江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2010年7月25日説教(詩篇22:1-32、何故私を捨てられたのか)

投稿日:2010年7月25日 更新日:

1.イエスの十字架死と詩篇22編

・7月に入り、詩編を読み進めていますが、詩編22篇はすべての詩編の中で、私たちに最も身近な詩編です。それはイエスが十字架上でこの22篇を叫んで死んでいかれたからです。マルコ福音書ではイエスは十字架上で「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫んで、息を引き取られたとあります(マルコ15:34)。マタイでは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」となっています(マタイ27:46)。マルコはアラム語で、マタイはヘブル語で、イエスの最後の言葉を記しています。この叫びは詩篇22編の冒頭の言葉「私の神、私の神、なぜ私をお見捨てになるのか」から来ています。弟子たちは「イエスこそメシア、救い主」と信じて来ましたが、そのメシアが無力にも十字架につけられ、十字架上で絶望の言葉を残して死なれたのを見て、「この方は本当にメシアだったのか、メシアが何故絶望して死んでいかれたのか」との疑問に苦しめられました。弟子たちはイエスが最後に叫ばれた詩篇22編を繰り返し読み返し、この詩編の中にイエスの十字架の意味を探していき、やがてイエスの死が自分たちの罪を購う贖罪死であることを見出していきます。
・この詩編22篇は、元々どのような詩だったのでしょうか。22篇を一読すると、前半と後半では内容が一変するのがわかります。前半(2~22節)では、人々に嘲られ、攻撃されて、身も心も弱り果てた詩人が、「わが神」に向かって悲痛な叫びを上げ、救いを嘆願する詩です。先ず前半部分を見て行きます。22篇は、どのように叫んでも答えて下さらない「わが神」への嘆きから始まります。「私の神、私の神、なぜ私をお見捨てになるのか。なぜ私を遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか。私の神、昼は呼び求めても答えてくださらない。夜も黙ることをお許しにならない」(22:2-3)。詩人は、敵の激しい攻撃によって、体も心も病みつかれ、死の淵に投げ込まれようとしています。しかし彼にとって敵の攻撃より深刻だったのは、神の沈黙でした。どのように叫んでも答えて下さらない、神は自分を見捨てられたのだろうかという疑念が彼を苦しめています。
・しかし彼は自分たちの民族の救いの歴史を想起しています。「あなたは、聖所にいまし、イスラエルの賛美を受ける方。私たちの先祖はあなたに依り頼み、依り頼んで救われて来た。助けを求めてあなたに叫び、救い出され、あなたに依り頼んで裏切られたことはない」(22:4-6)。この短い言葉の中に「依り頼む」という言葉が三回も出て来ます。「あなたに依り頼んで裏切られたことはない」、父祖からの信仰の伝承の中で、詩人は救済を求めます。日本人であれば「神も仏もあるものか」と虚無の中に沈むでしょうが、長い信仰の歴史を継承する詩人は絶望の中でも神に叫び続けます。その絶望を見ていられる方がおられると信じるゆえです。
・詩人は自分が「虫けら」のように嫌われ、侮蔑と嘲笑の中で辱められている窮状を嘆き訴えます「私は虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。私を見る人は皆、私を嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る『主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう』」(22:7-9)。「虫けら」という言葉はイザヤ40章以下に多く出て来ます。捕囚地バビロンでイスラエルの人々は、敗戦国の人間として、虫けらのように扱われました。戦争に負けたということはお前たちの神が我々の神に負けたということだ、悔しければ自分たちの神に頼んで救ってもらうが良いと、バビロンの人々は嘲笑しました。多くの注解者はこの詩の背後にバビロン捕囚の苦しみを見ています。
・詩人は敵の嘲笑の中で、自分の神、主に対する信頼を言い表します。それが10節以下の言葉です「私を母の胎から取り出し、その乳房にゆだねてくださったのはあなたです。母が私をみごもった時から、私はあなたにすがってきました。母の胎にある時から、あなたは私の神」(22:10-11)。自分が今ここに生きているのは、主よ、あなたが私を母の胎から取り出し、その乳房に委ねて下さったからです。今まで自分を育てて下さったのはあなたです。ですから「私を遠く離れないでください、苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです」(22:12)と詩人は訴えます。
・詩人は多くの敵に囲まれ、身も心も衰弱しています。「雄牛が群がって私を囲み、バシャンの猛牛が私に迫る。餌食を前にした獅子のようにうなり、牙をむいて私に襲いかかる者がいる。私は水となって注ぎ出され、骨はことごとくはずれ、心は胸の中で蝋のように溶ける。口は渇いて素焼きのかけらとなり、舌は上顎にはり付く。あなたは私を塵と死の中に打ち捨てられる」(22:13-16)。いったい何が起こっているのでしょうか。まさに敵から鞭打たれ、十字架にかけられ、息も絶え絶えになっている光景が叙述されています。ある人はイザヤ53章の苦難の僕の死を想起しています。「(彼は)苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように・・・彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた」(イザヤ53:7-8)。この苦難の僕はバビロンからの解放とエルサレム帰還を訴えたために、当局者から処刑されたと考えられています。イエスの弟子たちはこの僕の中に十字架で死なれるイエスの像を投影しました。
・詩人は人に捨てられ、敵から嘲笑され、神の沈黙の中で、神にひたすら依り頼みます。沈黙されている神に「わが神、わが神」と叫び続けます。ここに詩篇作者の信仰があります。彼は訴えます「主よ、あなただけは私を遠く離れないでください。私の力の神よ、今すぐに私を助けてください。私の魂を剣から救い出し、私の身を犬どもから救い出してください」(22:20-21)。

