江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2010年8月8日説教(詩編37:1-11、柔和な人は地を受け継ぐ)

投稿日:2010年8月8日 更新日:

1.主の前に静まり、主を待ち望め

・詩編を読み続けています。今日与えられましたのは、詩編37篇です。詩編37篇は「悪しき者が栄えるかのように見えるこの世の中で、彼らを羨まず、神に依り頼んで生きなさい」と教える教訓詩で、長老が若い人たちに教え諭すという形をとっています。各節の頭文字がアルファベット順にならんでいる、いわゆる「いろは歌」で、40節まである長い詩です。今日は前半の1−11節を中心にして、詩編を味わっていきたいと思います。この詩編を一読しますと、「苛立つな」という言葉が繰り返し出てくることに気づきます。「悪事を謀る者のことでいら立つな」(37:1)、「繁栄の道を行く者や悪だくみをする者のことでいら立つな」(37:7)、「自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない」(37:8)、詩篇37編は、この世に悪があり、正しい者が苦しめられている現実があることを見据えながら、「悪を行う者に苛立つな」と教えています。
・悪を行う者に苛立つのは、神がこの世界を支配しておられることを信頼しないからです。詩人は言います「この世で悪人が栄え、正しい者が虐げられるという現実があることを神はご存じであり、彼らを裁かれる。その裁きに信頼せよ」。その裁きにより、「彼らは草のように瞬く間に枯れ」(37:2)、「悪事を謀る者は断たれ」(37:9)、「主に逆らう者は消え去る」(37:10)のだから、あなた方は悪に苛立たず、「主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とし」(37:3)、「主に自らを委ね」(37:4)、「あなたの道を主に任せよ」(37:5)と詩人は諭します。
・そして詩人は結論します「貧しい人は地を継ぎ、豊かな平和に自らをゆだねるであろう」(37:11)。ここで言う「貧しい人」、へブル語アナウィームとは単なる経済的貧しさではなく、虐げられた人、柔和な人を指します。新約時代に用いられたギリシャ語聖書(70人訳)では、この部分を「柔和な人は地を受け継ぐ」と訳します。今日の説教題はこのギリシャ語訳聖書から採ったものであり、この言葉をイエスは山上の説教の中で引用されています「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」(マタイ5:5)。ここでいう柔和とは、単に優しいとか、おとなしいとか、従順なという意味ではありません。虐げられ、貧しくされても、耐え忍び、神の救いを待ち望む信仰の人との意味です。
・それは単に救いを待ち望む消極的な生き方ではなく、主に依り頼んで生きるという積極的な生き方です。だから詩人は言います「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や悪だくみをする者のことで苛立つな」(37:7)。高橋三郎氏は「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ」という個所を「主の前に静まり、主を待ち望め」と訳します(高橋三郎「ダビデの歌」より)。しかし私たちは「主の前に静まり、主を待ち望む」ことが出来ず、「苛立ち」、自分の手で決着をつけようとします。2001年9月11日、ニューヨークの世界貿易センタービルが破壊され3000人が死んだ時、米国のブッシュ大統領は被災現場に立ち、民衆に演説しました「アメリカはテロリストを赦さない。彼らにアメリカの力を見せよう」。群集は熱狂し、ブッシュはテロリストたちの本拠地と目されたアフガニスタンを空爆し、テロ支援国家としてイラクに攻め込みました。そのアフガン・イラク戦争開始から10年近い年月が経ちました。戦争は泥沼化し、死者は米軍だけで6千人、アフガン人やイラク人を含めると死者は10万人を超えます。キリスト教国アメリカでさえ、「主の前に静まり、主を待ち望む」ことが出来ず、「苛立つ」ことによって、大きな惨禍を招いたのです。詩編37:8‐9は歌います「怒りを解き、憤りを捨てよ。自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない。悪事を謀る者は断たれ、主に望みをおく人は、地を継ぐ」。アメリカは悪に苛立ち、悪に対して悪を返した、その罪の報酬を今彼らは支払っていると詩編37篇は教えます。
・詩編37篇は「自らの手で悪を摘み取るな」と教えますが、それは「この世の悪を甘受せよ」ということではありません。「悪に苛立たないであなたは善を行え」と詩人は言います。それが3節「主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ」(37:3)です。「人間の手の内に置かれていない出来事は主に任せよ、しかし委ねられていることは為せ」、ラインホルド・ニーバーの有名な祈りと同じ心があるように思います。ニーバーは祈りました「神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ」。

