招詞 (詩編103編8節)「主は憐れみ深く、恵みに富み/忍耐強く、慈しみは大きい。」
恵みの神のご性質
・みなさん、おはようございます。復活節第三主日の朝を迎えました。
先ずは、招詞をご一緒にお読みしたいと思います。
「主は憐れみ深く、恵みに富み/忍耐強く、慈しみは大きい。」(詩編103編8節)
ありがとうございます。
招詞の御言葉は、主なる神のご性質を端的に表しています。
それは、主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみに満ちておられるお方です。
この旧約聖書の証しは、単なる理念ではなく、神が歴史の中で繰り返し示してこられた現実です。
イスラエルの民が幾度となく神に背き、信仰から離れ去ることが繰り返されましたが、
主なる神はなおも彼らを見捨てることなく、憐れみと恵みをもって導き続けてこられました。
「忍耐強く、慈しみは大きい。」という表現は、神がすぐに怒るのではなく、忍耐強く待ち、
民の悔い改めを待ち続けて、受け入れる姿勢を示しています。
出エジプト記34章6節でも
「主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、
忍耐強く、慈しみとまことに満ち、」
と記されています。神のご性質が繰り返し語られています。これも単なる理念ではなく、
神が歴史の中で何度もイスラエルの民を赦し、導いてきた現実です。
神の恵みは、私たちが困難や過ちを犯した時にも、変わらず注がれ続ける普遍的なものです。
神の憐れみと忍耐、そして慈しみは、私たちの信仰の根幹であり、希望の源です。
ミカ書7章18節にも
「あなたのような神がほかにあろうか/咎を除き、罪を赦される神が。
神は御自分の嗣業の民の残りの者に/いつまでも怒りを保たれることはない
/神は慈しみを喜ばれるゆえに。」
この御言葉も、神が赦しと慈しみを根本的な性質として持っていることを示しています。
また、ネヘミヤ記9章17節にも神の本質が語られています。
「聞き従うことを拒み/彼らに示された驚くべき御業を忘れ/かたくなになり
/エジプトの苦役に戻ろうと考えた。しかし、あなたは罪を赦す神。恵みに満ち、憐れみ深く
/忍耐強く、慈しみに溢れ/先祖を見捨てることはなさらなかった。」
このように、旧約聖書の中で繰り返し神の寛容さ、赦し、慈しみが強調されています。
これらの御言葉は、神が単に厳格な裁き主ではなく、むしろ赦しと慈しみをもって人々を包み、
忍耐強く導き続ける存在であることを教えています。神の本質は、私たちが弱さや過ちを抱えていても、
変わらぬ愛と恵みを注ぎ続けることにあります。
こうした聖書の証しは、私たちが希望を持って神に立ち返ることができる根拠となっています。
そしてこの神のご性質が、最も明確に、決定的に現されたのが、
新約聖書における主イエス・キリストの到来です。
使徒パウロはテトスへの手紙において、こう宣言します。
「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。」(2:11)
ここに、旧約から新約へと貫かれる一つの真理があります。
それは、神は本質的に「恵みの神」であり、その恵みはイスラエルばかりではなく、
ついにすべての人々に、そして世界のすべての国々に向けて現された、ということです。
私たちの信仰は、この恵みの神に根ざしています。
恵みがもたらす新しい生
・この神の恵みは、単に私たちの罪を赦すという一点にとどまりません。
パウロは続けて、「その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、
正しく、信心深く生活するように教え、」(2:12)とこの恵みが私たちを「教え・訓練する」と語ります。
すなわち、神の恵みは、私たちの生き方そのものを変えていく力でもあるのです。
不敬虔を捨て、この世の欲を離れ、慎み深く、正しく、敬虔に生きるようにと導かれています。
さらに、年老いた男性、年老いた女性、若い女性、若い男性、そして奴隷・僕に至るまで、
それぞれの生活の場において、具体的な姿が示されています。
ここで私たちが心に留めるべきは、信仰とは、礼拝の時だけのものではないということです。
家庭において、職場において、学校において、地域においても、日々の営みの中で、
神の恵みに生かされた者としての姿が問われているのです。
しかし同時に、ここで誤ってはならないことがあります。
それは、これらの生き方が、救いの条件ではないということです。
私たちは良い行いによって救われるのではありません。むしろ、救われた者として、
恵みによって新しくされ、良い行いへと導かれるのです。
恵みが先にあり、行いはその実として後に続くのです。
洗礼(バプテスマ)も同様です。私たちクリスチャンは、イエス・キリストの十字架の贖いによって救われました。そしてイエスを救い主・主と信じる信仰が与えられ、
その救いの恵みの応答として洗礼(バプテスマ)を授かるのです。
洗礼(バプテスマ)によって救われるのではありません。
救われた恵みの証しとして洗礼(バプテスマ)を授かるのです。
