1.預言者を通して語られる主
・今日、私たちは申命記から御言葉を聞きます。申命記はイエスの愛読された書であり、イエスはよく申命記を引用して話をされました。どの戒めが最も大事かとの質問にイエスは申命記6:4を引用されて言われます「イスラエルよ、聞け、私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マルコ12:29-30)。石をパンに変えてみよとの誘惑には申命記8:3で答えられています「人はパンだけで生きるものではない」(ルカ 4:4)。申命記はモーセが約束の地カナンに入ろうとする民に与えた戒めの形式で語られます。イスラエルにとってヨルダン川は荒野と農耕地を分ける境界線です。ヨルダン川の向こうでは偶像の神々が礼拝されていました。人間は高い山や木の下に偶像の神々を祭り、バアルの石柱を建て、アシュラの像を拝んでいました。バールは農耕の神、豊穣多産の神であり、アシュラはその妻です。バールの神殿には娼婦や男娼がいて、人々は欲望のままに振舞っていました。バールやアシュラは人間の欲望の偶像化です。申命記は言います「ヨルダン川を渡り、あなたたちの神、主が受け継がせられる土地に住み、周囲の敵から守られ、安らかに住むようになったならば」(12:10)、「あなたの神、主に対しては彼らと同じことをしてはならない。彼らは主がいとわれ、憎まれるあらゆることを神々に行い、その息子、娘さえも火に投じて神々にささげたのである」(12:31)。
・今日読みます申命記18章にも同じような戒めが語られています「あなたが、あなたの神、主の与えられる土地に入ったならば、その国々のいとうべき習慣を見習ってはならない」(18:9)。いとうべき習慣、人々は自分の子を人身御供として火に焼いて神に捧げ、また占いや呪術、口寄せ、霊媒等を通して神の意思を尋ねていました。私たちは彼らの行為を野蛮な、迷信に満ちた愚かな行為と見ますが、実は私たちも同じ行為をしています。先祖供養をしないから不幸なことが起こるとか、家の方角が悪いから運勢に恵まれないと考える人は意外に多いのではないでしょうか。また私たちも、神社では御神籤を引き、お寺では病気からの快癒を願って護摩をたきます。人間はみな自分を幸福にしてくれる神を求め、自分の都合の良いことを神の意思と信じたいのです。人間の側から神の意思を知ろうとする宗教的自己追求=現世利益こそが、いつの時代でも人々が求めるものなのです。
・申命記はこれらのいとうべき習慣を捨てるように求めます「あなたが追い払おうとしているこれらの国々の民は、卜者や占い師に尋ねるが、あなたの神、主はあなたがそうすることをお許しにならない」(18:14)。神は神であり、人は被造物に過ぎない、被造物に過ぎない人が神の意思を自由に操ることなど出来ないと言います。それではどのようにして神の御心を知ることが出来るのか、預言者を通して神は語られるとモーセは言います「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、私のような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない」(18:15)。預言者は神の言葉を預かる者、神の言葉の代弁者です「預言者を立ててその口に私の言葉を授ける。彼は私が命じることをすべて彼らに告げるであろう」(18:18)。
2.しかし偽りの預言者に気をつけよ
・しかし、全ての預言者が神の言葉を語るのではありません。何故なら人々は裁きの言葉よりも慰めの言葉を欲し、その人々を満足させるために偽預言者が現れからです。申命記は預言者が神の言葉ではなく、民が聞きたがる言葉を語り始めた時、その預言者は死ななければならないと命じらます「その預言者が私の命じていないことを、勝手に私の名によって語り、あるいは、他の神々の名によって語るならば、その預言者は死なねばならない」(18:20)。神の言葉はそれだけの重さを持っているのです。申命記は預言者が本当に主の言葉を語っているかどうかはその結果で判明するといいます。「あなたは心の中で、どうして我々は、その言葉が主の語られた言葉ではないということを知りうるだろうかと言うであろう。その預言者が主の御名によって語っても、そのことが起こらず、実現しなければ、それは主が語られたものではない。預言者が勝手に語ったのであるから、恐れることはない」(18:22)。
・前597年、イスラエルを占領したバビロニアは、人々を捕囚としてバビロンに連れ去りました。第一次バビロン捕囚です。エルサレムに残された人々は苦難が神から与えられたものであることを認めようとせず、エジプトに頼って、バビロニアの支配を逃れようとします。多くの預言者たちは「バビロンからの解放こそ主の御心だ」と預言しました。人々がそう聞きたがったためです。彼らに対してエレミヤが立ち上がり破滅を宣告します「ハナンヤよ、よく聞け。主はお前を遣わされていない。お前はこの民を安心させようとしているが、それは偽りだ。それゆえ、主はこう言われる。私はお前を地の面から追い払うと。お前は今年のうちに死ぬ。主に逆らって語ったからだ」(エレミヤ28:15-17)。預言者ハナンヤは、その年の七月に死んだとエレミヤ書は記します。
