江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2013年2月17日説教(マタイ20:1-16、この最後の者にも)

投稿日:2013年2月17日 更新日:

1.ぶどう園の労働者の譬え

・マタイ福音書を読み進めています。今日読みますのは、マタイ20章にあります「ぶどう園の労働者」の譬えです。譬えはぶどう園の主人が、ぶどうの収穫にために働く労働者を雇うために市場に出かけたという言葉で始まっています「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それでその人たちは出かけて行った」(20:1-5a)。当時の労働時間は夜明けから日没までです。だから主人は朝早く市場に来て、労働者を雇います。賃金は当時の日給の1デナリオンです。しかし収穫作業が忙しく労働者が足りない、主人は9時頃にまた市場に出かけ、新しい労働者を雇います。二番目の労働者には1デナリオンの賃金の約束は為されず、「ふさわしい賃金」が約束されました。
・先を読んで行きましょう。「主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った」(20:5b-7)。仕事が忙しく、労働者が足りず、12時にも3時にも新たに雇われます。最後に、夕方になってもまだ労働者が不足していたため、主人は彼らも雇います。しかし彼らの賃金は約束されていません。聞いている人は、労働に見合った「相応の賃金」が払われるであろうと予期しています。
・日が暮れて、ぶどう園の主人は労働者に賃金を支払います。最初に賃金を受け取ったのは最後に雇われた労働者たちでした。主人は1時間しか働いていない彼らに1デナリオンを払います。全く予期しない賃金でした。1日1デナリオンが当時の賃金水準ですから、彼らには1/12デナリオンで十分なのに、1デナリオンが払われたのです。この主人の気前の良さが、最初に雇われた人々の期待を膨らませました。「1時間で1デナリオンであれば12時間働いた我々はもっと貰えるだろう」と彼らは思いました。しかし彼らに支払われたのも1デナリオンでしたので、不満が爆発します「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いた私たちと、この連中とを同じ扱いにするとは」(20:12)。しかし主人は答えます「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたは私と一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい」(20:13-14a)。
・朝から働いた人たちが最初に1デナリオンの支払いを受けていれば、それは約束通りであり、彼らは満足して家に帰ったでしょう。しかし1時間しか働かなった人が1デナリオンを受け取った事実を知った今は、約束通りの1デナリオンでは満足出来ません。同じ1デナリオンでも他者比較をした後では満足できないものに変わっていきます。この譬えはどこに視点を置くかで印象がまるで異なってきます。現代社会の基本は「公平と平等」です。全ての人に門戸が開かれ、能力のある人、業績を上げた人は多くもらい、そうでない人は少ししかもらわないのが社会の約束です。「働いた成果に応じて報酬が与えられる」という世の常識から見れば、たくさん働いた人が少ししか働かなかった人と賃金が同じであることはおかしい。朝から働いた労働者の不満は当然です。
・他方、全ての人に門戸が開かれていても、全ての人が成功するわけではなく、失敗者は冷たい扱いを受ける現実があります。私たちの社会も決して公平ではありません。現代の日本では、同じ労働をしても、正社員と派遣労働者では給与も待遇も大きく異なります。学校を出て大きな企業や役所に勤めることの出来なかった人は、派遣やアルバイトで働くしかなく、そのような非正規労働では家族を養うだけの所得を得ることが不可能な仕組みになっています。18歳あるいは22歳で有利な選択が出来なかった人、あるいは一度正社員という身分から脱落した人は、生涯そのマイナスを背負って生きる、これはおかしいとみんなが感じています。
・秋葉原で無差別殺傷事件が起きたのは2008年6月でした。犯人は派遣労働者として「もののような扱いを受けていた」と告白しています。正社員の人事を行うのは人事部ですが、派遣労働者は調達部が担当していました。まるで部品のような扱いです。また本人が事件を起こしたきっかけは、勤務先から派遣契約を中途解約されることを知らされたためだと言われています。それから5年が経ちましたが、経済的な格差は縮まるどころか、拡大しています。今では労働者の1/3は非正規労働者といわれる人たちで、正社員の平均年収は40歳男性700万円ですが、非正規の場合は同年令で200万円です。200万円は日本の貧困ラインです。20年働いても貧困から抜け出すことが出来ない不公平社会の中では、似たような事件はまた起きるでしょう。幸運にも正社員になった人も過重労働の中であえいでいます。人員削減により、夜の10時,11時まで仕事を強いられ、耐えられない人はうつ病になったり、仕事を辞めたりしています。「誰も幸せになっていないではないか」と聖書は告発します。

