江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2014年1月26日説教(ヨハネ8:1-11、罪赦された者の生き方)

投稿日:2014年1月26日 更新日:

1.犯罪と神に対する罪の相違(CrimeとSin) 

・ヨハネ福音書を読んでおります。今日与えられました箇所はヨハネ8章です。エルサレムに入られたイエスは、夜はオリーブ山で宿泊し、朝には神殿に赴き、民衆に教えておられました。そんなある日、律法学者とファリサイ派の人々が姦通の現場で捕えた女性を連れてきて、真ん中に立たせて言いました。「先生、この女は姦通をしている時に捕まりました。こういう女は石で打ち殺せとモーセは律法の中で命じています。ところであなたはどうお考えになりますか」。モーセの律法は姦通を犯した者は死刑に処すと定め(レビ20:10)、申命記は姦通を犯した者は殺して悪を取り除けと規定しています(申命記22:22)。死刑の方法は、慣習法では石打ち刑でした。当時は口伝律法も成文律法と同じくモーセの命令とされていましたので、律法学者たちは、「モーセは律法の中で、このような女たちは石打ちにするようにと私たちに命じました」と言ったのです。 
・しかし、律法学者とファリサイ派の狙いは姦通の処罰ではなく、民衆の間に人気の高いイエスを試して、陥れようとしていたのです。もし、イエスが「女性を殺すな」と言えば律法に違反していると告発し、「女性を殺せ」と言えば、イエス自身が教えている愛の教えに背くと非難しようと企んでいました。彼らはイエスがどちらの答えを選んでも窮地に陥るように計画し、姦通の現場で捕えられた女性を連れて来たのです。彼らがイエスを罠にかけようとしていたことは、姦通の相手方の男性がこの場にいないことで明らかです。彼らの目的は姦通を罰する事ではなく、イエスを陥れることでした。
・イエスは、彼らが問い続けている間、地面に何かを書き続けておられました。ファリサイ人や律法学者たちは、イエスが答えに困って黙っていると思い、嵩にかかって答えを迫ります。それに対して、イエスが言われました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、石を投げなさい」(8:7)。そして「イエスはまた、身をかがめて地面に書き続けられた」(8:8)とヨハネは記します。ところが、イエスの答えを聞いた者は、「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエス一人と、真ん中にいた女が残」されました(8:9)。
・イエスは、「罪を犯したことのない者が、まず石を投げよ」と求められました。それは、「あなたは本当に神の前に無罪だと言えるのか、本当に姦淫の思いを抱いたことはないのか」という振り返りを、処罰しようとして石を構える一人一人に迫られたのです。良心を持つ人は誰も、「自分は神の前に罪を犯したことがない」と言うことが出来ません。人の目はともかく、神の目はごまかせません。その意味で人の罪を裁きうるのは神だけです。だから誰も石を投げることが出来ませんでした。
・この箇所を理解するためには、聖書で言う「罪とは何か」を、知る必要があります。英語では法を犯す罪、犯罪をCrime、内なる心で犯す罪、神の戒めに背く罪をSinと言い分けています。そしてこの内なる罪Sinこそが外に現れ出て、Crimeとなるのです。イエスが、「あなたたちの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げなさい」と言われた後、ファリサイ人や律法学者が立ち去ったのは、「自分たちは神の戒めを破ったことはない。神の前でSinなる罪を犯したことはない」と言い切れなかったからです。ある人は想像します「日本人の場合はもしかしたら石を投げたのではないか」と。日本語の罪はCrime、犯罪であり、法を犯さない限り、日本人は自分の罪を認めません。ルイス・ベネディクトが1944年に「菊と刀」という報告書を書きました。戦後の日本統治のための分析資料です。その中で彼女は、「欧米の文化は罪の文化であるが、日本の文化は恥の文化である」と分析しています。日本人の行動規範になるのは、神の目ではなく世間の目であり、他人がどう思うかが規範になります。だから誰かが投げ始めれば自分も石を投げる。良し悪しは別にして、日本人にはSinの罪認識がないのは事実です。
・聖書のいう罪を正しく認識した時、誰も他人を裁けなくなります。そして誰もいなくなり、その場には女性とイエスの二人だけが残りました。イエスは残った女性に言われます。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」(8:10)。女性が「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(8:11)。イエスはそれ以上、咎めようとせず、女性を解放されました。

