江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2010年8月1日説教(詩篇23:1-6、主こそわが羊飼い)

投稿日:2010年8月1日 更新日:

1.苦難の中で主を見出した者の讃美

・今日、与えられたテキストは詩編23篇です。「主こそわが羊飼い」と讃美するこの詩編は、多くの人に愛唱され、讃美歌となって歌われてきました。教団讃美歌354番「飼い主わが主よ」(新生讃美歌585番)はどなたでもご存知の讃美歌だと思います。この詩編は何千年もの間、欠乏、不安、あるいは惑いや行き詰まりの中にある人々に力を与えて来ました。それはこの歌が乏しい中で主に養われ、渇いている時に水辺に伴われた経験を通して、「主がそれを為して下さった」と告白するからです。
・詩の内容を味わっていきましょう。最初に1節です。「主は羊飼い、私には何も欠けることがない」(23:1)。パレスチナの地は乾燥し、牧草と水に乏しい所です。その過酷な環境の中で、羊はただ牧者の導きによって緑草を得、また水辺に導かれます。羊が迷子になれば、谷間に落ち込んで飢え、猛獣の餌食になることもあります。その生活体験が詩の背景にあります。2-3節です「主は私を青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、私を正しい道に導かれる」(23:2-3)。
・迷い出た羊が落ち行く先は「死の陰の谷」です。しかし主は迷い出た羊を探し出す牧者のように、私を「死の陰の谷」から救ってくださったと作者は告白します。牧者は鞭と杖を持ち、敵の攻撃から群れを守り、同時に群れにふさわしい訓練をします。それを歌ったのが、4節です「死の陰の谷を行くときも、私は災いを恐れない。あなたが私と共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それが私を力づける」(23:4)。
・羊はおとなしく従順である反面、臆病で、愚かな動物です。動物には帰巣本能があり、鳥などはどのように離れた場所からでも自分の巣にもどることが出来ますが、羊は生存本能が弱い動物ですから、群れから迷い出て荒野に行けば、帰る道がわからず、ついには飢え死にし、あるいは他の野獣の餌食になってしまいます。ですから羊は羊飼いがいないと生きていけない。その羊が例えに使われて、私たち人間を示しています。つまり、この詩は私たち人間も羊と同じように、非常に迷いやすい存在で、一人では生きていくことができない存在だと言っているのです。人生は荒野であり、多くの欠乏と苦しみがあり、病気も死もあります。その中で私たちは牧者である神に出会い、その導きにより、命の糧を日々与えられ、命の水を日々賜っています。自分が「愚かで弱く迷いやすい」存在であり、その自分が「あなたが共にいてくださる」から、たとえ人生の山谷に苦難することがあっても、「恐れない」と詩人は告白します。
・5節から詩は転調し、守護者である主により頼む信仰が表明されます。「私を苦しめる者を前にしても、あなたは私に食卓を整えてくださる。私の頭に香油を注ぎ、私の杯を溢れさせてくださる」(23:5)。詩人は敵を前にしています。敵に追われた時、私たちは余裕がなくなって慌てふためきます。しかし神はその敵の前で、私のために食卓を整えて下さると詩人は歌います。中近東の砂漠地帯においては、強盗や敵に追われた旅人が天幕に逃げ込んだら、その主人は旅人をかくまい、保護する伝統があります。詩人もかつて敵に追われ、天幕に駆け込み、保護されたことがあるのでしょう。詩人は「神の保護のもとにある」喜びを、「私の頭に香油を注ぎ、私の杯を溢れさせてくださる」と表現します。
・私たちの教会はかつて奏楽者がいなくて、礼拝讃美をCDで行っていました。「奏楽者を与えて下さい」という祈りに答えて、主は奏楽者を与えられ、今では5人の当番制になっています。また教会に子どもたちの声が響かなくなった時、私たちは「子供を与えて下さい」と祈り、その祈りに答えて、主は多くの子供たちを与えてくれました。信仰は体験です。過去に恵みをいただいた体験が、現在の不足の中でも将来に希望を持つ根拠となる、そのような励ましをこの歌は与えます。
・主の幕屋にある平安を作者は高らかに歌い上げて、詩篇23篇は閉じられます「命のある限り、恵みと慈しみはいつも私を追う。主の家に私は帰り、生涯、そこにとどまるであろう」(23:6)。「主の家」、主の神殿あるいは聖所を意味しているのでしょう。神の守りの中にこれからもいます、いさせて下さいと詩人は歌います。現代的に言いなせば、教会の中で生きる、あるいは信仰生活を守りますという意味になるのでしょうか。