2.悪い目=罪を知らせるために行動される主

・主人は何故1時間しか働かない人に、1デナリを支払ったのでしょうか。それは1デナリがないと労働者とその家族は今日のパンが買えないからです。それは生きるための最低賃金なのです。マタイの記事によれば「5時から働いた人は怠けていたわけではなく、他の人たちと一緒に職を求めて朝から広場にいた」(20:7)、しかし体力がないと見られたのか、6時にも9時にも12時にも雇ってもらえなかった。父なる神は、この人々の悲しさを知って、彼らにもその日のパンを買うだけの賃金を下さったのです。今日の説教主題は「この最後の者にも」です。最後の者も生きるために必要なものは与えられる、それが神の国の経済論理です。
・この主人の慈しみが人間をつまずかせます。丸一日働いて文句をいう人々に主人は言います「私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、私の気前のよさをねたむのか」(20:14b-15)。「ねたむ」、原語では「悪い目」です。自分の財産や権利を守るために、私たちが自分の周りに張り巡らしてしまう視線のことです。最初の労働者はこの世的な公平を求め、1時間労働者の賃金が12分の1デナリオンであれば満足したことでしょう。その結果、1時間労働者が今日生きるためのパンを買うことが出来なくとも、それは彼等の関知するところではない。この悪い目、自分の満足のためであれば他人のことを考慮しない悪い目こそ、神が忌み嫌うものです。
・この世は働けない者の悲しさや苦しさは考慮しません。日本では労働組合さえ非正規労働者の雇用改善のために取り組むことをしません。12時間労働者と同じ「悪い目」を持つからです。この世の価値観は能力主義、業績主義であり、社会は労働能力の劣ったものを「役立たず」として捨てます。しかし、私たちがある人々を「役立たず」として捨てる時、実は私たち自身を捨てています。何故なら、私たちもいつかは、無能力者になるからです。病気になるかもしれない。失業して無収入になるかも知れない。年をとれば身体的・精神的能力は衰えます。他人に起こった不幸は自分にも起こり、能力主義の社会では何時敗者になるかわかりません。勝ち組も遅かれ早かれ負け組になります。「そこには平安がないではないか、それで良いのか」と神は言われているようです。

3.この最後の者にも

・今日の招詞にルカ15:32を選びました。次のような言葉です「だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」。マタイの「ぶどう園の労働者の譬え」と同じ精神を伝えるのが、ルカの「放蕩息子の譬え」です。放蕩息子の喩えでは、自由を求めて財産の分前を持って家を飛び出した弟が、放蕩して全てを使い尽くし、やがて飢餓に直面して家に戻ります。父親はその帰還を喜び、彼のために宴席を設けます。「肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」(ルカ15:23-24)。所が、それを聞いた兄息子は怒ります「あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる」(15:30)。家を出て行って何もかも失くした弟を無条件で許すことは、家のために忠実を尽くした兄には耐えられない。自分は正しいと思っている人間は、罪人が救われることを喜ばず、罪人がその罪によって滅ぶことを願っています。そのような兄息子に言われた言葉が招詞の言葉です。
・ぶどう園の労働者の喩えや放蕩息子の喩えは、自分たちは正しい生活をしているから救われて当然だと思うパリサイ人や律法学者に向けて語られています。12時間働いた人とは直接的には彼らを指すのでしょう。他方、1時間労働の人とは、パリサイ人たちから罪人として排斥されていた徴税人や娼婦を指すのでしょう。イエスはパリサイ人や律法学者に言われました「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった」(マタイ21:31-32)。パリサイ人や律法学者は彼らの持つ「悪い目」のゆえに、天国の門は閉ざされているとイエスは断言されました。先に述べましたように、この悪い目を私たちも持っており、聖書は私たちにも問いかけています。
・この物語は「後にいる者が先になり、先にいる者は後になる」(20:16)という言葉で閉じられています。私たちは競争社会の中で、人と人とを比較することが当然の社会に生きています。そして、他人と自分を比較して「自分のほうが良くやっているのに認められない」とか、「あの人は自分より怠けているのに良い思いをしている」と不満を言っています。逆に、ある場合は「自分は何もできないからダメだ」と落ち込んでしまうこともあります。今日の福音は、そういうところから私たちを解放し、もっと豊かな生き方へと私たちを招いています。
・イエスは「あなた方の天の父は、職を求めて朝から広場にいたのに誰も雇ってくれなかった、その悲しさや苦しみを知り、そこに救いの手を伸ばして下さる方だ」と言われます。「後にいる者が先になり、先にいる者は後になる」のです。「この最後の者にも」、経済学者のジョン・ラスキンはこの譬えを基に資本主義経済を批判した著作「Unto The Lastこの最後の者にも」(1860年、岩波文庫訳)を発表しました。現代社会の不幸を救済するために神の国の経済学を導入すべきであると主張です。彼の経済学は「人間を幸せにするための経済学」と言われています。それを読んだマハトマ・ガンジーがそれまでの資本主義や社会主義とも違った、「人間の心の変革を起こす」独自の改革思想に目覚めた契機になったと言われています。アジアで初めてノーベル経済学賞を受賞したインドのアマルティア・センはラスキンの思想を現代化した人です。マタイ20章は現代社会のあり方に警告を発する神からのメッセージであり、同時に私たちの悲しみや苦しみは決して無駄ではないという喜ばしい福音を伝えるものなのです。

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