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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2015年12月13日説教(ヨハネ1:29-34、私たちのメシアはどなたか)

投稿日:2015年12月13日 更新日:

2015年12月13日説教(ヨハネ1:29-34、私たちのメシアはどなたか)

 

1.洗礼者ヨハネの証し

 

・待降節にヨハネ福音書を読み続けています。4福音書はイエスの誕生を記した後、30歳までの出来事については何も語りません。ルカ福音書は、イエスは30歳になられるまで故郷のガリラヤにおられたと伝えます(ルカ3:25)。そのころユダヤでは、洗礼者ヨハネが立ち、「最後の審判の時が迫っている。罪を悔改めよ」と説き(ルカ3:8)、そのしるしとしてバプテスマ(洗礼)を授けていました。イエスはガリラヤでこのうわさを聞き、ヨハネからバプテスマを受けるために、ユダヤに来られました。恐らくは、ヨハネの「悔改め運動」に共鳴され、今こそ世を立て直す時だと思われたのでしょう。

・イエスが活動された時代は混乱の時代でした。当時のユダヤはローマの占領下にありましたが、ローマからの独立を求める反乱が各地に起こり、多くの人々の血が流されていました。神を信じぬ異邦人に支配されることは、自分たちを神の選民と考えるユダヤ人には忍び難い屈辱であり、今こそ神が立ち上がり、彼らを救うためにメシア(救世主)をお送り下さるに違いないという期待が広がっていました。だから、人々は洗礼者ヨハネの「世の終わりが近づいた。メシアが来られる」との宣教の声に応えて、「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」(マルコ1:5)。

・ヨハネはユダヤ人にも、バブテスマを受けるように勧めました。これはエルサレムの宗教指導者には許しがたい行為でした。ユダヤ人は生まれながらに神の民であり、そのしるしとして割礼を受けていました。他方、異邦人は救いの外にあるので、異邦人はバブテスマを受けることによってユダヤ教団に加わることを許されました。バブテスマは異邦人が受けるべきもので、ユダヤ人は受ける必要はないとされたのです。しかしヨハネは「我々の父はアブラハムだなどと思ってもみるな・・・神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」(マタイ3:9)といってユダヤ人にもバブテスマを求めました。これは旧来の権威の否定です。

・自分たちの権威を否定されたエルサレム指導者は人を送って、ヨハネを問いつめます「お前は誰だ」(ヨハネ1:19)。お前は何の権威でこんなことをするのか、お前はメシアなのかと彼らは聞きます。ヨハネは「私はメシアではない」と否定します。では「お前はエリヤなのか」と彼らは問います。ヨハネは違うと答えます。「では、終末に来るといわれたあの預言者なのか」と聞きます。今度もヨハネは「違う」と否定します。「ではお前は誰なのだ」、というと問いに対し、ヨハネは答えます「私は荒れ野で叫ぶ声である。主の道をまっすぐにせよと」(1:23)。「私は救いが来ることを知らせる者の足だ」とヨハネは答えます。そしてヨハネは言います「私は水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人は私の後から来られる方で、私はその履物のひもを解く資格もない」(1:26-27)。

 

2.世の罪を取り除く神の子羊

 

・イエスはヨルダン川でヨハネからバブテスマを受けられました。その時の光景をヨハネは記します「私はこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、私は水で洗礼を授けに来た・・・私は、”霊"が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た・・・水で洗礼を授けるために私をお遣わしになった方が、『"霊"が降って、ある人に留まるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』と私に言われた。私はそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」(1:31-34)。

・イエスこそ神から遣わされたメシア、キリストであると洗礼者ヨハネは受け止め、イエスを「世の罪を取り除く神の子羊」(1:29)として紹介したと福音書は伝えます。「罪を取り除く子羊」とは、罪の身代わりとして捧げられる犠牲の羊のことです。エルサレム神殿では、過ぎ越し祭りの時に、子羊を犠牲として捧げます。子羊が血を流すことによって、人の罪が贖われる(過ぎ越される)との信仰です。この信仰は現代にも継承されています。カトリック教会では聖餐式(ミサ)の時に「神の子羊(アニュス・デイ)を讃美します。「人の世の罪を取り除く神の子羊、我らを憐れみ給え、我らに平安を賜り給え」という讃美の中でミサ(聖餐式)が行われます。

・ヨハネ福音書における洗礼者ヨハネはイエスの証人です。洗礼者は彼のもとに集まった弟子たちにイエスを「神の子羊」と紹介し(1:36)、多くの者たちがやがてイエスの弟子になって行きます。アンデレ、ペトロ、フィリポ、そしてこの福音書の著者であるヨハネも、洗礼者の弟子としてヨルダン渓谷に集まっており、やがて彼らはイエスの下に集います。その後、イエスは洗礼者から離れ、独自の宣教活動を始め、洗礼者教団よりも人気を博すようになります。洗礼者の弟子たちはヨハネに「何とかして下さい」と頼みますが、洗礼者は答えます「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、私は喜びで満たされている。 あの方は栄え、私は衰えねばならない」(3:29-30)。ヨハネ福音書の洗礼者ヨハネは徹底してイエスの証人です。しかし他の福音書を見ると、洗礼者ヨハネの別な姿が記されています。

