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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2016年7月31日説教(第一ペテロ1:1-21、主の言葉はとこしえに立つ)

投稿日:2016年7月31日 更新日:

2016年7月31日説教(第一ペテロ1:1-21、主の言葉はとこしえに立つ)

 

1.迫害の中にある信徒たちへの手紙

 

・今日からペテロ第一の手紙を5回にわけて読んでいきます。この手紙はローマにいるペテロが同労者シルワノに委託して書いた手紙だと言われています(5:12)。宛先はアジア州に住む信徒たちです。彼らは「離散して仮住まいをしている選ばれた人たち」(1:1)と言われています。離散している(ディアスポラ)、異教社会の中で孤立しているという意味です。異教社会の中でキリスト者になることは、時には、地域共同体から孤立し、苦難を受けることを意味します。信仰者の生き方は世の人々と異なるからです。ペテロの手紙には苦難を推測させる言葉があちこちにあります。キリストを信じたばかりに、信徒たちに苦難が降りかかってきた。その信徒を励ますために、ペテロは手紙を書きました。今日は手紙1章から、その励ましの言葉を聞いていきます。

・ペテロは語ります「神は豊かな憐れみにより、私たちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています」(1:3-5)。あなた方はイエス・キリストの福音を伝えられ、バプテスマを受けて、神の選びの中に入れられた。「あなた方は新しく生まれたのだ」とペテロは語ります。

・しかし彼らは苦難の中にあります。「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、 あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れる時には、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」(1:6-7)。彼らはかつてローマの神殿に参拝し、犠牲を捧げ、偶像礼拝をしていました。しかし彼らはキリストの福音に接して回心し、今では神殿礼拝を拒否しています。4章には次のような言葉があります「かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです」(4:3-4)。まだ国家的な迫害は起きていませんが、地方レベルでは地域共同体から孤立し、軽蔑と圧迫と敵視を受け、官憲による迫害を受けていた者たちもいました。その中で彼らの信仰は揺らぎ始めていました。なぜキリストを信仰することによってこのように敵視されるのか、これでは洗礼など受けない方が良かったと考える信徒も出始めていたのです。同じ異教社会に住む私たち日本人も本当は同じ状況下にあります。戦時中の日本では、キリスト者は敵性宗教を信じる国賊として、迫害を受けました。

・その彼らにペテロは書き送ります「いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れる時に与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」(1:13)。今は苦しみがあなた方を覆い、その苦しみがいつまでも続くように思えるかもしれないが、苦しみは必ず終わる。主イエス・キリストが来て下さる時まで忍耐しなさいとペテロは言います。彼らの多くは、以前は異教徒で、異教徒なりの希望を持ち、生活を楽しんでいました。しかしイエス・キリストに出会って、この世の希望や楽しみは空しいものでしかない事を知りました。もう過去の空しい生活に戻ってはいけないとペテロは勧めます「無知であったころの欲望に引きずられてはいけない」(1:14)。

・「無知であったころの欲望」、この世は欺瞞に満ちています。自然のままの人間の本質は悪です。弱肉強食の世界の中で、自分の利益しか求めない存在です。近藤剛氏は神なき社会を次のように記します「神なき社会においては、神の存在に根差した道徳心、倫理観、規範意識はなく、人間の自由は恣意と化す。人間から良心が棄て去られたら、そこに出現するのは『人間は人間に対して狼である』という原初状態しかない」(近藤剛「神の探求」から)。日本で何故3万人の人が毎年自殺するのか、この世はあまりにも住みにくいからです。しかし、「あなた方はこの世の価値観という偶像から解放され、今は神の子にしていただいた」とペテロは述べます。「だから神の子にふさわしく生きなさい。召し出して下さった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい」(1:15)。「神はあなた方のために御子キリストを遣わし、十字架で贖いをして下さった。あなた方が神の子と呼ばれるに至ったのは、キリストの尊い犠牲があったからだ」とペテロは言います(1:18-19)。この神はキリストを死者の中から復活させて下さった。ペテロは語ります「キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れて下さいました。あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。」(1:20-21)。

 

2.不条理に中にこそ救いが

 

・この手紙を書いたペテロもまた苦難の中にありました。誕生したばかりの教会ではエルサレム教会の牧会は「主の兄弟」ヤコブが担当し、ペテロとパウロは異邦人伝道に向かいました。しかしヤコブは大祭司アンナスにより62年に殺され(ヨセフス「ユダヤ古代誌」)、異邦人伝道を共に行ったパウロもローマで投獄され(59年)、62年ごろに処刑されたとみられています。このペテロの手紙は、パウロの投獄・処刑を受けて、パウロが開拓した小アジア地方の伝道牧会をペテロが引き継ぎ、パウロの同労者で小アジアの事情に詳しいシルワノ(使徒言行録ではシラス)の助けを借りて書かれたとされています。そのペテロも2年後の64年にはネロ帝のキリスト教徒迫害の中で、殉教していきます。ペテロたちは自分たちも迫害の中にありながら、同じ苦しみの信徒に手紙を送っているのです。