2.詩編23篇が地獄を神の国に変えた

・この詩編23篇を主題にした物語があります。前に「死の谷を過ぎて~クワイ河収容所」という本をご紹介したことがあります。この物語は詩編23篇を主題にしていますので、再度取り上げてみたいと思います。「死の谷を過ぎて」という本の原題は「Through the valley of the Kwai」です。詩編23篇4節「死の陰の谷を行く」の英訳「Through the valley of the shadow of death」を念頭においた表題です。第二次世界大戦下、インドシナ半島を占領した日本軍は連合軍捕虜と現地人労務者を使って、泰緬鉄道を建設します。一日も早く完成させるために過酷な工事が強いられ、7万人を超える生命が犠牲となりました。後にこの鉄道は「死の鉄道」と呼ばれます。著者アーネスト・ゴードンはイギリス軍の将校でした。彼は書きます「飢餓、疲労、病気、隣人に対する無関心、私たちは家族から捨てられ、友人から捨てられ、自国の政府から捨てられ、そして今、神すら私たちを捨てて離れていった」(122P)、著者はまさに「死の陰の谷」の収容所生活を送ったのです。
・著者は収容所で、マラリヤ、ジフテリヤ、熱帯性潰瘍等の病気に次々に罹り、「死の家」に運び入れられます。死体置き場の横に設置された病舎の、粗末な竹のベッドに横たわり、人生を呪いながら命が終わる日を待っていた著者のもとに、キリスト者の友人たちが訪れ、食べずにとっておいた食物を食べさせ、膿を出して腐っている足の包帯を替え、体を拭く奉仕をします。彼らの献身的な看護によって、著者は次第に体力を回復し、彼らを動かしている信仰に触れて、無神論者だった彼が聖書を読み始めます。そこで彼が見出したのは「生きて働いておられる神」でした。彼は書きます「神は私たちを捨てていなかった。ここに愛がある。神は私たちと共におられた・・・私はクワイ河の死の収容所の中に神が生きて、自ら働いて奇跡を起こしつつあるのをこの身に感じていた」(176P)。そして彼自身も仲間たちと共に奉仕団を結成して病人の介護を行い、竹やぶの中で聖書を共に読み、広場で礼拝を始めます。死にゆく仲間の枕元で聖書を読み、祈り、励まし、その死を看取ります。やがて無気力だった収容所の仲間たちから笑い声が聞こえ、祈祷会が開かれようになり、賛美の歌声が聞こえてくるようになります。彼はその時、思います「エルサレムとは、神の国とは結局、ここの収容所のことではないか」(202P)。詩編23編4節「死の陰の谷を行くときも、私は災いを恐れない。あなたが私と共にいてくださる」という言葉が現実のものになって行ったのです。
・彼は最後に書きます「人間にとって良きおとずれとは、人がその苦悩を神に背負ってもらえるということである。神はキリストを通してそれを背負っておられる・・・ご自分の子どもである私たち人間が最も悲惨な、最も残酷な苦痛の体験をしている時、神は私たちと共におられた。たとえそれが私たちすべての者を破滅させるかに思える苦痛であっても、その苦痛を、いや死そのものすら、分け持って下さっている。神は私たちの死の家の中に入ってこられる。私たちをそこから外へと導きだすために」(383P)。
・「人間にとって良きおとずれとは、人がその苦悩を神に背負ってもらえる」ことであると著者は書きます。神はその苦悩を担う業を、人を通して行われます。聖書では「主が羊飼いである」と表明しますが、社会の中ではその羊飼いの業が支配者、王に委託されます。しかし、支配者たちは往々にして、自分たちの利益を貪り、民を顧みようとしません。その時、神は自らが羊飼いになられると預言者エゼキエルは言います「私の群れは略奪にさらされ、私の群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、私の牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている・・・見よ、私は自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、私は自分の羊を探す」(エゼキエル34:8-12)。
・実際の羊飼いは羊の群れ全体に責任を持ち、個々の羊を導くことはありません。しかし羊が迷い出た時、羊飼いは群れを置いて、その一匹の羊を探しに行きます。イエスは、自分はそのような羊飼いだと言われました。「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか」(マタイ18:12-13)。イエスはまた言われます「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)。

3.主こそよき羊飼い

・今日の招詞に、ヨハネ20:22−23を選びました。次のような言葉です「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る』」。復活のイエスが弟子たちに与えられた言葉です。弟子たちはイエスを裏切り逃げましたが、イエスはそのような弟子たちを赦し、彼らに「私の羊を飼いなさい」と業を委託されます。この赦しと委託を受けて、弟子たちは伝道を始め、教会を建てていきました。「誰にイエスは羊を委託されたのか」、今日では羊飼いの役割(牧会)は牧師に委ねられていると理解されています。牧師(パスター)とは羊飼い(シェパード)のラテン語訳です。しかし牧師だけにその任が委ねられていると考える時、牧師の言動に注目が集まり、「あの牧師は十分なケアをしてくれない」、「あの牧師は羊飼いとしてふさわしくない」とかの批判が多くなり、教会が内向きになりがちです。これはイエスが望んでおられることではありません。
・私たちはイエスが誰に群れを委託されたのかを、もう一度問い直す必要があります。招詞の言葉に明らかなように、イエスは教会の群れに、羊を養うことを委託されています。牧師だけでなく、私たち一人一人が羊飼いに、牧者にされる必要があります。教会とは自分の救いを求めてきた人たちが、他者の救いのために祈る者に変えられて行く場所です。そしてイエスは言われました「私には、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊も私の声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(ヨハネ10:16)。私たちがこの言葉を自分の生活の場で聞いた時、それは私たちが教会の群れの外にいる人たちへの責任を与えられていることを示します。つまり、教会は伝道の責任を持ち、その伝道とは私たち一人一人が、「羊のために命を捨てる」生き方を示すことによって為されます。羊のために命を捨てる生き方を私たちがした時に、クワイ河収容所で起きた奇跡、「地獄と思われた場所が神に国に変わっていく」奇跡を私たちも見ます。私たちはこの教会を神に国にするために、ここに集められているのです。

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