 

3.ヨハネでさえイエスにつまずいた

 

・今日の招詞としてマタイ11:4-5を選びました。次のような言葉です「イエスはお答えになった『行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている』」。洗礼者ヨハネは今、ヘロデに捕らえられ、獄にいます。獄中でヨハネはイエスの評判を聞きました。イエスは「貧しい人々は幸いである」と説かれ、盲人やらい病者を癒されている。そのような言動を聞いて、ヨハネは違和感を覚えます。「メシアは世の罪を裁き、神の支配をもたらすために来られるのではないか。一人や二人の病人を癒して何になるのか、世を変えることこそ、メシアの使命ではないか」。ヨハネは「自分は最後の審判を告知するために神に遣わされた」との自覚を持っていたようです。彼は万人が「神の怒りの審判の下に立つ」と理解し、メシアとはその審判の執行者、それ故に「火で洗礼をお授けになる方」と理解していました。

・ヨハネはメシアが来れば、世界は一変すると考えていました。しかし、イエスが来ても何も起こらない。ローマは相変わらずユダヤを支配し、ローマから任命されたヘロデは領主としての権力を誇り、自分はヘロデに捕らえられ、やがて殺されようとしている。自分が世に紹介したイエスは本当にメシアなのか、という疑問が彼の内に起こったのです。だからヨハネはイエスに尋ねます「来るべき方はあなたでしょうか。それともほかの方を待たなければなりませんか」(マタイ11:3)。

・それに対してイエスは応えられます「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、貧しい人は福音を伝えられている」。イエスはヨハネの洗礼運動に惹かれて彼の運動に参加しましたが、やがてヨハネとは別な神の国のビジョン、「神は無条件で人を恵まれる」という確信を持たれました。だからイエスはヨハネを離れて、独自の宣教を開始されました。イエスは罪人を断罪するよりもむしろ招かれ、人々に悔い改めを求めるよりも、天の父が彼らを愛し、養い、共にいて下さることを告げ知らせました。その喜ばしい知らせのしるしとして、病気や悪霊に苦しんでいる者を癒されました。

・イエスは「メシア」とは英雄ではなく、霊によって人々の心を新しく生まれ変わらせる存在だと考えておられました。しかし、人々は理解しなかったし、ヨハネもわかりませんでした。人々は自分の期待を込めた勝手なメシアを求めます。民衆は貧しい暮らしを良くしてくれるメシアを求め、支配者はユダヤをローマから解放してくれるメシアを求め、ヨハネは悪に満ちた社会を裁き、正義と公平を実現するメシアを求めていました。彼らにとってメシアとは、自分たちの願いをかなえてくれる人のことでした。イエス自身もそのことを知っておられました。だから言われます「私につまずかない人は幸いである」(11:6)。

・人々はキリストにつまずきました。キリストが来ても何も変わらないではないか。生活はよくならないし、ローマは相変わらずユダヤを支配し、世の不正や悪は直らない。本当にこの人はメシアなのか。このつまずきは私たちにもあります。信じてバプテスマを受けても、病気が治るわけではないし、苦しい生活が楽になるわけでもありません。私たちも心のどこかで「イエスが来られて何が変わったのだろうか」と疑っています。

・しかし疑うことのできない時が来ます。弟子たちはイエスが十字架につけられた時に逃げました。しかしその弟子たちにイエスが現れ、「あなたがたに平和があるように」にと言われた時(20:19)、弟子たちの疑問や恐れは吹き飛びました。弟子たちは、信じることの出来ない弱い彼らのために、復活のイエスが現れたことを知り、人生を変えられました。彼らはイエスの前にひざまずき、告白します「わが主、わが神」(20:28)。イエスの死後、弟子たちは「イエスは復活された。イエスはメシアであることを示された。私たちはその証人だ。だから、あなたたちも悔い改めて、イエスの招きを受入れなさい」と説き、死をもって脅かされても屈しませんでした。

・この弟子たちを聖書学者ゲルト・タイセンは「キリストにある愚者」と呼びました。タイセンはイエスが来て何が変わったのかを、社会学的に分析し、「イエス運動の社会学」という本を著しました。その中で彼は述べます「社会は変わらなかった。多くの者はイエスが期待したようなメシアでないことがわかると、イエスから離れて行った。しかし、少数の者はイエスを受入れ、悔い改めた。彼らの全生活が根本から変えられていった。イエスをキリストと信じることによって、『キリストにある愚者』が起こされた。このキリストにある愚者は、その後の歴史の中で、繰り返し、繰り返し現れ、彼らを通してイエスの福音が伝えられていった」。キリストにある愚者とは、世の中が悪い、社会が悪いと不平を言うのではなく、自分たちには何が出来るのか、どうすれば、キリストから与えられた恵みに応えることが出来るのかを考える人たちです。この人たちによって福音が担われ、私たちにも継承されています。私たちも、人生のいろいろの場面で、弟子たちと同じ体験を通して、イエスに出会いました。もう、元の生活には戻れない。今度は私たちが、苦しんでいる人、悩んでいる人を招く番です。今度は私たちが「キリストにある愚者」になる番です。クリスマスは私たちにそのような決断を促す時なのです。

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