江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2014年1月19日説教(ヨハネ7:37-44、命の水)

投稿日:2014年1月19日 更新日:

1.仮庵祭りのイエス

・ヨハネ福音書を読んでおります。今日、テキストとして与えられたのはヨハネ7章ですが、そこでは仮庵祭にエルサレムに行かれたイエスをめぐる騒動が描かれています。仮庵祭は秋の収穫祭ですが、後にエジプトからの救済を感謝する意味が付加されて、荒野で先祖たちが用いた仮庵(幕屋)を作ってそこに仮住まいをする祭りになっていきました。10月のエルサレムは神殿に参拝する人々で混雑しています。そのエルサレムで、ユダヤの役人たちはイエスを捕らえようと探していました(7:11)。当時の支配階層であった祭司やパリサイ人たちは彼らの偽善を批判し、神殿を冒涜したイエスを、捕らえて殺そうと計画していました。
・ところが、ユダヤ当局からにらまれ、所在を探されているイエスが、仮庵祭りの時にエルサレムに来られ、人の集まる神殿の庭で教え始められました。群衆はイエスの大胆な行為に驚きます。「これは人々が殺そうとねらっている者ではないか。あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシヤだということを、本当に認めたのではなかろうか」(7:25-26)。この人はメシヤなのか、当局もそれを認めたのか。そんなことはない。メシヤはベツレヘムから来ると預言されている、ガリラヤからではない(7:41−42)。人々のイエスに対する意見は分裂しています。
・しかし一方で、人々はイエスの権威ある教えに驚いて言います。「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」(7:15)。イエスは答えられます「私の教えは、自分の教えではなく、私をお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとする者は、私の教えが神から出たものか、私が勝手に話しているのか、分かるはずである」(7:16-17)。律法学者たちはイエスが安息日に病人を癒されたことを問題にしました。安息日は聖なる日であり、仕事をしてはいけないと律法に定めてあるのに、イエスがそれを無視したからです。イエスは言われます。「モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、私が安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか」(7:23)。神の戒めである律法が、いつの間にか人の掟になって、人々を縛っていたのです。

2.命の水

・ヨハネ7章の記事は7:37-38でクライマックスに来ます。ヨハネは記します「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。『渇いている人はだれでも、私の所に来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる』」。仮庵の祭りは、イスラエルの民がエジプトを出て、荒野を旅した時に、仮庵=天幕で過ごしたことを記念する時です。荒野ですから、水は乏しかった。民は水がなくなると、「何故我々をエジプトから連れ出したのか。私や子供たちを渇きで殺すためか」とつぶやきました(出エジプト記17:3)。神はモーセに「岩を杖で打て」と命じられ、モーセが打つとそこから水が出て、民は飲むことが出来ました(民数記20:11)。それを記念して、仮庵祭の最終日には水注ぎの儀式が行われました。シロアムの池から採られた水が神殿に運ばれ、ラッパの吹奏と共にイザヤ12:3「あなたがたは喜びをもって、救いの井戸から水を汲む」が読まれ、祭壇に水が注がれます。シロアムの井戸から水を汲まれることを通して、神の救いの恵みが想起される儀式が行われたのです。この水運びの行列を見て、イエスが立ち上がって叫ばれました。「渇いている人はだれでも、私の所に来て飲みなさい」。
・日本にいると水は無尽蔵にあるように錯覚しますが、実は水の98%は海水で、残り2%の真水の大半は南極や北極の氷山になっており、人や生物が利用できるのは、全体の0.01%と言われています。その中で人口増加に伴う灌漑農法が普及し、世界中で地下水が枯渇しており、21世紀は水資源の争いの時代だと言われています。正に水は貴重で、人はその水がないと生きていけません。水が不足すると、身体はそれを警告するために、喉の渇きをもたらします。水の有無は生死を決定しますので、人は体の渇きには敏感です。しかし、魂の渇きに関しては、人は鈍感です。魂が渇いているにもかかわらず、それに気付かず、魂の死を招きます。「生ける屍」という言葉は、「体は生きているのに魂は死んだ」人のことを指します。日本では毎年3万人が自殺して亡くなります。原因はいろいろでしょうが、これは「魂の渇きによる死」と言いうるかもしれません。魂にも水が、生ける生命の水が必要なのです。イエスはそのような私たちに、「渇いている人は私のところに来なさい。私が生命の水である聖霊をあなたたちに与える。聖霊はあなたに満ち、もうあなたは一人で生きるのではなく、私と共に生きるようになる」と招かれたのです。
・「生けるキリストに出会う」、「命の水をいただく」、人生においてこれ以上に、大切なことはないと思います。私は二年前から大学で聖書学をもう一度学び始めました。当時説教に行き詰り、福音が語れなくなっていたからです。2年間多くの本を読み、講義を聞き、聖書に関する知識と経験は増え、視野も広くなったと思います。しかし、神学を学び直して痛感するのは、神学は大事ですが、それは所詮ブレーキに過ぎないという思いです。「車を動かすのは信仰というガソリンであり、神学は信仰が曲がらないためのブレーキ」だと榎本保郎先生は言われました。ブレーキの効かない車ほど恐ろしいものはなく、神学なしには聖書の正しい解釈は出来ない、その意味で神学は大切です。しかし、それはブレーキに過ぎず、車を走らせる力は信仰というガソリンから来ます。その信仰は「生けるキリストと出会い」、「生ける水をいただく」ことから来ます。

