江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2014年9月14日説教(1コリント5:1-13、古いパン種は除きなさい)

投稿日:2014年9月14日 更新日:

1.教会の中の古いパン種を除け

・コリント書を読んでいます。今日は5章を読んでいきます。これまで読みました1~4章までは、教会内の分派争いに関するパウロの勧告でした。今日読みます5章からは、全く別の問題が取り上げられています。教会内の不品行、あるいは不道徳な行為に対して、教会はどう対応すべきかが主題になっています。教会は赦された罪人の集まりです。私たちは罪が赦されたといっても、世にある限り、世の罪から完全に自由になっているわけではありません。ですから、教会の中にも罪が侵入します。その時、どうするかについて、今日は学んでいきます。
・5章を読んでいきます。パウロは語ります「聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです」(5:1)。「みだらな行い」、ギリシャ語=ポルネイア、英語pornographyの語源になった言葉で、性的不道徳を意味します。問題になっているのは、教会員のある人が義理の母親と不適切な関係になっている事実です。父親が再婚し、その父がおそらく亡くなり、義理の母親が残されて、その義母と同棲関係にあったというのです。これはユダヤ法(レビ記18:6-8)でも、ローマ法でも禁じられていた近親婚あるいは近親相姦の行為です。あってはならない行為が為されていた。そして問題は、コリント教会の人たちが、そのことを知りながら見て見ぬ振りをしていたことです。パウロは人々を叱責します「それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか」(5:2)。今日の問題で言えば、「教会員の方が姦淫を行った、そのことが明るみに出た。その時、教会はどうすべきか」という問題です。
・パウロは断固たる処置を取るように教会に求めます「私たちの主イエスの名により、私たちの主イエスの力をもって、あなたがたと私の霊が集まり、このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。主の日に彼の霊が救われるためです」(5:5)。彼は教会からの除名を求めています。かなり厳しい措置です。教会内で不倫を犯した人がいたとしても、除名することはないのではと私たちは思います。しかし、パウロは語ります「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか」(5:6)。パン種はパンを焼くときに不可欠のもので、パン種がないとふっくらとしたおいしいパンは出来ません。現代は酵母菌を用いてパンを膨らますが、当時は古い練り粉の一部を次回のパンのためにとっておき、混ぜあわせていました。ユダヤではパン種は悪の象徴として用いられます。イエスの「パリサイ派のパン種に気をつけなさい」(マルコ8:15)という言葉は、「パリサイ派の悪い慣習に染まるな」という意味です。ほんの少しのパン種が全体を膨らませるように、一人の悪い行為が教会を壊すとしたら、「あなた方の中から悪い者を取り除く」(5:13)必要が出てきます。
・このパン種の譬えは、体の中に癌が発見された時、どうすべきかを考えてみればわかりやすいでしょう。早期の癌であれば薬物療法で治癒可能でしょうが、ある段階を超えれば病巣の完全切除という外科手術が必要になります。教会内の不道徳も、「改めなさい」という勧告を行っても改められない場合は、「除名」という外科手術が必要になります。ただここで注意すべきは、その人を切り捨てるために除名するのではなく、「主の日に彼の霊が救われる」(5b)ための除名です。教会からの追放によってその人が自分の犯した悪の大きさに気付き、悔い改めることを願う、そういう除名です。教会の中には、「世間的に許されない不道徳を犯した者は天国に入れない」と考える人たちもいますが、パウロはそうは考えていません。彼も救われる、そのために教会を除名すべきだと考えています。ですから、もし除名した後で、彼が「不適切な関係は清算した。もう一度教会に受け入れてほしい」と求めてきたら、パウロは彼を受け入れるでしょう。イエスが姦淫の女性に対して「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(ヨハネ8:11)と言われたことをパウロも知っているでしょうから。ある牧師が説教の中で、この箇所に関するカルヴァンの解説を紹介しています「もし私が一軒の宿屋に入り、そこに破門された男が食卓についているのを見たとしよう。私がこの男と食事をするのは差し支えない。私にはこの男を追い出す権利はないからだ。しかし、この男を自宅に招き入れ、しげしげと交際を重ねるとしたら、それは全く別のことである」(福井誠、聖書一日一生)。含蓄に富む言葉です。
・不品行のパン種は、教会全体を腐らせる危険があります。わずかなパン種が全体を破壊する。それは単に個人の道徳の問題ではなく、教会のあり方の問題です「いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、私たちの過越の小羊として屠られたからです」(5:7)。古代ユダヤでは過越祭の前に、古いパン種を捨て、過越祭には「種入れぬパン」を食べ、過越の子羊を食べました。神がイスラエルをエジプトという罪の世界から救い出して下さった感謝のためです。同じように、キリストは自らの命を犠牲にして(子羊になって)、私たちをこの世の悪から救い出して下さった。それ故、悪の最後のひとかけらに至るまで、キリストの体である教会から除かなければいけないとパウロは語ります。それが8節「だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか」(5:8)の意味です。

