1.空の墓の前で戸惑う婦人たち
・今日、私たちはイエスの復活をお祝いするために、この教会に集められました。今年のイースターに、私たちは二つの出来事を経験しました。一つは、一人の兄弟がイエス・キリストを救い主と信じる信仰告白をされ、バプテスマを受けて、私たちの仲間に入られたことです。イエスを救い主と告白することは、「イエスは今も生きておられる」ことを信じることであり、バプテスマは復活を自分の出来事として体験することです。まさに、イースターにふさわしい喜びが教会に与えられました。もう一つの出来事は、長い間、私たちと信仰生活を共にされた一家がこの教会を出て、新しい教会生活を始められるという知らせです。残される私たちにとっては、悲しい出来事です。イースターの喜びの時に、うれしい出来事と悲しい出来事が、同時に与えられました。私たちは、この双方の出来事とも神の御旨と信じますが、神が何故、私たちに、このような出来事をお与えになったのか、その意味を知りたいと思います。今日はルカ福音書を共に読みながら、考えて見ます。
・イエスは金曜日の午後3時ごろに十字架で亡くなられたとマルコ福音書は記します。ユダヤの安息日は金曜日の日没から始まります。十字架にかけられた死体は呪われたものであり、そのまま聖なる日(安息日)を迎えることは出来ませんので、イエスの遺体はあわただしく十字架から降ろされ、墓に入れられました。当時は、遺体を洗い香料を塗って葬るのが一般的でしたが、その時間がないままに、とりあえず葬られたのです。イエスの十字架刑を見守っていたのは、ガリラヤからイエスに従って来た婦人たちでした。彼女たちは、愛するイエスが十字架で殺され、しかも十分な清めなしに墓に葬られたのを目撃し、何とかイエスを丁重に葬りたいと願いました。ですからルカは記します「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、家に帰って、香料と香油を準備した」(23:55-56)。翌土曜日は安息日ですので、婦人たちは待機しました。つらい沈黙の一日であったと思われます。男の弟子たちはみな逃げていませんでしたが、婦人たちはイエスのために、待機しました。
・安息日が明けた日曜日の朝早く、まだ暗い中を、婦人たちは香料を持って墓に急ぎました。墓には大きな石のふたがしてあり、番兵もついています。墓に行っても、中に入れるかどうかわかりません。それでも婦人たちは急ぎました。ところが墓に行くと、石のふたは既に開けられてあり、番兵もいず、中には遺体もありませんでした。婦人たちは途方にくれました。彼女たちは愛する者を奪われた悲しみの中で、せめて遺体を洗い清めることによって、愛する者を慰めたいと願って墓に来ましたが、その遺体が見当たらないのです。イエスを十字架にかけたユダヤ当局者が遺体を動かしたのかもしれない、十字架で死なれたことさえ耐えられないのに、遺体さえも侮辱されてしまうかもしれない。婦人たちは困惑し、途方にくれていました。その婦人たちの前に、輝く衣を着た二人が現れました。口語訳聖書ではその場面を次のように表現しています「そのため途方にくれていると、見よ、輝いた衣を着た二人の者が、彼らに現れた」(24:4)。「見よ」、あなたたちの当惑を超えた出来事が今告げられるとルカは言っています。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言いました「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」(24:5-6)。「イエスは復活された、ここにはおられない」と二人は婦人たちに告げます。婦人たちは何のことかわかりません。二人は続けます「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」(24:6-7)。
・「婦人たちはイエスの言葉を思い出した」とルカは続けます。空の墓を見て、途方にくれていた婦人たちが「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」というイエスの言葉を思い起こすことを通して、イエスが復活されたことを今知ったのです。思い起こす、大事な言葉です。講壇から語られる説教も聴くだけでは単なる言葉です。しかし、自分の人生のある時点で、それを思い起こし、それに従って生きてみようと思った時に、人を養う神の言葉になります。イエスの言葉を思い起こした婦人たちは、もはや途方にくれてはいません。喜びにあふれ、この知らせを弟子たちに知らせるために、急ぎました。
2.「しかし、見よ」と言われる主
