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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2017年4月9日説教(マタイ福音書27:45-56、わが神、わが神、どうして)

投稿日:2017年4月9日 更新日:

2017年4月9日説教(マタイ福音書27:45-56、わが神、わが神、どうして)

 

1.神の見捨ての中のイエスの死

 

・マタイ福音書を読んでおります。イエスは木曜日の夜に捕らえられ、死刑宣告を受け、金曜日の朝9時に十字架にかけられました(マルコ15:25)。十字架刑はローマに反逆した者に課せられる特別な刑です。受刑者はむち打たれ、十字架の横木を担いで刑場まで歩かされ、両手とくるぶしに鉄の釘が打ち込まれて、木に吊るされます。手と足は固定されていますので、全身の重みが内臓にかかり、呼吸が苦しくなり、次第に衰弱して死に至ります。

・マタイは記します「昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」(27:45)。聖書においては、闇や暗黒は神の裁きを象徴します。実際に天変地異が生じたというよりも、マタイがイエスの十字架死を終末の、神の裁きの出来事と理解したゆえの表現でしょう。3時になった時、イエスは大声で叫ばれました「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(27:46)。イエスの十字架刑には、ガリラヤから来た女性たちが立ち会っていました。彼女たちはイエスの断末魔の叫びをゴルゴダで聞き、それを聞いたままに弟子たちに報告し、やがてそれが伝承となり、福音書に取り入れられたものと思われます。アラム語で叫ばれたイエスの肉声を伝える言葉です。意味は「わが神、わが神、何故私をお見捨てになったのですか」です。

・イエスの最後の言葉「わが神、わが神、何故私をお見捨てになったのか」は、初代教会の人々に大きな衝撃を与えました。「神の子が何故絶望の叫びを挙げて死んでいかれたのか」、弟子たちはイエスの言葉を受け入れることができませんでした。この言葉は教会の敵対者にも絶好の攻撃材料を与えました「悲鳴をあげて敗北の死を遂げた者がメシア(救い主)であるはずはない」と、彼らは攻撃しました。それにもかかわらず、福音書記者はイエスの叫びを削除しませんでした。事実の忠実な報道であったからです。

・しかし、「神の子が何故絶望の叫びを挙げて死んでいかれたのか」という疑問を解決する必要がありました。そのような思いがイエスは最後に「詩篇22篇の冒頭の言葉を語られたのだ」という理解に導きます。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」は詩篇22編2-3節の言葉です。「私の神よ、私の神よ、なぜ私をお見捨てになるのか。なぜ私を遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか。私の神よ、昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない」(詩編22:2-3)。詩篇22編は神から捨てられた信仰者の嘆きの言葉から始まり、やがてそれは救済を求める言葉に変わって行きます「主よ、あなただけは私を遠く離れないでください。私の力の神よ、今すぐに私を助けてください。私の魂を剣から救い出し、私の身を犬どもから救い出してください」(詩篇22:20-21)。そして最後に詩人は神への信頼を歌います「主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく助けを求める叫びを聞いてくださいます」(詩編22:25)。初代教会の人々は詩編22編を通して、「絶望しながらも神の名を呼び続け、神を信頼し続けたイエス」を見出しました。

・では現実のイエスは十字架上でどのような気持ちで死んで行かれたのでしょうか。この点に関し、聖書学者の廣石望氏は語ります「イエス自身は、自らの死をどのように理解したのでしょうか。詳細は不明です。はっきりしているのは、『イエスは人々の罪の贖いとして自らの命を捧げるという自覚をもって十字架についた』という理解は、復活信仰をふまえた原始キリスト教における再解釈だということです。この理解はそのままイエス自身の理解には遡りません・・・ではイエスはその死にどのような意味を見出したのか、この点について意見はさまざまです。私に最も本当らしく思われるのは、イエスは十字架刑で処刑されることに積極的な意味を見出せなかった、つまり絶望と共に死んでいったというものです」(2008.3.16代々木上原教会説教)。

・「イエスは絶望と共に死んで行かれた」、先の大震災では無念の内に2万人の人が亡くなりました。原爆で殺されていった人たちも、「わが神、わが神、どうして」と問いながら死んでいかれました。人生には多くの不条理があります。もしイエスが平穏の内に、神を賛美されながら、死んでいかれたとしたら、そのイエスは私たちと何の関わりもない人です。ある牧師は語ります「イエスもわれわれと同じように生きて、同じように死の苦しみと不安を覚えられた。この事実がイエスとわれわれの距離感を縮める。神の前では全てが受け入れられる。嘆き悲しむ時は嘆き悲しんでも良い。イエスですら死に臨み、悲鳴し、絶望したのだから、死に直面した時のわれわれの弱さとて義とされる。これは何よりも慰めになり、癒しになるのではないか」。