2.教会内の不品行には厳しく臨め

・パウロは人々に、「キリストにある者として清く生きなさい」と語ります。コリントは大都会であり、性風俗は乱れていました。ちょうど、今の東京のように、です。東京のような大都会には、例えば歌舞伎町のような歓楽街が必ずあります。飲食店やバーが軒を連ね、性風俗の店があり、はずれにはラブホテルが並んでいます。これは、この世的に見れば必要悪でしょうが、聖書的に見れば人間の原罪を指し示しています。このような性風俗の乱れに対して、教会はどう対処すべきでしょうか。
・パウロは「世の人は、不品行であり、強欲であり、偶像礼拝を行う。それはキリストを知らないからだ」と語りますが、その人たちと一切付き合うなとは言いません。「私は以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが、その意味は、この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つきあってはならない、ということではありません。もし、そうだとしたら、あなたがたは世の中から出て行かねばならないでしょう」(5:9-10)。
・教会は世にあり、世の悪とは無縁ではありません。世の悪は教会を汚染します。パウロの立場は、「世の悪を裁くのは神に任せよ。しかし、教会内部でそのような行為が放置されてはいけない」というものです。「私が書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのです。外部の人々を裁くことは、私の務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか」(5:11-12)。

3.全ては許されているが、全てのことが益になるわけではない

・今日の招詞に1コリント10:23-24を選びました。次のような言葉です「すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが私たちを造り上げるわけではない。だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」。教会は信仰共同体ですが、同時に倫理共同体でもあります。福音は律法の廃棄ではなく、律法の成就です。教会は罪からの自由を与えますが、同時に教会は秩序を求めます。「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」(ローマ13:10)と言われているように、信仰の自由は他人の権利を犯してまで自由であることは出来ません。だから「すべてのことが許されていても、すべてのことが益になるわけではない」のです。
・性は人間にとって大きな誘惑をもたらすものです。コリントには大きなアフロディテ神殿があり、そこには神殿娼婦と呼ばれる遊女たちが千人もおり、彼女たちとの性的な交わりを通して神と合体するという信仰がありました。しかし、これはコリントの人々が、自分たちの性欲を満たすためにそのような理由付けをしたのです。そこに偶像崇拝の危険性があります。また戦前の日本には遊郭があり、遊郭遊びは男の甲斐性と呼ばれていました。同じような正当化です。しかし、不品行とは人間を動物以下に貶める行為であり、自分の体を汚す行為です。パウロは次の6章で語ります「みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです」(6:18)。
・今日では性の自由の下に、不倫に対する道徳的な抵抗感が少なくなりましたが、不倫は聖書の中で、最もしてはいけない行為とされています。不倫が何故いけないか、それは人を傷つけるからです。不倫は当事者の満足のために、お互いの配偶者を傷つける行為です。人は幸福を他者の不幸の上に築いてはいけない、それは道徳の問題ではなく、信仰の問題です。「自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」、この言葉を知る時、不倫の不道徳性が明らかになります。「良い木は良い実を結ぶ、信仰は行為を導く」、そのことをパウロは「すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない」と語るのです。ヤコブは語ります「もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」(ヤコブ2:15-17)。信仰は行為を導きます、良い行いの伴わない信仰は死んでいる、すべてのことが私たちを造り上げるわけではない、そのことを今日改めて確認したいと思います。

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