3.渇く者は来なさい

・ではどのようにして「生けるキリスト」に人は出会うのでしょうか。挫折や苦しみを通して、「自分の魂が飢え渇いている」ことを知らされた時です。そのようにして「生けるキリスト」に出会った一人の人物をヨハネ福音書は紹介しています。ヨハネ4章にあります「サマリアの女」です。今日の招詞にヨハネ4:13-14を選びました。次のような言葉です「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る』」。イエス一行がサマリアの町シケムに着かれた時、郊外の井戸に一人の女が水を汲みに来ました。イエスはその女に「水を飲ませてほしい」と言われ、女は驚きます。ユダヤ人のイエスが敵対しているサマリア人の女に声をかけたからです。びっくりする女にイエスは言われます。「もしあなたが、私がだれであるか知っていたならば、あなたの方から頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」(4:10)。女は更にびっくりして言います「あなたは生きた水を与えることが出来るというのですか」。それに対してイエスは言われた言葉が今日の招詞です。女は直ちに反応します。「その命の水を私に下さい」。
・女は正午に、町外れの井戸まで水を汲みに来ています。水汲みは、普通は涼しい朝か夕方にします。しかし女はあえて暑い昼時に、しかも町外れの井戸に来ています。他の人たちと顔をあわせることが出来ない事情があったからです。水汲みは女にとって苦痛でした。だから女はイエスに「生ける水を下さい」と頼みます。その女の生き方をイエスは指摘されます。女は過去に5度の結婚に失敗し、今は内縁の夫と同棲しています。離縁の原因は、彼女の不身持のためかもしれません。イエスは女と話すうちに彼女の最大の問題は、「水の渇き」ではなく、「魂の渇き」であることに気づかれます。この女は男から男へ頼るべきものを求めていったが、どこにも本当の満たしを見出すことが出来ず、今は「不身持の女」との評判が立てられ、周りの人々から排除され、人目を避けて暮らしています。女が新しくやり直すためには、まず現実を見つめることが必要でした。だから女の最も触れてほしくない部分に、彼女の生き方にイエスは触れられます。
・イエスの言葉を通して、女は自分の罪を知り、全てを知っておられる神がいますことに気づかされます。何とか、この罪から清められたいと女は願いました。女はすべての礼拝から排除されていました。エルサレムでの礼拝は彼女がサマリア人ゆえに締め出されていました。ゲリジム山での礼拝は彼女の不身持のゆえに同胞から拒否されていました。彼女は魂の渇きをいやすための礼拝の場所がありませんでした。イエスは女に言われます「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(4:22)。「あなたは礼拝から疎外されている。でも、私があなたに礼拝の場所を与えよう。あなたが、どこでも、霊とまことを持って礼拝すれば、神は答えてくださる。神はあなたを疎外されない」とイエスは言われました。
・女はイエスの言葉によって回心し、町に走っていって叫びます「私が行った事を全て言い当てた人がいます。この人こそ、メシヤかもしれません」(4:29)。これまで隠したいと思っていた自分の恥を明るみに出して、女はイエスを証しします。サマリアの人々は女の証を聞いてイエスのもとに来て、イエスの話を聞き、彼ら自身も信じました。ユダヤ人と敵対していたサマリア人が、ユダヤ人であるイエスの言葉を聞き、救い主として認めましたが、きっかけになったのは、罪人と思われていた女の証でした。
・ミシェル・クオストと言うカトリック司祭は言います。「イエス・キリストはこの地上に降りられるために私たち一人一人を必要とされている。何故なら、キリストはこの地上にはもはや口と手を持っておらず、地上に降り立たれるためには、人間の口、人間の手を必要としておられるからだ」。ヨハネ7章が私たちに教えるのは、イエスを信じることにより、生ける水がその人から湧き出し、それは自分の渇きを癒やすだけではなく、その生命の水は周囲の人をも潤していくということです。私たちはキリストに出会い、彼から生命の水をいただき、生きるものとなりました。今度は私たちが他の人々に生命の水を運ぶ番です。それはマタイ25:35-36が描く生き方ではないかと思われます。「お前たちは、私が飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれた」。生命の水を与えられた者は次の人に与えるために水を運ぶ、そのような志を持った者が集う場が教会だと思います。

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