・しかし、弟子たちは「この話がたわごとのように思えたので信じなかった」とルカは書きます。イエスの復活について、四福音書は共通して、復活を信じることがいかに困難であったかについて伝えています。マルコはイエスの復活を告げ知らされた婦人たちが「震え上がり、正気を失った」と書き(マルコ16:8)、マタイでは、復活のイエスに出会った弟子たちが「疑った」(マタイ28:17)とあり、ヨハネでは、報告を受けたペテロが墓に急ぎますが、イエスの復活を信じなかったとあります(ヨハネ20:10)。復活はその出来事を目撃した人でさえ、信じることが難しい出来事だったのです。
・私たちも、復活のイエスに出会わない限り、復活はただのお話になります。日本基督教団の調べでは、教団所属牧師2700人のうち、約15%は親が牧師、つまり二世牧師だとのことです。それを調査した戒能先生が、国際宗教研究所のシンポジウムでこの話を紹介したところ、他の宗教の方々から「キリスト教は生きているのですね」という感想を聞かされたそうです。他宗教の場合、二世率は100%近く、それさえ充当できなくて困っているのに、キリスト教会においては牧師の子どもでない人が牧師になる比率が85%になることに驚きがあがったということです(福音と世界・2007年4月号から)。生けるキリストに出会わない限り、この世的に割の合わない牧師になる人はいません。今日でも復活のキリストとの出会いは続いているのです。
・今日の招詞にエレミヤ33:3を選びました。今年の主題聖句に選ばれている言葉です。「私を呼べ。私はあなたに答え、あなたの知らない、隠された大いなることを告げ知らせる」。この言葉は、都エルサレムがバビロン軍に包囲され、まさに滅びようとしている、その時に語られたものです。エレミヤは預言者として神の言葉を伝えました「イスラエルは罪を犯したために神の怒りを受けている。バビロンは神の鞭であり、あなたたちはバビロンに降伏し、自らの罪を認め、悔い改めよ」と。敵に降伏せよ、それが救われる道だと説いたのです。イスラエル王ゼデキヤはエレミヤを売国奴と非難し、彼を捕らえ宮殿の獄舎に監禁しました。その獄中のエレミヤに臨んだ言葉が招詞の言葉です。主は言われました「彼らはカルデア人と戦うが、都は死体に溢れるであろう。私が怒りと憤りをもって彼らを打ち殺し、そのあらゆる悪行のゆえに、この都から顔を背けたからだ」(エレミヤ33: 5)。エルサレムは敵に包囲されているが、敵の軍勢は防御網を破って都に侵入し、多くの者が殺され、都は死体であふれる。これは私の怒りのためだ。しかし、あなたたちが悔い改めるならば、そして私の名を呼ぶのであれば、私はあなたたちに答え、あなたたちの知らない、隠された奥義を伝える。その奥義とは「しかし、見よ、私はこの都に、いやしと治癒と回復とをもたらし、彼らをいやしてまことの平和を豊かに示す」(33:6)ことです。
・「しかし、見よ」、イエスの墓の前で戸惑う婦人たちに言われた言葉がここにも響いています。見える現実は何の希望もないかもしれません。エレミヤが置かれた状況は、都を包囲する敵軍がやがて都になだれ込み、多くの市民たちが殺されるであろうという現実です。その現実の中で、「しかし、見よ」といわれます。ルカ24章の婦人たちの置かれた現実は、愛するイエスが十字架で殺され、その遺体さえも無くなっている状況です。そのような状況の中で、「しかし、見よ」と語られます。そして、この言葉を契機に、状況は変わるのです。イスラエルは滅ぼされ、人々はバビロンに捕囚となりましたが、やがて捕囚民を通して新しいイスラエルが立てられました。イエスの墓の前で戸惑う婦人たちは、やがて復活のイエスに出会い、悲しみは喜びとなります。
・私がこの教会に赴任して5年がたちました。過去において不幸な教会分裂があり、多くの信徒が散らされ、10名あまりの残った人々と共に教会再建のために働いてきました。そして、新しい人も与えられ、教会は再建されたと思った矢先に、5年間共に働いて下さった大事な家族を教会は失いました。小さな教会にとっては大きな痛手です。しかし、主はそのような私たちに「しかし、見よ」と言って下さいます。私たちは、この言葉を手がかりに、原点に戻って教会再建をやり直したいと思います。今回の出来事は神の御心だと信じます。神はこの出来事を通して、出て行かれる一家に新しい任務をお与えになると同時に、残された私たちに新しい教会の建設を望まれています。私たちが過去の出来事をあれこれ思い悩むのは、「生きておられる方を死者の中に捜す」行為です。イエスがよみがえられた以上、墓はもういらないのです。私たちが今なすべきことは、一家が新しい使命のために旅立たれることを祝福し、同時に残された私たちが、ここに神の宮を再建することです。神は私たちと共におられる、そのしるしとして、去る人々と同時に、新しい友を教会に与えて下さったのです。十字架で死なれたイエスは死から復活された。神がイエスを復活させて下さった。そして私たちをも復活させて下さる。この信仰がある限り、どのような状況の中でも私たちは立ち上がることが出来ます。それが復活信仰の力です。