2.イエスが身をもって示された神の憐れみ              

・イエスが女性をかばわれた行為は危険を伴うものでした。イエスは女性のそばで身をかがめて、地面に何かを書き続けておられます。もし群衆が女性に石を投げ始めれば、石の一部は当然イエスにも当たります。それはイエスを傷つけ、場合によっては死に至らしめるでしょう。イエスは体を張って女性の盾となり、女性をかばっておられたのです。イエスが神の憐れみを言葉だけではなく、身をもって示された箇所がここの箇所なのです。  
・この物語(7:53-8:11)は聖書では〔 〕の中に書かれています。新共同訳聖書の凡例には「後代の加筆と見られているが、年代的に古く重要である箇所を示す」とあります。つまり、ヨハネ福音書の古い写本の中には記載がなく、後代の加筆の可能性が高く、資料的な問題があるという記号です。伝承そのものは古く、イエスに由来することは争いがありません。仮にそうだとすると、最初に聖書を編纂した人々は何故この古い伝承を受け入れなかったのでしょうか。それは罪を犯したにもかかわらず、その罪を無条件に赦すイエスの態度に、教会の人々が戸惑ったからです。十二使徒の教訓という初代教会の文書において「犯してはいけない罪」が列挙されていますが、最初に来るのが殺人、二番目は姦淫です(十二使徒の教訓2:2)。姦淫は重い罪だったのです。人々は考えました。「姦淫のような重い罪を犯した者を無条件で赦せば、教会の秩序は保てない。いくらイエスの言葉だからと言って受け入れがたいではないか」。その結果、この記事が当初は福音書に編入されず、後になって福音書の一部として、承認されたと言われています。
・しかしこれはイエスの心を斟酌しない解釈だと思います。イエスは言われました。「私もあなたを罪に定めない。・・・これからは、もう罪を犯してはならない」、この言葉は無条件の赦しではありません。正確に訳せば、「もうあなたは罪を犯すことができなくなった」と意味になります。裁きは為された、しかし処罰が猶予されたのがこの事例なのです。罪を犯したのに赦されるとは、刑の執行が猶予されていることを示します。ここに、人を滅ぼすための裁きではなく、人を生かすための裁きが為されています。女を律法通り石打の刑で殺した時、一人の命が失われ、そこには何の良いものも生まれません。しかし、女に対する処罰を猶予することによって、女は生まれ変わり、新しい人生を生き始めます。そしてこの女から命の水があふれ出し、周囲の人を潤し始めます。ここに本当の罪の裁きがあります。これこそイエスの為された裁きなのです。その視点から考えれば、教会は死刑制度について社会への異議申立てを行う必要があるように思います。                                       

3.罪赦された者の生き方
 
・今日の招詞にマルコ5:34を選びました。次のような言葉です。「イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい』」。長血を患う女に対してイエスが言われた言葉です。マルコは記します。「ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。『この方の服にでも触れればいやしていただける』と思ったからである」(5:24-28)。マルコはこの女性の病気を「マスティクス=鞭」という言葉で呼びます。鞭、神から与えられた災いとの意味です。この女性の病気は慢性の子宮疾患だと思われますが、当時出血を伴う病気は不浄とされ、人前に出ることを禁じられていました。古代の人々は出血に触れることによって、病気が感染すると考え、これらの人々を不浄の者として排除していたのです。ですから彼女は正面からイエスのところに近づくことは出来ず、後ろからこっそりとイエスの服に触れました。「この方の服にでも触れればいやしていただける」、この記述の中に、何とかして治りたいという女性の強い気持ちが現れています。そして実際イエスに触れた途端に「すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた」(5:29)。原文では「血の源は乾いた」とあります。
・一方イエスも「自分の内から力が出て行ったことに気づかれ」ました。この力はギリシャ語デュミナス、神の力です。この神の力が外に働けば、力ある業=奇跡が起こります。イエスは「私の服に触れたのは誰か」と言われて、神の力を受けた人を探し出そうとされます。癒していただいた女性はおずおずとイエスの前に出てひれ伏します。イエスは彼女に言われます。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」(5:34)。ここでの救いは単なる病気の癒しではありません。彼女は一人ではない、神は彼女を気遣っておられる、そのことを知ることを通して、この女性が本当に癒されるのです。イエスはこの女性が長い間苦しんできたことを即時に見抜かれました。病に苦しむだけではなく、社会から不浄の者として排斥され、結婚して家族を持つという人並みの幸福さえ奪われてきた、その悲しみを見られました。だから女性に言われます。「安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」。女性の必死の思いとイエスの憐れみが、死んでいた一人の人をよみがえらせたのです。ここにも人を生かすイエスの配慮が見られます。
・「安心して行きなさい。元気に暮らしなさい」というマルコ福音書のイエスの言葉は、「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」というヨハネ福音書の言葉とそっくりです。それは社会から疎外された者への、愛の言葉、赦しの言葉なのです。マザー・テレサは言います「この世の最大の不幸は、貧しさや病いではありません。だれからも自分は必要とされていないと感じることです」(「マザー・テレサ語る」より)。長血を患う女性はイエスとの出会いを通して、「あなたは一人ではない、神はあなたを気遣っておられる」ことを知りました。姦通の罪を犯した女性は、みんなが石を投げようとした時に、彼女の側に立ち、必要ならば石を一緒に受けようとするイエスに出会い、新しい命によみがえりました。私たちもある時、このイエスとの出会いを経験しました。だからこの教会に集められています。そして自分は隣人のために何が出来るかを神にたずねるために祈る存在に変えられたのです。

-

Copyright© 日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会 , 2024 All Rights Reserved Powered by AFFINGER5.