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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2015年12月20日説教(ヨハネ1:14-18、言は肉となって宿られた)

投稿日:2015年12月20日 更新日:

2015年12月20日説教(ヨハネ1:14-18、言は肉となって宿られた)

 

1.神の言葉の受肉

 

・今日、私たちはクリスマス礼拝の時を持ちます。与えられたテキストはヨハネ福音書1章14節以下です。ヨハネ福音書の著者はイエスの12弟子の一人、ゼベダイの子ヨハネと言われています。イエス時代のユダヤは混乱の時代でした。占領者ローマからの独立を求める反乱が各地に起こり、多くの血が流され、人々は今こそ神がご自分の民ユダヤを救うためにメシア(救世主)をお送り下さるに違いないと期待していました。だから、人々は洗礼者ヨハネの「世の終わりが近づいた。メシアが来られる」との宣教の声に応えて、「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受け」(マルコ1:5)ました。ナザレのイエスも洗礼者ヨハネから受洗し、ゼベダイの子ヨハネもその群れの中にいました。

・ゼベダイの子ヨハネに洗礼者はイエスを「見よ、神の子羊だ」(1:36)と紹介します。ヨハネは同郷の仲間アンデレと共にイエスの後に従い、一晩中語り明かしました(1:37-39)。翌日、アンデレは兄弟ペトロに語り掛けます「私たちはメシアに出会った」(1:41)。こうして数人の者が、やがて独立して宣教を始められたイエスに従うようになります。ヨハネはイエスの弟子として、3年間イエスと生活を共にしました。その間、彼は多くの驚くべきものを見、また聴きました。彼はイエスが「5つのパンで5千人を養われる奇跡」を見ました(6:11-12)。彼はイエスが人々の忌み嫌う「らい病者」に手を触れ、癒される場面を目撃しました(マルコ1:41)。彼は姦淫を犯し、人々から石を投げつけられようとしている女の前に立ち、「あなた方の中で罪を犯したことのないものがまず投げなさい」と言って、女を救われる場面を目撃しました(8:7)。そして何より、十字架で殺されたイエスが復活され、彼自身がそのイエスに出会いました(20:20)。このような経験をした彼にとって、イエスはもはや人ではなく、神としか思えませんでした。だから彼は告白します「私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(1:14b)。

・イエスを信じる者は豊かな恵みをいただくとヨハネは記します。「私たちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」(1:16)。この恵みこそ、「生きる勇気」だとティリヒという神学者は語りました「生きる勇気とは自己肯定ができる勇気であり、その条件が整っていないにも関わらず、受け入れられていることを受け入れること」だと彼は説明します。つまり、人はどのような困難の中にあっても、「愛されている」、「必要とされている」ことを知った時、「生きる勇気」を与えられます。らい病者は世間から「汚れた者」として排除されていました。不治の伝染病者として、彼らは道を歩く時には、「私は汚れています。私は汚れています」と叫ぶことを求められていました。その彼にイエスが手に触れて癒して下さることによって、彼は「生きる勇気」を与えられました。弟子の一人マタイの職業は取税人でした。当時、取税人は支配者ローマに仕える売国奴とされ、また強欲に税を取り立てる者が多かったため、卑しい職業とされていました。しかしそのようなマタイをイエスが弟子として招いて下さり、彼も「生きる勇気」を与えられました。まさにヨハネが書いたように「この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」のです。

・ヨハネは続けます「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」(1:17)。モーセ律法は「殺すな、盗むな、姦淫するな」等の戒めであり、社会秩序を保つ上で不可欠です。しかしイエスはもっと踏み込めと言われました「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、私は言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」(マタイ5:27-28)。また「隣人を自分のように愛しなさい。それこそが最も大切な戒めだ」(マルコ12:31)と教えられました。隣人とはあなたの助けを必要としている人であり、その人はあなたの助けを通して、「自分は愛されている」、「自分は必要とされている」ことを知り、生きる勇気を与えられます。そしてヨハネ福音書のイエスはさらに踏み込まれます「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(15:13)。

・ヨハネはイエスこそ「人となられた神の言葉だ」と語ります「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(1:18)。今私たちの目の前にヨハネ福音書が置かれています。この福音書はイエス・キリストを通して、神が自己を示して下さったと証しします。その証言を信じる人も、否定する人もいるでしょう。しかし信じる時、そこに何か良いものが生まれます。

 

2.人間の罪を見つめる

 