・偽預言者は平和がないのに平和を叫びます。それは壁の上から漆喰を塗るような行為であり、基礎のない漆喰は豪雨が来れば崩れ落ちます。偽預言者とそれに耳を傾ける者は滅ぼされます。イスラエルは偽預言者の言葉を信じてバビロニアに反乱を起こし、再度侵略してきたバビロニア軍にエルサレムの町は蹂躙され、焼かれ、人々は殺されていきました。最初の捕囚から10年後、前587年、イスラエルは主の最終的な裁きを受け、国が滅ぼされました。偽預言は人々を滅びへと導くのです。
3.この物語は私たちに何を告げるのか
・今日の招詞にエゼキエル13:3を選びました。次のような言葉です「主なる神はこう言われる。災いだ、何も示されることなく、自分の霊の赴くままに歩む愚かな預言者たちは」。エゼキエル書の「預言者」という言葉を、「牧師」という言葉に言い換えると次のようになります「災いだ、何も示されることなく、自分の霊の赴くままに語る愚かな牧師は」。偽りの預言者の問題は現代の私たちに与えられた使信なのです。
・スイスの小さな村で牧師をしていたカール・バルトはエゼキエル13章をテキストにして「人々を満足させる牧師」という説教を行いました。次のような内容です「偽りの預言者とは、人々に満足を与える牧師のことである。彼は福音の説教者、牧会者、奉仕者と呼ばれるが、しかし彼は人間たちの被用者にすぎない。彼は自分が神の名において語っていると夢想しているが、彼は世論の名において、立派な人々の名において語っているに過ぎない。キリスト教はあなた方にとって好ましく重要なものである。あなた方は生活の美しい飾りとしてそれを好む。しかし、神の霊とこの世の霊との間には平和はない。神の意志と人間の意志との間の平和を説教し、現在の生と新しい生を穏やかに賢く結び付け、民が築く隙間の多い壁に宗教と言う漆喰を上塗りし、人々を満足させようとする、そのようなことには何の意味もない。この説教を聞いて、あなた方が『私はもう教会に行かない』『我々には牧師など不要だ』と言うのも一つの選択である。しかしまた、場合によっては、神の意志によって克服され捕えられることも可能である。あなた方は人があなた方に神について語りつつ、同時にあなた方を満足させてくれるのを、求めることは出来ない。二つのうちの一つを選ばなければならない」(「人々を満足させる牧師」、カール・バルト説教選集6巻より)。
・厳しい言葉ですが、真実の言葉です。神の言葉を聞いてもそれで生活が変えられていかなければ、それは神の言葉を聞いたことにならない、そして聴衆がそういう状態であるのに何も言わない牧師は偽りの預言者なのだとバルトは言います。神の言葉、神の約束に真実に向き合おうとする時、語る者にも聞く者にも、往々にして苦難、あるいは痛みが与えられます。イエスが人々の求めに応じて言葉を語り、病を癒された時、民衆はイエスに従ってきました。しかし民衆がイエスに「私たちの王になって私たちを貧しさから解放してほしい」、「私たちを支配しているローマの軍隊を追放してダビデ王国を回復してほしい」と求め、イエスがそれを拒絶された時、人々は一転してイエスをののしり、十字架につけろと叫び始めます。「神の霊とこの世の霊との間には平和はない」のです。この言葉を私たちは銘記する必要があります。
・現代の預言者は牧師です。牧師も人である以上、自分の思いを語る危険性を持っています。牧師の語る言葉が神の言葉かどうかを判別する知恵を会衆は持つ必要があります。判別の中心は、「牧師がその群れのために命を捨てる覚悟を持っているか」です。自分のことよりも教会のことを第一に考えているか、批判を受け入れる力量を持っているか、何よりもキリストと教会に仕えて生きているかです。そして牧師が真に神の言葉を預かって語る時、会衆もまたそれを聞いて、従う必要があります。申命記は告げます「彼が私の名によって私の言葉を語るのに、聞き従わない者があるならば、私はその責任を追及する」。パウロも聞きたくないことを聞く勇気を持てと言います「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります」(�テモテ4:3-4)。聞きたくないことから耳を背けた時、見たくない現実=自分の罪を見ようとしない時、そこには救いはないのです。牧師は神から預かった言葉を語り、聞く者はその言葉によって自分の罪を知り、悔い改めるが起こる。それが礼拝です。神の言葉は人を変える力を持ちます。神の言葉を聞いてもそれを自分に与えられた言葉と聞かず、人生が変えられていかなければ、それは神の言葉を聞いたことにならないのです。
・河野進と言う牧師がいます。彼が次のような詩を歌っています「病まなければ、捧げ得ない祈りがある。病まなければ、信じ得ない奇跡がある 。病まなければ、聞き得ない御言葉がある 。病まなければ、近づき得ない聖所がある 。病まなければ、仰ぎ得ない御顔がある 。おお、病まなければ、私は人間でさえもあり得ない」。砕かれなければわからない真実があり、苦しまなければ聞けない神の言葉があります。神は神であり、人は人であります。しかし神はその人を愛し、祝福してくださる。苦しみを通して神の真実に触れた時、人は始めてそのことを知ります。そこにこそ、本当の救い、平安があるのです。