いで帰り、報告しました。しかし、婦人たちの報告を聞いた弟子たちは「たわ言のように思えたので、信じなかった」(ルカ24:11)。婦人たちも弟子たちも思いもかけない出来事に動転していた様子を福音書は伝えます。

 

2.復活とは何か

 

・イエスの復活についての四福音書の記述は様々です。ただ、復活を信じることがいかに困難であったかについては、各福音書とも共通して伝えています。マルコはイエスの復活を告げ知らされた婦人たちが「震え上がり、正気を失った」と書き(マルコ16:8)、ルカは婦人たちの報告を聞いた弟子たちが「たわごとのように思われたので信じなかった」(ルカ24:21)と記します。マタイでは、復活のイエスに出会った弟子たちが「疑った」(マタイ28:17)とあり、ヨハネでは、報告を受けたペテロが遺体のなくなっている事を確認するために墓に急ぎますが、イエスの復活を信じなかったとあります(ヨハネ20:10)。復活はその出来事を直接目撃した人でさえ、信じることが難しい出来事だったのです。

・復活はそれが起こったどうかを客観的に証明することは出来ない事柄であり、私たちが信じるかどうかにかかっている信仰の出来事でもあります。荒瀬牧彦という牧師は青山短大で「キリスト教学」の講義を担当していますが、ある時復活について講義をした時の体験を語ります「ある短大のキリスト教学の授業で、復活の講義をした。聖書の復活記事を読み、『主はよみがえられたという叫びからすべては始まった』と話した。評者自身の復活信仰を交え、講義というよりは説教の調子で、情熱を込めて、説得的に語ったつもりだった。授業の後、聖書に関心を持ち、いつも良い応答をしてくれる学生は、苦笑して心底あきれたという口調で言った『本当にこんなこと信じているのですか』。アテネ伝道の挫折で打ちひしがれたパウロのような気分で教室を後にした」(本の広場2017年4月号、説教黙想書評より)。パウロのアテネ伝道の記事は使徒17章にあります。パウロがイエスの十字架と復活を語り始めると、アテネの「ある者はあざ笑い、ある者は、それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」(使徒17:32)と行って離れていきました。「本当にこんなこと信じているのですか」が、復活についての世間一般の考え方でしょう。

・「十字架と復活の言葉」は、どの時代、どの国においても嘲笑と拒否を招きます。それにもかかわらず、教会はこの福音を語り続けます。そこに真理があることを信じる故です。真理には客観的真理と実存的真理があります。客観的真理とは誰にでも理解しうる真理、科学的・実証的真理です。地球は丸い、人間は死ぬ、これらは誰にも異論のない、客観的真理です。それに対して、実存的真理とは、例えば「神が私たちを創造された」、「神が私たちを生かしておられる」、等の主観的な真理です。私たちが信じた時、それは真理となります。そして「真理は人を自由にする」(ヨハネ8:32)。仮に実存的真理を信じなくともとりあえずは困らない。しかし、信じた時、人生の意味が変わってきます。教会は、そのような真理があることを語り続けます。例えば、「隣人を愛せ」という言葉を考えた時、「隣人とはだれか」、「愛とは何か」、人によって受け取り方が異なるでしょう。しかし、本気で「隣人を愛そう」と思い、行動した時、人間関係が変化していきます。これもまた実存的真理です。

 

3.私たちと復活

 

・今日の招詞に1コリント15:3-5を選びました。次のような言葉です「最も大切なこととして私があなた方に伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてある通り、私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてある通り、三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」。聖書はイエスの復活を客観的に観察して、それが事実であることを論証しようとはしません。むしろ、そんなことは信じられないという人々が、信じかねるような事件に出会って、変えられて行った事実を伝えます。復活を目撃した人々によって教会の中に伝承が形成されていきます。「キリストが死んだこと、葬られたこと、三日目によみがえったこと、よみがえったキリストが弟子たちに現れた」ことという復活の伝承を、パウロは最も大切な教えとして受け、伝えると語ります。

・復活は信じることが難しい出来事です。しかし、この出来事が世界史を変えていきました。イエスが十字架で死なれた時、弟子たちは逃げて、そこにいませんでした。日曜日の朝、弟子たちは「家の戸に鍵をかけて閉じこもっていました」(ヨハネ20:19)。弟子たちはイエスを処刑した人々が、自分たちも捕えるのではないかと怖れていたのです。その弟子たちが、数週間後には、神殿の広場で「あなたたちが十字架で殺したイエスは復活された。私たちがその証人だ」と宣教を始め(使徒3:15)、逮捕され、拷問を受けてもその主張を変えませんでした。弟子たちの人生を一変させる何かが起こったのです。それが「復活のイエスとの出会いだった」と聖書は語ります。復活信仰は人を新たに生まれさせる力を持っています。

・ロシアの小説家ドストエフスキーは、若い頃に社会主義の影響を受けて、革命運動に参加し、逮捕され、シベリアへ流刑になりました。流刑地で読むことを許されていた書籍は聖書のみであり、彼は4年間の獄中生活の中で、聖書、特に福音書を繰り返し読みます。そしてある時、「時が歩みを止める」体験をします。2000年前に書かれた聖書の出来事が、「今ここにある」出来事として甦り、時空を超えてイエスに出会う体験をしたのです。そして聖書を通して、世の出来事の意味がはっきりと見え始め、それを作品として発表し、その作品は多くの人々に人生を変えるほどの衝撃を与えるようになります。「罪と罰」、「白痴」、「悪霊」、「カラマーゾフの兄弟」等の名作が生まれた背景にあるのは彼の復活体験だと言われています。流刑地での聖書との出会いが無ければ、彼の作品は生まれず、彼の作品を通して信仰に導かれる人もいなかったでしょう。神は、シベリア流刑という不幸な出来事を通して、ドストエフスキーを祝福されたと私たちは思います。

・私たちは復活のメッセージの持つ豊かさを思い起こします。キリストの復活を信じる時、人生の意味は変わってきます。キリストは十字架上で権力者によって殺されました。しかし、神はそのイエスを「死人の中から起こされた」、神は悪をそのままには放置されないことを、私たちは復活を通して知ります。世はまるで神などいないような現実を示しています。しかし、どのような悪があろうとも、その悪はいつかは終わることを信じますから、私たちは悪に屈服しません。どのような困難があっても、神が共にいて下さるゆえに、私たちは絶望しません。神が必ず道を開いて下さることを信じるからです。私たちが復活を信じるということは、この世界が究極的には、「神の支配される良き世界」であることを信じることです。その信仰が希望をもたらし、希望は私たちに行動をもたらします。復活信仰は人間に生きる力を与え、人を「幸せな人生」ではなく、「意味のある人生」に導くのです。

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