2.主に信頼し、善を行え

・詩編作者はこの世に悪があることを認め、その中で「主に信頼し、善を行え」(37:3)と言います。「何故この世に悪があるのか、神がおられるのに何故なのか」、昔から人々はこの問いを発してきました。神義論と呼ばれる問題です。哲学者ヒュームは次のように述べます「神は悪を阻止しようとする意思は持っているが、できないのだろうか。それならば、神は能力に欠けることになる。それとも、神は悪を阻止することができるが、そうしようとしないのだろうか。それならば、神は悪意があることになる。悪を阻止する能力もあり、その意思もあるのだろうか。でも、それならはなぜ悪が存在するのか」。現代人はだから神などいない、神がいなければ人を見つめよと教えて来ました。人を見つめた時起こることは、強い者には従い、弱い者は貪るという弱肉強食の競争社会です。その弊害、その限界を私たちは嫌というほど見て来ました。だから私たちは神の沈黙の中で、その沈黙の神に叫んで行くのです。
・イエスが為されたのも「神よ何故ですか」と問い続けることでした。イエスは十字架上で「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。神はこの叫びに応えてキリストを死からよみがえらせて下さいました。だから私たちはこの神を信じていきます。詩編37篇の詩人が強調するのもそのことです。「悪が一時的に栄えることがあっても、やがて彼らは滅びる。地を受け継ぐのは、貧しい人、抑圧されている人、あなた方である」と彼は力説します。それが37:35-36の言葉です「主に逆らう者が横暴を極め、野生の木のように勢いよくはびこるのを、私は見た。しかし、時がたてば彼は消えうせ、探しても、見いだすことはできないであろう」。歴史は神の支配下にあることを私たちは知っているではないか、かつてあなたたちの国を攻め、占領し、支配してきたアッシリアもバビロンもペルシャもギリシャも滅んでしまった。しかしあなた方の小さな国イスラエルは残されているではないかと詩人は言います。
・「驕る平家は久しからず」、ヒトラーやスターリンが一時的に栄えることがあっても、やがて彼らは淘汰されていきます。その中に神の摂理、支配を見て行くのが信仰です。しかし同時に、神に従う人、柔和な者が虐げられるという現実もあります。しかし詩人は言います「人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる」(37:24)、このことを信じて行く希望が信仰者には与えられています。ヴィクトール・フランクルはユダヤ人強制収容所の体験を述べた「夜と霧」の中で報告します「鉄条網の中で、夕焼けを綺麗だ、と見上げることができた人間が生き残った」と。絶望しない力こそ信仰の与える恵みなのです。

3. 悪は私たちを鍛錬するために神が置かれた

・「なぜ悪があるのか」、私たちはこの世界を支配されておられるのが神であれば、悪もまた神が必要なものとしてこの世に置かれたことを見つめる必要があります。へブル書は言います「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」(へブル12:5-6)。ここにあるのは私たちが神の子にふさわしい者となる鍛練として悪が置かれているとの理解です。そして鍛錬された私たちが為すべきことは何か、それを示すものが今日の招詞として選んだ第二コリント1:4の言葉です「神は、あらゆる苦難に際して私たちを慰めてくださるので、私たちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」。自分に加えられる悪に対しては、それを主からの鍛練として受け入れて行く、そして他者に加えられる悪に対してはそれを憤り、悪に苦しむ人々を助けて行く。それがキリストの生きられた道であり、私たちが従うべき道なのだと思います。
・今年の東京バプテスト神学校の夏季講座の講師としてお招きしたのは説教者の関田寛雄先生でした。講義の中で関田先生は、ヘンリー・ナウエン「傷ついた癒し人」を参照しながら、「自ら傷を負い、主に依って癒された者のみが、傷ついた者に届く癒しの言葉を語りうる」と話されました。さらに、マルコ「自分自身の内に塩を持ちなさい」というイエスの言葉を紹介しながら(マルコ9:50)、「人はみな火で塩味をつけられる」(同9:49)と言うこの火とは試練と関係していると言われました。私たちは「火で塩味をつけられる=悪の試練を受ける」ことを通して、悪に苦しむ人たちに届く言葉を与えられると関田先生は言われました。
・そしてかつて聞いた精神科医ヴィクトール・フランクルの体験談を紹介されました。ある深夜、未知の女性から電話があり、絶望し自殺を考えていると言われた。フランクルが生きることの大切さを縷々述べても、それは女性が彼の著書を通して知っていることだった。言葉を失った彼は明日の朝ともあれ面会することを約してもらった。翌朝、女性はほほえみを浮かべてフランクルを訪れた。彼女は言った『私が自殺を思い止まったのは、先生の言葉ではなく、深夜1時間余りも未知の女の話に対応してくれた事実のおかげです。世間は捨てたものではないと思いました』。フランクルは『医師としての自分の生涯の中で最も感動的な瞬間でした』と結んだ」と関田先生は紹介されました(関田寛雄「断片の神学」p242)。このフランクルは先に紹介しました「夜と霧」を書いた著者です。自らも苦しんだゆえに、この女性の苦しみを自己のものとすることができたと関田先生は紹介されました。
・「世間は捨てたものではない」、言い換えれば女性は「闇の中に光を見出した」。「光は暗闇の中で輝いている」(ヨハネ1:5)、この光を指し示すが私たちの教会の使命です。私たちもかつては闇の中の悪に苦しめられ、どうしてよいかわからず、教会の門をたたいた。その教会で「キリストの受けた傷によってあなた方は赦された」という宣言を聞き、その言葉に出会うために、試練や苦しみが与えられたことを知り、新たに立ち上がることができた。その経験が私たちを癒し人に変えていきます。「病まなければ」という詩があります。河野進という牧師の詩です。「病まなければ、ささげ得ない祈りがある。病まなければ、信じ得ない奇跡がある。病まなければ、聞き得ない御言葉がある 。病まなければ、近づき得ない聖所がある 。病まなければ、仰ぎ得ない御顔がある 。おお、病まなければ、私は人間でさえもあり得ない」。この「病む」という言葉を「苦しむ」に置き換えた時、「おお、苦しまなければ、私は人間でさえもあり得ない」と読む時、私たちは詩編37篇の心が理解できます。苦しむことを通して私たちは教会に集められた。それは「神は、あらゆる苦難に際して私たちを慰めてくださる」こと知り、「私たちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができる」ようになるためでした。そのことを今日は感謝したいと思います。

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