江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2008年11月15日葛西集会説教(使徒言行録4:29−30、苦難の中で主を証しする)

投稿日:2008年11月15日 更新日:

1.逃げていた弟子たちが戻ってきた

・使徒言行録はイエスが十字架にかけられた時、逃げていた弟子たちが、復活のイエスに出会って、再びエルサレムに戻って宣教を始めたことを伝えています。エルサレムに戻ったペテロとヨハネが神殿に行った時、そこに足の不自由な人がいて、彼らはその人の足を「イエスの名において」癒します。周囲の人々が奇跡に驚いて集まってきた時、ペテロは集まった人々に説教を始めます。2ヶ月前にイエスを捕らえ、処刑したユダヤ当局者にとって、イエスの弟子たちがまた戻ってきて、「イエスは生きておられる。この人を癒したのは、復活されたイエスだ」と宣教することは耐えられない出来事でした。彼らは神殿の庭でペテロとヨハネを捕らえて言います「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」(使徒言行録4:7)。権力者たちはイエスを処刑することによって、事は終わったと思っていました。ところがその弟子たちがどこからか現れ、「イエスは復活した、私たちはその証人だ」と言い始め、民衆がそれを信じ始めています。「これは危険だ、何とかしなければいけない」と権力者たちは思い、ペテロとヨハネを逮捕しました。
・彼らは、捕まえて脅せば、弟子たちはすぐに黙ると思っていました。イエス逮捕の時に逃げてしまった弟子たちだったからです。しかし、最高法院での裁判の場で、驚くべきことに弟子たちが彼らに反論を始めます。ペテロは言います「この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです」(4:9-10)。彼はさらに大胆にイエスを証しします「他のだれによっても、救いは得られません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(4:12)。2ヶ月前には当局の目を恐れ、逃げ隠れしていたペテロが、イエスが死刑宣告を受けたまさにその同じ場所に立ち、イエスのために弁明を始めています。
・思わぬ反撃を受けて、権力者はたじたじとなります。ルカは記します「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。しかし、足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、ひと言も言い返せなかった」(4:13-14)。イエスと同じように彼らを殺せば、二人を支持する民衆は騒動を起こすでしょう。二人は言葉と業で民衆の心を捕らえてしまったからです。彼らに出来ることは、二人を脅して釈放することだけでした。彼らは弟子たちに言います「今後、あの名によって誰にも話してはいけない」。しかし、彼らはまたもや負かされてしまいます。ペテロは言います「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(4:19-20)。

2.語る力を与えて下さいと祈る弟子たち

・釈放されたペテロたちは仲間のところに戻り、共に祈り始めます。その祈りが今日の聖書箇所です「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」。彼らは「この迫害を私たちから取り除いてください」とは祈りません。むしろ、彼らは迫害を神が与えられたものと考えています。直前の27-28節にはこのような言葉があります「ヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです」。ここにあるのはイエスの十字架死は、神の御手の中の出来事であり、自分たちへの迫害もまた神の御手の中にあるとの信仰です。「幸いや祝福だけでなく、災いも苦難も御心として受けていこう、その中で大胆にあなたを証しする力を与えて下さい」と彼らは祈りました。
・鎌田實「あきらめない」という本を読みました。鎌田實さんは諏訪中央病院で地域医療に取り組んでいる医者です。彼は、患者の病気だけでなく、人生そのものに関わる事によって人は癒されていくとの信念を持って働いています。「あきらめない」とは、病気は治らなくとも生きることをあきらめないという意味です。本の中に、意に反して妊娠して子どもを生むことになった一人のシングルマザーの話があります。彼女は岡山大学に通う22歳の女性でしたが、ある時、親戚の家に泊まった時、従妹の夫に関係を迫られ、強く拒絶しなかったために体の関係を持ってしまいました。ただ一回のみの関係で彼女は妊娠しましたが、妊娠に気づくことなく、妊娠を知った時には既にお腹の子は9ヶ月になっていました。どうしてよいかわからず、彼女は実家の長野に帰り、母親の世話で、諏訪中央病院で子どもを生むことになります。
・父親なしで子どもを生む、自分のこれからの人生はどうなるのか、まだ大学4年であり、相手の男性と結婚するつもりもないし、第一愛情関係などない。悩みながらも臨月になり、出産の時が来ます。子どもが生まれ、乳を含ませ、赤ちゃんのオムツの世話をしているうちに、女性はこの子を与えられたことを喜びと感じるようになります。そして子に「希望」という名前をつけます。著者の鎌田先生は次のように書きます「人間の身体は不思議だ。ちょっとしたすれ違いで子どもが生まれる。間違いもある。人間の関係は不思議だ。たくさんの女たちがこうやって許してきたのだろう。女たちは許すことで成長していった。男たちは許されることで成長を止めた。逃げた男は成長を止めている」。鎌田さんも女性もクリスチャンではないと思いますが、見事に神への信仰に生きておられます。
・三浦綾子さんは、生涯に多くの病気をされた方ですが、「苦難の意味するもの」という小文の中で病気についてこのように書かれています。「私は癌になった時、ティーリッヒの“神は癌をもつくられた”という言葉を読んだ。その時、文字どおり天から一閃の光芒が放たれたのを感じた。神を信じる者にとって、神は愛なのである。その愛なる神が癌をつくられたとしたら、その癌は人間にとって必ずしも悪いものとはいえないのではないか。“神の下さるものに悪いものはない”、私はベッドの上で幾度もそうつぶやいた。すると癌が神からのすばらしい贈り物に変わっていたのである」(三浦綾子「泉への招待」))。ここに信仰があります。病も死も神がお与えになる、今はわからなくとも、それは祝福なのだと受け止めていく信仰です。
・ペテロたちは逃げましたが、戻ってきました。戻ることによって新しい困難を与えられましたが、その困難を神からの試練として受け止めようとしています。神の下さるものに悪いものはない、仮に今、自分たちの教会に迫害が与えられるなら、それを必要な試練として受けよう。この試練を通して、神は良い業をなそうとしておられるのだから。この信仰があれば、世の中に怖いものはなくなります。底の底に転落してもキリストは救って下さる、もし救って下さらないとしたら、底の底で何かをなすように召されている。
・使徒たちの信仰、ティーリッヒの信仰、三浦綾子さんの信仰を、これまで葛西集会をお世話してくださったご一家の新しい出発に当たり、お贈りしたいと思います。ご一家は、これまでの安定した仕事を辞めて新しい仕事につく準備をしておられます。競争が激しく、労働条件も厳しいコンビニエンス業界での新しい働きは困難が多いと思います。しかしその困難を通して信仰の証が出来れば、その働きは神の出来事になっていきます。その信仰を持って新しい仕事を始められますよう、お祈りいたします。

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