2.嘆きの歌が讃美の歌に変えられる

・転換点は22節後半です。新共同訳は「私に答えてください」と訳しますが、関根正雄氏は22節後半を「あなたは終に私に答えたまいました」と訳します。この個所のへブル語をどのように読むのか、「アニヤティー」と読めば「私を救って下さい」となり、「アニターニー」と読めば、「私を救って下さいました」になるそうです。英訳聖書(NKJ)はこの個所を「You have answered Me=あなたは答えて下さった」と訳します。関根氏と同じ訳です。そしてこの22節後半を転機に、詩編22篇は祈りが聞かれた讃美へと転調して行きます。
・後半(23~32節)は苦しむ者の祈りを聞き届けた主を、公の場で讃える讃歌になっています。「祈りが聞かれた」、その体験が詩人に主を讃美させています。「主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いてくださいます。それゆえ、私は大いなる集会であなたに賛美をささげ、神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。貧しい人は食べて満ち足り、主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように」(22:25-27)。
・個人の苦難と救済は個人的な信仰体験に留まらず、それは礼拝の場において讃美され、共同体の讃美となっていきます。それが22:23-24です「私は兄弟たちに御名を語り伝え、集会の中であなたを賛美します。主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ」。共同体の讃美はやがて、天地を支配される神への讃美になっていきます。神は全地を支配される方であるからです。「地の果てまで、すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り、国々の民が御前にひれ伏しますように。王権は主にあり、主は国々を治められます」(22:28-29)。その讃美は塵に下った者(死者)へも及び、時代を超えて子孫たちにも及んで行きます。「命に溢れてこの地に住む者はことごとく、主にひれ伏し、塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。私の魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を、民の末に告げ知らせるでしょう」(22:30-32)。詩編22篇は叫びで始まり、讃美で終わります。

3.イエスはどのような思いでこの詩を読んで死んでいかれたのだろうか

・イエスが十字架で死なれた時、イエスは「十字架刑で処刑されることに積極的な意味を見出せなかった、絶望とともに死んでいかれた」のではないかと代々木上原教会・廣石望牧師は考えます「イエス自身は、自らの死をどのように理解したのでしょうか。詳細は不明です。はっきりしているのは、『イエスは人々の罪の贖いとして自らの命を捧げるという自覚をもって十字架についた』という理解は、復活信仰をふまえた原始キリスト教における再解釈だということです。この理解はそのままイエス自身の理解には遡りません・・・ではイエスはその死にどのような意味を見出したのか、この点について意見はさまざまです。私に最も本当らしく思われるのは、イエスは十字架刑で処刑されることに積極的な意味を見出せなかった、つまり絶望とともに死んでいったというものです」(2008.3.16代々木上原教会・廣石望牧師説教)。
・今日の招詞に�コリント7:10を選びました。次のような言葉です「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」。廣石牧師のように、私もイエスは絶望の中で「わが神、わが神、何故私を捨てられたのか」と叫んで死んで行かれたと思います。神の子であっても、同時に人の子であったイエスは、十字架を受け入れられたけれども、その後どのような結果になるのかは知られなかった。しかし神はこの十字架で死んでいかれたイエスを復活させて下さった。そこに私たちの希望の源泉があります。ペテロは記します「(イエスは)十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。私たちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」(�ペテロ2:24)。ペテロは自分を救わないメシア、無残にも殺されていく救い主の姿に神の愛を見たのです。
・イエスは絶望の中に死んでいかれました。しかし、絶望の中で「わが神、わが神」と叫ばれました。その祈りに答えて神はイエスを死の床から起こされました。十字架の苦難なしには復活の喜びはありません。それを知る故に、私たちは与えられる悲しみや苦しみを神からの授かり物として受け入れて行きます。その時、「世の悲しみが、神の御心に適った悲しみ」に変わっていきます。私たちはすべてを知ることはできません。意味がないと思われる悲しみ、不条理としか思えない苦しみもあります。ディートリッヒ・ボンヘッファーは、ドイツの牧師ですが、ヒトラー暗殺計画に加わったため、捕えられ、敗戦の2か月前、1945年4月9日に処刑され、死んでいきました。その最期の時、彼は同囚のペイン・ベストというイギリス人に、英国国教会のベル主教に伝言を託しました。それはこういう言葉でした。「彼にこう伝えてください。私にとってはこれが最期です。しかしそれはまた始まりです。あなたと共に、私は、あらゆる国家的な利害を超越する私たちの全世界的なキリスト者の交わりを信じています。そして私たちの勝利は確実です」(E・ベートゲ『ボンヘッファー伝』から)。ボンヘッファーは不条理な死の中で、自分を見つめておられる神の存在を信じ続けたのです。
・詩編22篇の作者は絶望の中でも、「わが神、わが神」と叫び続けました。イエスもまたその叫びを祈られ、復活されました。ボンヘッファーも同じ祈りを祈りました。例え、私たちの人生が絶望と敗北の死に終わっても、それを突き抜け、その先を創り出される方がいて下さることを信じるゆえにです。その祈りは、「世の悲しみ」を、「御心にかなった悲しみ」に変える力を持ちます。沈黙する神に祈り続けた詩人は、「あなたは答えて下さった」と告白しました。神を信じる者は絶望の中でも希望を持ち続けることができるのです。

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