江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2013年2月10日説教(マタイ13:1-23、福音の種を蒔く)

投稿日:2013年2月10日 更新日:

1.イエスの話された「種蒔きの譬え」

・マタイ福音書を読み続けています。今日はマタイ13章を読みますが、ここにはイエスが語られた七つの喩えが集められています。その中で今日は、最初の三つの譬え、「種を蒔く人の譬え」(13:1-9)、「譬えを用いて語る理由」(13:10-17)、「種蒔きの譬えの解釈」(13:18-23)をご一緒に考えていきます。この「種蒔きの譬え」の原型はマルコ福音書4:1-20にありますが、マタイはそれを編集して、喩えを教会論、教会の出来事として語っています。文献学的には、最初の「種を蒔く人の譬え」がイエスの語られたもの、「譬えを用いて語る理由」、「種蒔きの譬えの解釈」はそれを受けた、後代の教会の解釈であるとされています。
・イエスが最初に語られたのは「種を蒔く人の譬え」です。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった」(13:3-6)。パレスチナでは11月から12月にかけて、大麦や小麦の種を蒔きますが、当時は、最初に手で畑一杯に種を蒔き、その後で土を起こして種にかぶせるのが一般的だったそうです。手で蒔きますから、種はいろいろな所に落ちます。ある種は道端に落ち、そこは踏み固められていますから種は根を下ろすことが出来ず、鳥が来て食べてしまいました。別な種は土が浅い岩地の上に落ち、芽を出しても根が張ることが出来ないため枯れてしまいました。別な種は茨の種がある土壌に落ち、麦の種が芽を出すと同時に茨も伸び、茨にふさがれて麦は実を結べなかったとイエスは語られました。三つの種はいずれも実を結ぶことは出来ませんでした。
・しかし「良い地に蒔かれた種は豊かな実を結ぶ」とイエスは語られます。「ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった」(13:8)。最初の種は種のままに終わり、第二の種は芽を出しても成長せず、第三の種は育ちますが実をつけずに終わります。無駄になる種もありますが、農夫は気にしません。種を蒔く人は長年の経験から蒔いた種に多少の損失があっても、良い種は芽を出し、成長し、豊かに実をつけることを知っているからです。ですから、失われていく種があっても平気であり、むしろ豊かな収穫を予期しながら、希望に満ちて種を蒔くとイエスは語られています。
・神の国も同じだとイエスは言われます。イエスは「神の国は来た」と宣教を始められましたが、イエスに従ったのは僅かな人々で、多くの人々は当初はイエスに従いますが、やがて離れて行きました。しかしイエスは希望を捨てません。多くの種が無駄になっても、12の弟子たちはそばに残り、この残った種が豊かな実りをもたらすことを信じておられたからです。イエスの種蒔きの譬えの中心は無駄になった種の嘆きではなく、確実にやってくる収穫の喜びです。イエスはその収穫の喜びを信じて、種(御国の福音)を蒔き続けられたのです。だから弟子たちに「耳のある者は聞きなさい」(13:9)と語られます。

2.教会は思い悩みの中でイエスの言葉を聞いた

・マタイの教会はこの譬えを福音伝道の困難の中で聞きました。その解釈が18節以下にあります。「御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である」(13:18)。「御言葉を聞いても悟らなければ」、福音を聞くが受けいれようとしない多くの人々がいた現実が表明されています。それが「道端に蒔かれた種」です。次の石地に蒔かれた種では、受け入れても長続きしない信仰生活が見つめられています「石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である」(13:20-21)。初代教会は同胞ユダヤ人社会からの迫害の中にあり、迫害を嫌って信仰から離れる人々が後を絶たなかった現実が語られています。茨の中に蒔かれた種の解釈が次に来ます「茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である」(13:22)。この世の思い煩い、富の誘惑、が信仰の成長を阻むという現実がマタイの教会にもあったのです。
・しかし少数であれ、福音の種を受け入れ、イエスに従っていく人たちが必ず存在します。「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである」(13:23)。マタイもまた希望を失っていません。しかしイエスに比べると悲観的です。イエスは無駄になった種を気にしていません。良い種はそれを補って余りある豊かな実りをもたらすからです。他方、マタイは「あの種はサタンが食べてしまった、あの種は枯れてしまった、もう一つの種は実りをもたらさなかった」と失われた種の行方を追いかけています。マタイには伝道がうまくいかないという思い悩みがあります。
・「御言葉が蒔かれる」、「御言葉につまずく」、「御言葉のために迫害が起こる」、当時の教会は一生懸命に伝道しましたが、実りの少なかった厳しさが反映されています。しかし、その中で、「必ず御言葉を聞いて受け入れる人が出てくるから、たゆまず伝道しなさい」とのイエスの言葉が彼らの希望でした。それが譬えの解説部分です。初代教会はイエスの譬えを伝道の困難という思い悩みの中に聞いたのです。では現代の私たちはイエスの譬えをどのように聞くのでしょうか。それが今日の主題です。
 