洗礼(バプテスマ)は、私たちがイエス・キリストを信じて救われた恵みに対する、最初の応答です。
これは、新しい人生の出発点であり、自分の古い生き方を水に沈め、
キリストと共に新しく歩み始めることを象徴しています。
私たちは、自らの力や行いによって洗礼(バプテスマ)を受けるのではなく、ただ神の恵みによって救われ、
その救いへの感謝を自ら信仰の告白をし、恵みとして洗礼(バプテスマ)を授かるのです。
そして、主の晩餐式は、私たちが受け取った救いを繰り返し思い起こす恵みの時なのです。
パンと杯をいただくことで、キリストの十字架の犠牲と、その愛を心に深く刻みます。
主の晩餐式は、ただの儀式ではありません。信仰者がともに集い、主の救いの事実を確認し、
励まし合い、再び新しい歩みへと立ち上がる力を受けるのです。
洗礼(バプテスマ)によって始まる新しい人生、そして主の晩餐によって絶えず思い起こし、
感謝し続ける歩み。この流れこそが、神の恵みに生きる者の姿です。
どなたもこの恵みの流れに招かれているのです。今日、主の恵みと救いをしっかり受け止め、
力強く歩み出しましょう。
祝福された望みと贖いの完成
さらにパウロは、私たちの視線を未来へと向けさせます。
彼は、私たちが今だけでなく、やがて訪れる神の計画の完成を見つめるよう促しています。
「また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、
わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。」(2:13)
これは、「祝福された望み」、つまり栄光のうちに現れる主イエス・キリストの再臨を指しています。
私たちの人生は地上だけで完結するものではなく、神の国の完成という未来の希望へと続いているのです。
やがて主が来られ、すべてが完成されるその日が備えられている。
この希望は単なる慰めではなく、現実の力となります。
困難や苦難に直面しても、私たちはこの希望によって信仰を保ち続けることができるのです。
・現代社会における「主の再臨」の意味を再解釈すると、それは単に終末の出来事として捉えるのではなく、日々の生活の中で神の愛と正義が実現されていく希望として理解することができます。
再臨は、信仰者一人ひとりが神の導きに応答し、世の中に愛と平和を広げていく歩みの中に、
すでに始まっているとも言えるでしょう。
この希望は、私たちが自らの人生や社会の現実に向き合い、絶望せずに進み続ける力となります。
主の再臨は未来の約束であると同時に、
今ここに生きる私たちが神の愛に根ざして変化をもたらす使命を帯びていることを示しています。
聖書は語ります。主はご自身を私たちのためにささげられた。
これはすべての不法から私たちを贖い出し、神のものとして新しい民となるためです。
良い業に熱心な民として整えられることも、再臨の希望と深く結びついています。
キリストの十字架と復活による贖いは、私たちの努力や功績によるものではなく、
神の愛と憐れみによる恵みです。この恵みが私たちを新しくし、未来の希望へと導きます。
主の再臨を待ち望むことは、ただ受け身でいることではなく、今ここで神の愛を実践し、
社会に光をもたらす者として生きることでもあります。
祝福された望みと贖いの完成は、将来の出来事であると同時に、
私たちの現在の生き方にも深く関わっています。主の再臨を待つ信仰は、
日々の生活の中で神の愛と恵みを体現し、
世の苦しみに対して希望と光をもたらす使命へと私たちを導いているのです。
福音の中心は、キリストが私たちのために死なれたことです。それゆえに私たちは赦され、清められ、
新しい民となりました。この恵みは神の愛と憐れみによるものであり、
私たちの人生に未来への希望と今の力をもたらします。主の再臨という約束は、
私たちの歩みの終わりではなく、新しい始まりであり、神の国の完成へと向かう道なのです。
この恵みは、私たちの努力の結果ではなく、ただ神の愛と憐れみによるものなのです。
今を生きる私たちが、神の恵みに支えられ、未来への希望を持って歩むことが、
祝福された望みと贖いの完成につながっていくのです。
恵みに生きる者として
親愛なる兄弟姉妹の皆さま。神の恵みは、すでに現れ、すべての人々に差し伸べられています。
この恵みには例外がなく、強い者も弱い者も、信仰の堅い者も揺らぐ者も、
また、信仰を持たない者にも、すべての人が招かれています。
私たちはまず、この恵みを謙虚に受け取り、主の十字架の愛に信頼して歩みたいと思います。
自分の力や功績によるのではなく、神の恵みによって生かされていることを心に留め、
日々の生活の中でその実を結ぶ者となりましょう。
神の民として、世の光となり、証しとなって歩むことは、重荷ではなく、恵みに支えられた喜びの歩みです。
私たちは主の再臨、神の国の完成の日を待ち望みつつ、今日という一日を神の恵みによって歩みます。
しかし、それだけでなく、私たちは神の似姿として造られた者として、
この世に平和を築く使命を与えられています。主の愛と恵みに生きる者として、