・何故信仰には迫害が伴うのでしょうか。「神は何をしておられるのか」と私たちは思います。第二次大戦中に大勢のユダヤ人同胞が殺された時、生き残ったユダヤ人たちは、「なぜ神は介入して我々を救わなかったのか」と嘆き、信仰を棄てる人たちが続出しました。その時、ユダヤ教のラビ、エマニュエル・レヴィナスは、苦難の中で神を捨てる信仰は、「大人の信仰ではなく、幼児の信仰だ」と語りました。「人間が人間に対して行った罪の償いを神に求めてはならない。社会的正義の実現は人間の仕事である。わが身の不幸ゆえに神を信じることを止める者は宗教的には幼児にすぎない。成人の信仰は、神の支援抜きで、地上に公正な社会を作り上げるという形をとるはずである」(レヴィナス「困難な自由、ユダヤ教についての試論」内田樹訳、2008)。不条理は神の問題ではなく、人間の問題なのです。

・この不条理な世の中でどう生きるかが私たちの課題です。ある神学者は語ります「現代人は神に対する懐疑を持たざるを得ない。しかしそれで良いのである。『疑うことを知らぬ信仰は死んだ信仰である』、真摯な懐疑こそ信仰の確証を担保する・・・私たちは疑いつつ、疑いきれないものに出会った時に、神を見出すのではないか」(松木真一「神の探求」から)。人は不条理に直面して初めて人生の意味が分かります。この世に不条理があるのは、私たちが人生をより深く知るためです。詩編119編は歌います「苦しみにあったことは、私に良い事です。これによって私はあなたの掟を学ぶことができました」(口語訳、詩編119:71)。そしてキリスト者は力を与えられて、世の不条理と戦うのです。

 

3.主の言葉に立つ生活への招き

 

・キリスト者に降りかかる火のような試練、それは私たちにも降りかかってくるのでしょうか。今日の招詞に第一ペテロ1:24-25を選びました。次のような言葉です。「『人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。』これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです」。元来はイザヤ40章6-8節にある言葉で、その背景はバビロン捕囚の悲劇があります。紀元前587年、ユダヤはバビロニア帝国に国を滅ぼされ、指導者たちは捕虜として連行されました。その亡国の民に、エレミヤやエゼキエル等の預言者が神の言葉を伝えました「悔改めれば、神はあなたたちの罪を赦し、再びエルサレムに戻して下さる」。それから50年の年月が流れ、エルサレムは既に廃墟となり、最初の民の大半は死に、今は二世、三世の時代になっています。人々はエルサレムへの帰還をあきらめ、何とか異郷の地で生きようと懸命でした。そのような中で、「解放の時が来た」という神の言葉が預言者に与えられます。

・預言者は、今さら、「エルサレムに帰る時が来た」と言われても戸惑うばかりです。預言者は言い返します「呼びかけよと声は言う。私は言う、何と呼びかけたらよいのかと」(イザヤ40:6)。「民に何を言えば良いのか、彼らは既に希望を無くしている。それは主よ、あなたのせいだ『草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ』(40:7)。主よ、あなたが彼らを砕かれた。あなたがエルサレムを廃墟にされ、民を異郷の地に50年間放置された。その民に、今さら、何を語れと言われるのか」。そのような預言者の不信をねじ伏せて神は言葉を語らせます。それが「草は枯れ、花はしぼむが、私たちの神の言葉はとこしえに立つ」(40:8)と言う言葉です。

・イスラエルの民に、国の滅亡と異国への捕囚という苦難が与えられました。しかしこの苦難がイスラエルを変えます。神は何故、私たちを捨てられたのか、彼らは父祖からの伝承を読み直し、まとめ直し、旧約聖書の主要部分は捕囚時代に編集されました。そしてイスラエルの民は主の言葉に生きる者となりました。アッシリアは滅び、バビロンは滅び、ペルシャもギリシャもローマも滅びました。その中でユダヤ人だけは滅びませんでした。主の言葉に依り頼んだゆえです。だからペテロは苦難に苦しむ信徒に書き送ります「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れる時には、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」(1:7)。イスラエルが捕囚という苦難を通して聖化されたように、この苦難はあなた方をも聖化するのだとペテロは励まします。「キリスト者に降りかかる火のような試練」は、私たちにも来るかもしれません。しかし、来ても良いではないかとペテロは言います。「あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れる時にも、喜びに満ちあふれるためです(4:12-13)。「神の言葉に立つ」、「主の言葉は永遠に変わることがない」ことを信じていく、御言葉を生活の中で生きる、その時本当の平安が与えられる。そのような生き方に招かれていることを今日は覚えたいと思います。

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