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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

聖書教育の学び

2021年1月24日聖書教育の学び(2014年3月5日祈祷会、マタイ8:1-17、多くの病人を癒すイエス)

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1.らい病を患っている人を癒す

 

・イエスの時代、らい病者は道を行くとき、『私は汚れた者です。汚れた者です』と声をあげ自分の存在を周囲の人々に知らせる義務があった。社会から隔離され、受け入れられなかった彼らに、安住の場所はなかった。彼らほど人々の偏見と差別に曝された者は、当時のイスラエルには、多分いなかったであろう。レビ記はその頃のらい病者の行動規定を記し伝えている。

-レビ記13:45-46「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『私は汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は宿営の外に住まねばならない。」

・そのらい病人がイエスに近づき、「主よ、御心ならば、私を清くしてください」とひれ伏して懇願した。彼はその願いとおり、その場でたちどころにいやされた。

-マタイ8:1-4「イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。すると、一人のらい病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、『主よ、御心ならば、私を清くすることがおできになります』と言った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち、らい病は清くなった。イエスはその人に言われた。『だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モ-セが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。』」

・このらい病者のいやしは、救いを求める者は、こうあるべきであると教えている。もし、彼がイエスに近づき、ひれ伏して心から願わなかったら、救いの機会を失っていたのである。救いを願う者は誰でも彼のように積極的に願い求めるべきなのである。

-マタイ6:7-10「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさいそうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供に良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」

・今日、らい病はハンセン病と呼ばれている。日本にもらい病に対する悲惨な偏見と差別の歴史があった。日本の強制隔離政策は明治末から始まり、1940年に特効薬が開発され、感染力が弱く遺伝せず、早期発見と薬剤併用治療で後遺症もなく治癒することができると、判明してから以後も続けられた。患者を隔離してきた「らい予防法」は1996年廃止された後、国に対する賠償請求が1996年元患者らにより、熊本地裁に提訴され、国は2001年敗訴した。時の小泉純一郎首相は控訴を断念し、「悲惨な事実を悔悟と反省を込めて深刻に受け止め、深くお詫びする」という一文を盛り込んだ「ハンセン病予防法」を成立させた。

 

2.百人隊長の僕を癒す

 

・ローマ軍の百人隊長が来て、僕の癒しを懇願した時、イエスはこれを癒された。

-マタイ8:5-10「さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、『主よ、私の僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます』と言った。そこでイエスは、『私が行って、癒してあげよう』と言われた。すると百人隊長は答えた。『主よ、私はあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、一言おっしゃってください。そうすれば、私の僕は癒されます。私も権威の下にあるものであすが、私の下には兵隊がおり、一人に「行け」と言えば行きますし、他の一人に「来い」と言えば来ます。また、部下に「これをしろ」と言えば、その通りにします。』イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。『はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、私はこれほどの信仰を見たことがない。』」

・ロ-マ軍はユダヤ人にとって、異国から来た支配者であった。従って、イエスの癒やしは、ユダヤ同朋の枠を越えて、異邦人の支配階級にまで及んだということである。ロ-マ軍はロ-マ帝国が占領した広範な地域に派遣され、その中の精鋭部隊が百人隊で、百人隊長は占領地の政務官でもあった。この百人隊長はその職務と身分にもかかわらず、イエスの前で素直であった。彼はイエスの前に出て、何の疑いも抱かず、中風の僕の癒しを執り成した。イエスは彼の信仰に感動し、イスラエル同朋の中でさえ、これほどの信仰はないと誉めたのである。

-マタイ8:11-13「『言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』そして、百人隊長に言われた。『帰りなさい。あなたが信じた通りになるように』。ちょうどそのとき、僕の病気は癒された。」

・イエスが「言っておくが」と切り出すときは、たいてい重要な話しである。イエスは言う「東や西から異邦人が来て、アブラハム、イサク、ヤコブら信仰の先達といっしょに天国の宴会の席に着く。そのときあなたたちユダヤ人は外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめき、悔しがっても、その時はもう遅い。だから、しっかりした信仰を常に持つように」、と百人隊長の信仰に感動したイエスは弟子たちに教えた。信じた通りになるようにと、百人隊長を祝福した時、僕は癒されたのである。

 

3.多くの病人を癒す

 

・イエスの癒しは弟子ペトロの母にまで及んだ。癒しと悪霊払いの評判は高まり、大勢の癒しを求める人々がイエスの元に来て癒された。イエスに従う者は、助けを求め、癒しを願う人たちの間で、休むことはできない。しかし、不思議なことにイエスに従う間に自分の疲れは癒され、自分の弱さが強められるのを経験する。そして、自分一人では何もできないと思う時でも、思いがけない助力を与えられる。

-マタイ8:14-17「イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝ているのを御覧になった。イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れてきた。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を癒された。それは預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『彼は私たちの患いを負い、私たちの病を担った。』」

・マタイはイエスの癒やしがイザヤ書53章の苦難の僕の預言の成就だったと理解している。

-イザヤ53:4「彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであった」。

・イザヤ53章は主の僕の受難を描く。歴史家は、「主の僕」とはバビロン捕囚からの祖国帰還を導いたセシバザルがモデルになったのではないかと推測する。前539年ペルシア王クロスは捕囚の民に故国帰還を許し、第一陣として王族のセシバザルに率いられた民がエルサレムに戻り、神殿再建に取り組む。セシバザルはダビデ家の家系(エホヤキン王の4男)のため、帰還の民は彼にダビデ王国の再興を期待し、そのため、ペルシア当局は彼に反乱の疑いをかけ、彼は非業の死を遂げたと言われている。神殿は前538年に再建工事が始まるが、何度も中断し、最終的に完成したのは20年後だった。完成した神殿を見て、人々は「主の僕」の犠牲によりこの神殿は立てられたと感謝し、それを歌ったのがイザヤ53章の預言とされる。

・マタイはイエスの癒しの業の中にイザヤ53章「主の僕」の姿を見た。イエスは多くの病を癒されたが、その癒しは触れてはいけないらい病者に触れ(けがれたとされる人に触れることはそのけがれを自分の身に引き受けることになる)、仕事をしてはいけない安息日に癒し(それは安息日違反、律法を軽んじていると非難される)、卑しめられた娼婦や徴税人と交わられた。それらのことが祭司や律法学者の怒りを招き、イエスは十字架につけられた。「イエスの癒しは相手の苦しみを自分の身に引き受けることによって為された」と、マタイは癒しの背後にイエスの贖罪の働きを読み込み、福音書8章にイザヤの「主の僕の預言」を挿入したと思われる。

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