 

2.イエスの死の後で

 

・イエスの叫びを聞いて、周りにいた人々は言いました「この人はエリヤを呼んでいる」(27:47)。預言者エリヤは生きたまま天に移され、地上の信仰者に艱難が望むとこれを救うと信じられていました。そのため、人々はイエスの「エリ、エリ」という叫びを、エリヤの助けを求める叫びと考え、「エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いました(27:49)。しかし、エリヤは来ませんでした。イエスは最期に大声で叫ばれて息を引き取られます。何の奇跡も起来ませんでした。

・マタイは、イエスが息を引き取った時、三つの出来事が起こったことを記しています。「その時、神殿の垂れ幕が上から下まで真二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そしてイエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた」(27:51-53)。「神殿の垂れ幕が二つに裂けた」ことはイエスの犠牲の死で神殿犠牲が無意味になったことを象徴しています。二番目の「地震」は神の裁きを意味するのでしょう。三番目の「聖徒の復活」は終末の到来を象徴しています。いずれも実際に起きた出来事というよりも、マタイ独特のイエスの死に対する象徴的解釈と理解すべきでしょう。

・マタイ福音書の読者は紀元70年にエルサレム神殿がローマ軍によって破壊され、今は廃墟となっている歴史を知っております。そしてユダヤ教徒がイエスを殺した罪のために、神はエルサレム神殿を破壊されたと理解しています。その思いがここに反映しているのでしょう。54節にイエスの処刑を指揮していたローマ軍百卒長が「本当にこの人は神の子だった」と告白する記事をマタイは挿入します。「絶望の中でなお神の名を呼んで死んでいかれた」イエスに、彼は「神の臨在」を見たのです。

・イエスの十字架刑の時、ただ婦人たちのみが立ち会ったとマルコは記します(27:55)。弟子たちは逃げ去っていました。イエスの仲間として捕えられるのが怖く、また十字架上で無力に死ぬ人間が救い主であると信じることが出来なかったのです。弟子たちはイエスを捨てました。しかし、婦人たちはそこに残り、細い糸はなおつながり、やがてこの婦人たちがイエスの埋葬を見守り、復活のイエスの目撃者になり、その出来事を通して弟子たちに信仰の回復が起こります。

 

3.イエスの十字架の中に神の臨在を見る

 

・今日の招詞に第二コリント7:10を選びました。次のような言葉です「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」。イエスは大声で、ほとんど非難するように、神に叫ばれました。神は見えません。闇が全てを飲み込んでいます。それにもかかわらず、イエスは「わが神、わが神、どうして」と叫ばれました。苦難がなぜ与えられるのか理解できない、神がなぜ沈黙されておられるのか分からない。しかし神はそこにおられ、この叫びを聞いておられる。その確信がイエスに「わが神、わが神」と叫ばせたのです。この叫びは信じる故の叫びであり、極限の中の信仰の叫びなのです。

・ヨセル・ラコーバーという人がいます。1943年にワルシャワのゲットーで殺されていったユダヤ人です。ワルシャワのユダヤ人たちはドイツ軍の攻撃の中で、次々に殺され、彼の妻と子どもたちも死に、一人ヨセルだけが生き残りました。彼は戦火の中で手記を書き、それを瓶の中に入れ、煉瓦の裏に隠しました。やがてヨセルも死んで行きました。戦後、その手記が発見され、出版されました。その中で彼は書きます「神は彼の顔を世界から隠した。彼は私たちを見捨てた。神はもう私たちが信じることができないようなあらゆることを為された。しかし私は神を信じる」(Yosl Rakover Talks to God by Zvi Kolitz)。

・神はイエスを十字架で見捨てられました。しかし、墓に葬られたイエスを神は起されます。ペテロは証言します「神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました」(使徒2:24)。絶望の中で「わが神、わが神、どうして」と叫んで死んで行かれたイエスを、神は復活させてくださった。そこに私たちの希望の源泉があります。その時、私たちは叫びます「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせる」と。

・イエスの十字架上での絶叫こそ、神の御心に適った悲しみであり、私たちが本当に聞くべき言葉なのです。私たちが苦難の中でうめく時、そのうめきが祈りとなります。この信仰がイエスの信仰であり、私たちの信仰でもあります。神を信じる者だけが、神の不在に耐えることができます。世は神なき世界の有様を示しています。この中で私たちは「神の前に、神と共に、神なしに生きる」(ボンヘッファー)。イエスは十字架上で絶望しながら、なお「わが神、わが神」と神を呼び続けられた。そこにイエスの信仰があり、神はこの信仰に応えられた。多くの人がそれ故に、十字架のイエスに希望を見出してきました。「わが神、わが神、どうして」、この絶望の中の叫びこそ祝福への道なのです。

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