3.種蒔きの喩と私たち

・今日の招詞にヨハネ12:24を選びました。次のような言葉です「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。イエスは「神の国が来た」と宣教され、多くの人々がその言葉を聞きました。福音の種が蒔かれたのです。それにもかかわらず、イエスは十字架で殺され、イエスの宣教は挫折しました。福音の種は、道端に落ち、岩地に落ち、茨の中に落ちて、芽を出さないか、すぐに枯れてしまいました。イエスが十字架にかかられた時、弟子たちもイエスを見捨てて逃げ出しました。イエスに失望したからです。この人はメシアではなかった、私たちは無駄に人生を過ごしたと弟子たちは思いました。イエスの伝道は失敗したのです。
・その弟子たちにイエスは言われます「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない」(13:14)。私たちはバプテスマを受けても、罪を犯し続ける存在です。私たちは道端や石地や茨の地に落ちた種のようです。御言葉を聞いても種は根付かないし、芽を出さない。そのような私たちのためにイエスは十字架につかれました。弟子たちが本当にイエスに従う者になったのは、イエス復活後です。イエスの十字架刑の時に逃げ出した弟子たちが、復活のイエスに出会って戻って来て、今度はイエスのために死ぬ者に変えられていきます。十字架に死なれたイエスを通して、弟子たちの心に蒔かれ続けていた福音の種が芽を出しました。その時、弟子たちは「無駄になる種はあっても最後には御言葉は豊かな実を結ぶ」ことを信じました。弟子たちは告白します「私たちは、御言葉のために困難や迫害が起きて、つまずきました。私たちは、世の心遣いや富の惑わしの中で、御言葉を聞いても、実を結べませんでした。しかし、イエスが私たちのために十字架につかれたのを見て、私たちはそのような者でも赦されていることを知りました。もう、迷いません」。弟子たちは、イエスのために死ぬことさえいとわない者に変えられていきました。テルトリアヌスという古代教父は言います「殉教者の血は教会の種子である」。弟子たちも「地に落ちて死ぬことによって多くの実を結ぶ」ものとなったのです。
・このように見てきますと、私たちの存在が道端、石地、茨の地、良い地の4種類に分けられるのではなく、4種類の区別は私たちの発展段階を示すのではないかと思われます。最初は御言葉を語られても、見向きもしませんでした。次に、自分が悩みを持ち、御言葉によって救われるかもしれないと思い、すがりました。病気の人が癒しを求めて教会を訪れるのがそうかもしれません。しかし、教会に来ても病気は治らない、失望して教会を去る人は石地の段階かも知れません。さらに、イエスの言葉を聞き、感激してバプテスマを受けた人も、会社や家庭生活が忙しくなると、次第に教会から離れていく現実があります。それは茨の地の段階でしょう。自分もかつては、道端であり、石地であり、茨の地であった。しかし、そのような者がまた教会に戻され、今ここにいる。固い土地も耕されれば良い地になり、石地も石が取り除かれれば豊かな地に変わり、茨の地も除去を繰り返せば農地として豊かな実を結びます。私たちが御言葉から離れていた時も、神はたゆまず私たちを気にかけ、私たちの畑を耕していて下さった。だから、私たちは、今日ここにいる。そのような私たちにイエスが語られます「あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである」(13:16-17)。
・イエスは無駄になる種があっても気にしませんでした。父なる神は必ず良い種をくださり、良い種は芽を出し、成長し、豊かに実をつけることを知っておられたからです。ですから、失われていく種があっても平気であり、むしろ豊かな収穫を予期しながら、希望に満ちて種を蒔くとイエスは語られています。このイエスの楽観論を私たちも共有したいと思います。一度教会に来られても二度目には来られない人もいます。何度か来られてもやがて姿が見えなくなる方もおられます。バプテスマを受け、共に礼拝を守った方が、教会を去る場合もあります。それは悲しい出来事ですが、仕方がない出来事です。しかし、私たちは、福音の種は力を持ち、豊かな収穫をもたらすことを信じています。信じることは力です。神は私たちの小さな群れに素晴らしい教会堂を再建することを許されました。そうであれば、この地にイエスの言葉に従う者たちの確固たる信仰共同体を建設することも許されています。初代の弟子たちが困難の中でイエスに従って行ったその素晴らしい体験を、現代の私たちも辿るのです。種蒔きの譬えはそう私たちを励ましています。

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