・クリスマスになると、私たちはクリスマスソングに耳を傾けます。その一つに、「7時のニュース/きよしこの夜」という歌があります。1966年に「サイモンとガーファンクル」が発表した歌で、最初に「きよしこの夜」のきれいなメロディーが流れます「Silent night, holy night, All is calm, all is bright・・・」。その後讃美歌に並行して夜7時のラジオニュースが流れてきます。1966年のある日のニュースです「下院議会における直近の議題は、公民権法による、包括的な人種差別禁止住宅政策が争点となっています」、「コメディアンのレニー・ブルースさんが今日、ロサンゼルスで亡くなりました。42歳でした。麻薬の過剰摂取により死亡したものと見られています」、「マーティン・ルーサー・キング師は、日曜日に計画しているデモについて、中止の意向は無いことを表明しました。シカゴ郊外で、人種による住宅と居住地の差別撤廃を求めるデモ行進が予定されています」、「シカゴで今日リチャード・スペック被告の起訴を審理する大陪審が開かれました。スペック被告は9人の看護実習生を殺害した罪に問われています」、そして最後のニュースが流れます「ワシントンの下院議会では現在、非米活動についての特別小委員会で、ベトナム戦争反対運動に対する精査が行なわれており、緊迫したムードが高まっています。以上、7時のニュースをお伝えしました。良い夜をお過ごしください」。

・私たち現代人は「神は死んだ」として、人間の知性・理性に究極の信頼を置く生き方をしてきました。それを象徴する言葉がデカルトの、「我思う、故に我あり」です。「我思う、故に我あり」、神はいらないという宣言です。近代以降、私たちは神や宗教的なものを排除して来ました。その結果、私たちは神を、自分を越える絶対者を見失いました。自分を越える存在を持たない世界では、相対的存在である人間が絶対化され、個人崇拝や独裁が生まれてきます。人は他者よりも優位に立つことを競い、能力の劣る者を障害者、敗者として排除するようになり、この世は弱肉強食の苛烈な社会になってきました。人間は争い合い、殺し合い、世界大戦という全世界的な殺し合いまで行いました。二度の世界大戦を経験した人間は、自分が有限な存在であること、「神なしには生きていけない」ことを知ります今、私たちはもう一度神に立ち返ることが必要な時に来ています。サイモンとガーファンクルのクリスマスソングは、讃美歌と世の営み(ラジオニュース)を並行させることで、私たちに「神に帰れ」と伝えているのではないでしょうか。

 

3.闇の終わりが来る

 

・ヨハネは語りました「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(1:4-5)。この暗闇はこれからも続くのでしょうか。歴史を見れば、イエスが来られても、闇は依然この世を支配していると認めざるを得ません。しかし、信仰の目で見れば異なります。ヨハネはこの闇を打ち砕くために「(イエスが)肉となって、私たちの間に宿られた」(1:14)と記します。多くの人はイエスを受け容れませんでしたが、少数の者は信じました。洗礼者ヨハネはイエスが神から遣わされたことを信じました。イエスの弟子たちも十字架と復活を通して、信じる者とされて行きました。

・少数者は信じ、信じた者は「神の子となる資格を与えられた」(1:12)。「神の子が人となられたことによって、人が神の子とされる道が開けた」、それがクリスマスの出来事だったのだとヨハネは言っています。子は自分の無力を知る故に、父なる神に拠り頼み、拠り頼む時に恵みが与えられます「私たちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」(1:16)。そしてヨハネは言います「最大の恵みはどんな時でも神は共にいて下さり、私たちを愛していて下さることを信じることが出来ることだ」と。まさに生きる勇気が与えられるのです。その言葉が今日の招詞、ヨハネ黙示録21:3-4です。「その時、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである』」。

・お正月には大勢の人が神社に初詣に行きます。人々が願うことは「家内安全、無病息災」です。「苦難が来ませんように、災いが来ませんように」と祈ります。その時、人は、闇は自分たちの外側にあって、外側の闇が自分たちを苦しめると考えています。だから、「闇が来ませんように」と祈ります。しかし、聖書が私たちに教えることは、闇は私たちの心の内側にある罪であり、その罪が取り除かれた時、闇はなくなるということです。だから私たちは、「闇が来ませんように」とは祈りません。神が共にいて下さるからです。経済的な困窮があっても、神は必要なものは与えて下さいます。病気になっても、必要であれば癒して下さるであろうし、仮に癒されなくともその病の中で平安でいることが出来ます。世の人に裏切られ、失望することがあっても、「私を裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのも私の神である」(イザヤ49:45)と信じるゆえに耐えることが出来ます。パウロが語るように、「私たちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(第二コリント4:8-9)存在に変えられたのです。世にどのような闇があろうとも、キリスト者はその闇から解放されています。イエス・キリストと出会い、生きる勇気を与えられたことこそ、私たちへの最高のクリスマス・プレゼントなのです。

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