江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2007年4月15日説教(ルカ24:13−35、復活のイエスと出会う)

投稿日:2007年4月15日 更新日:

1.目がふさがれてイエスが見えない弟子たち

・先週、私たちは、ルカ24章前半から、イースターのメッセージを聞きました。イエスの遺体に香料を塗るために墓に急いだ婦人たちが見たものは、墓の石が取り去られ、イエスの遺体がなくなっているという現実でした。その現実に戸惑う婦人たちに、「イエスはここにおられない。復活された。何故生きている方を死者の中に探すのか」という天使の言葉が与えられました。「イエスは復活された」、「イエスは生きておられる」、婦人たちは喜びの知らせを持って、弟子たちのところに急ぎましたが、弟子たちは信じません。ルカは書きます「使徒たちはこの話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」(ルカ24:11)。イエスを神の子と信じ、従って来た弟子たちにさえ、復活の知らせはたわ言だったのです。復活は「自らが経験しない限り」、たわ言です。復活がたわ言である時、十字架は惨めな敗北です。ですから、神は復活のイエスとの出会いを計画されます。それが、今日、読みます「エマオ途上のイエスとの出会い」です。
・その日に、イエスが十字架で死なれて三日目のその日、婦人たちがイエスが復活されたとの知らせを弟子たちに伝えたその日です。その日の午後、二人の弟子がエルサレムからエマオに向けて歩いていました。エマオはエルサレムから11キロ離れたところにある村です。二人は村へ向かって歩きながら、エルサレムで起こった出来事について話し合っていました。ルカによれば、クレオパともう一人の人です。彼らは、おそらくエマオの出身で、イエスに従ってエルサレムに行き、そこでイエスが捕らえられ、十字架で殺されるのを目撃しました。彼らは「イエスこそイスラエルを解放して下さると望みをかけていた」とルカは書きます。この方こそ、神からのメシア、イスラエルの解放者だと信じたから、従って行ったのです。しかし、イエスは十字架上で無力に死なれ、神も救いの手を差し伸べることはされなかった。「この人は救い主ではなかった」、彼らは一時の興奮がさめ、今は失望して、自分たちの家に戻ろうとしています。
・その二人にイエスが近づいて来られ、一緒に歩き始められましたが、二人は「目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」(24:16)とルカは記します。イエスは二人に「何を話していたのか」と問われました。クレオパが暗い声で答えます「この人こそ救い主と信じて従ってきた方が、十字架で殺され、しかもその遺体さえどこにあるのかわからなくなっているのです」。彼らはイエスと話しているのに、イエスがわかりません。悲しみと失意で心を閉ざしている人には、復活のイエスは見えないのです。彼らは過去にこだわっています。「この人は行いにも言葉にも力があった」、「私たちはこの人に望みをかけていた」、「この人は十字架につけられた」、「それからもう三日がたった」、「婦人たちが墓に行ったが遺体は見つからなかった」、「弟子たちも行ったが、見つからなかった」、全て過去形です。過去にとらわれ、そこから出ることが出来ません。故にイエスは言われます「ああ、物分かりが悪く、心が鈍い者たちよ」と。そして続けられます「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」(24:26)。

2.イエスがパンを裂かれたときに、弟子たちの目が開けた

・二人の弟子はまだこの人がイエスであることはわかりません。それでも彼らは、旅人の言葉に何かを感じています。だから、エマオについた時、先に行こうとする旅人を引き止めて言います「一緒にお泊まりください。日も傾いていますから」(24:29)。弟子たちが、この人こそイエスなのだとわかったのは、一緒に家に入り、食卓について、イエスがパンを取り、それを祝福された時でした。二人はイエスの弟子として生前のイエスに従っていましたから、イエスが5000人を前にパンを祝福して裂かれ、養われた場にもいたのでしょう。彼らは旅人の様子から、その時のことを思い起こし、この方がイエスであることがわかりました。その時、イエスの姿が見えなくなりました。
・救い主が死んで3日目に復活するということは聖書にも予言され、生前のイエスも弟子たちに繰り返し言われています。しかし、弟子たちは婦人たちの復活証言を聞いても信じませんでした。信じたのは自分自身が復活の主と出会った時でした。人間は自分で見なければ信じることはできないのです。その人間のために、復活のイエスは来てくださいます。パウロも復活の主に出会ったと証言しています。彼はコリント教会への手紙に書きます「最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが・・・私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、・・・三日目に復活したこと、ケファ(ペテロ)に現れ、その後十二人に現れたことです。・・・ 次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたような私にも現れました。」(〓コリ15:3-8)。
・復活のキリストに出会ったのは、すべて弟子たちであることに注目する必要があります。復活のキリストは信仰がないと見えないのです。エマオに向かう二人の弟子も、自分たちの悲しみで心がふさがれている時にはイエスがわかりませんでした。二人がわかったのは、イエスがパンを裂いて祝福された時、すなわち彼らの信仰の回復をとりなして祈られた時です。二人の弟子は沈んだ心で、エマオに向かっていました。その弟子たちが復活のイエスに出会い、心が燃やされました「道で話しておられる時、また聖書を説明して下さった時、私たちの心は燃えていたではないか」(24:32)。そしてすぐにエルサレムに戻りました。三時間かけて歩いてきた道を、夜遅くにもかかわらず、疲れているにもかかわらず、引き返したのです。自分たちの知った喜びを、他の人たちと語り合わずにはおられなかったからです。悲しみで始まった旅立ちが、喜びと讃美に変わりました。