互いに思いやりを持ち、和解と平和のために積極的に努めましょう。
恵みによって生きる者は、神の国を待ち望むだけでなく、地上においても平和の種をまき、
神の愛を広げていく者です。今日も主の恵みに信頼し、平和を築く歩みを共に続けていきましょう。
復活節第三主日に、現代的な復活について考える
・復活節第三主日に復活について皆さんとご一緒に今1度考えたいと思います。
復活信仰については、旧約聖書の中でダニエル書12章2節に明確な記述があります。
「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り/
ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。」。この御言葉は、
死者の復活と永遠の命について語られています。
イザヤ書26章19節にも
「あなたの死者が命を得/わたしのしかばねが立ち上がりますように。塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、
喜び歌え。あなたの送られる露は光の露。あなたは死霊の地にそれを降らせられます。」と記され、
復活への希望が示されています。
・新約聖書では、神は「生きている者の神」として、アブラハム、イサク、ヤコブなど、
旧約聖書の信仰者たちを死後も神の前で生きている存在と認めています。
イエスはマタイによる福音書22章32節で
「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」と語り、死者が復活し神のもとで永遠の命に預かる真理を強調しました。
この教えは、神との関係が死によって終わるのではなく、
神の前では全ての者が生きているという復活信仰の核心を示しています。
アブラハムらが神の前で「生きている」とされることは、神の約束が永遠に続き、
死者も神の愛と救いの中で新しい命を受けるという希望を表しています。
イエスはこの復活の真理を通して、神の命の力と、信仰者に与えられる永遠の命を明らかにしました。
・復活は、現代社会においてもその意味は深く、多角的に捉えることができます。
第一に、復活は「新しい命の始まり」として象徴的に理解することができます。困難や絶望、
喪失の中で再び立ち上がる力、人生の再生や希望をもたらす出来事として、
復活は私たちの日常にも息づいています。
例えば、病気や失敗、悲しみを乗り越えて新たな歩みを始めるとき、それは小さな復活の体験とも言えます。
第二に、復活は「和解と赦し」の象徴でもあります。過去の過ちや傷を抱えながらも、
赦されて新しい自分として生き直すことができる。その意味で、復活は個人の内面的な変化、
心の刷新とも結びついています。
また、社会的にも復活は重要なテーマです。社会における分断や対立、絶望的な状況にあっても、
希望を持って共に歩み直すこと。 これも復活の精神と言えるでしょう。
復活は単なる歴史的真実にとどまらず、今を生きる私たち一人ひとりの中で繰り返し現れる現実です。
復活は「神の恵み」によって可能になる新しい命の賜物です。
テトス書や詩編103編の御言葉が示すように、神の憐れみと恵みは、
私たちを絶えず導き、失われていた命を再び与える力となります。
現代の復活は、神との関係の中で新しい人生を歩み出す希望として、
私たちに深い慰めと勇気を与えてくれます。
・復活は、ただ死んだ人が生き返ることだけではありません。私たちは毎日、神さまのおかげで生きています。
生かされているのです。今日も生きていること、そして明日も生きられるという安心感があります。
また、たとえ死んでも神さまと一緒に生き続けるという希望が備えられているのです。
洗礼(バプテスマ)への招き
・ここで、新しく来られた方々へご案内いたします。もし、主イエス・キリストの愛と恵みに心を動かされ、
イエスを救い主・ご自身の主と信じる方は、どうぞ遠慮なさらず手を挙げてください。
ご一緒に、洗礼(バプテスマ)の準備をしたいと思います。
洗礼(バプテスマ)は、神の家族の一員となる大切な第一歩です。
主の導きを信じて、勇気を持ってその一歩を踏み出していただきたいと心より願っています。
終わりの祈祷
・お祈りします。恵み深き真の命の神よ。
あなたが憐れみに富み、慈しみに豊かであることを覚え、心より感謝をささげます。
あなたは御子イエス・キリストにおいて、救いの恵みをすべての人に現してくださいました。
どうか私たちが、この恵みを真実に受け取り、
自らの力に頼るのではなく、ただ主に信頼して生きる者とならせてください。
また、この恵みによって日々新たにされ、
それぞれの置かれた場所において、神に喜ばれる歩みをなす者とならせてください。
困難の中にあっても、祝福された望みを見上げ、
再び来られる主を待ち望みつつ、信仰に堅く立ち続けることができますように。
この恵みをまだ知らない方々にも、主の救いが豊かに現されますように。
すべてを御手にゆだね、
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。
アーメン。