3.復活とは私たちの人生が無駄でないことを知ること

・今日の招詞に第一コリント15:58を選びました。次のような言葉です「私の愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」。復活とは再び生きることです。私たちが絶望し、自分の力ではどうしようもなくなったどん底から、神の働きが始まる事を見ることです。その時、死は終わりではなくなります。不慮の事故で死んだ人の過去も無駄ではなく、中絶で闇から闇に葬り去られた胎児の命も無駄ではありません。復活の信仰を持つ者には、失敗の生涯はありません。何故なら、死が終わりではないからです。だからパウロは言うのです「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」。悲しむ人は人生の半分しか見ていません。イエスの十字架を見て「もう終わりだ」と嘆く二人の旅人も、人生の半分しか見ていません。しかし、人生にはもう半分があります。神が私たちを愛し、私たちが絶望の中に苦しむ時に、再び立ち上がることができるように手を貸して下さるという事実です。そのしるしとしてキリストが復活されました。そのことを知った時、私たちは変えられるのです。
・最近、復活を象徴するような出来事がありました。ドレスデン・聖母教会の再建です。第二次大戦末期の1945年2月、ドレスデンはイギリス・アメリカ連合軍による大空襲を受け、町は廃墟となり、数万の人が亡くなりました。この“ドレスデン大空襲”により、市の象徴的建物でした聖母教会は瓦礫と化してしまいました。戦後、ドレスデンは東ドイツに編入され、共産政府は、資本主義国の野蛮さを宣伝する意味合いもあって、教会を瓦礫のままに放置しておきました。1989年11月、ベルリンの壁が開き、東西ドイツの再統一が実現すると、市民の間から、聖母教会再建の声が高まりました。イギリスやポーランドなど海外からも支援の動きがあり、再建が始まります。崩れ落ちた瓦礫の一つ一つに番号をつけてその石材を再利用するという復元を目指して、1991年に教会再建は始まり、13年後の2005年10月に完成しました。総工費250億円のうち、140億円はイギリスその他の国からの寄付でまかなわれました。ドイツは戦争加害者であると同時に、戦争被害者です。イギリスは空爆した加害者でもありますが、戦争で多くの国民が死んでいる被害者でもあります。その被害者と加害者がお金を出し合って、聖母教会を再建したのです。50年間、瓦礫のままに放置されていた教会が、また礼拝のために人々が集まる場所になったのです。これが復活です。神が人々の心を動かして、この教会を再び創られたのです。復活とは単に死んだ人が生き返る、蘇生ではありません。復活は生物学的な現象でもありません。そうではなく、死を超えた命が示される出来事なのです。それは、神がこの世界を支配されておられることを信じるか、どうかという出来事なのです。私たちの人生にとっては、「私はたまたま生まれ、たまたまここにいる」のか、それとも「私の人生には意味があり、私は生かされている」のかの、分かれ道なのです。
・二人の旅人は十字架のあるエルサレムから逃げて来ました。現実から逃げていく時、そこには悲しみしかありません。しかし、その悲しみにイエスが同行されます。そして力を与えられ、彼らはまた、エルサレムに、十字架の待つ危険な場所に喜んで帰って行きます。私たちも、このエマオの弟子たちの経験を自分自身で経験する必要があります。私たちに苦しみや悲しみが与えられているのは、私たちが絶望して自分に死に、そこから神を呼ぶためです。神は呼べば答えて下さる。二人の弟子たちはイエスを引き止めたから、イエスは共にいてくださった。私たちも神の名を呼ぶ時、私たちの目が開けて、イエスが共にいてくださることを知ります。その時、私たちは復活のキリストに出会い、新しい命を受けます。新しい命を受けた者は次の者に命を伝えていきます。そのために、ここに教会が立てられました。

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