江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2007年4月1日受難日説教(ルカ23:32−43、イエスは十字架で死なれた)

投稿日:2007年4月1日 更新日:

1.自分を救えない救い主

・今日から4月、2007年度が始まります。その新しい年の初めに、私たちは受難日礼拝を持ちます。今年の礼拝が受難日礼拝から始まることに、今年を予感させる何かがあるような気がします。2006年度は概ね順調に物事が進んだ年でした。その反動もあって、2007年度は私たちの教会にとって、多難の年になるかもしれないと思います。しかし、教会が成長するために背負うべき十字架であれば、皆さんと共に背負いたいと思います。十字架こそ私たちの希望であり、十字架無しには復活の栄光はないからです。
・受難日礼拝の今日、私たちはルカ23章から、イエスの十字架物語を読みます。人々はイエスを捕らえ、裁判にかけ、死刑を宣告し、されこうべと呼ばれる刑場まで連れてきました。イエスの手と足には太い釘が打ち込まれ、十字架が立てられました。十字架につけられたイエスを、人々は嘲笑します。ユダヤ議会の指導者たちはあざ笑って言います「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」(23:35)。ローマ兵たちもイエスを侮辱します「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」(23:37)。彼らの嘲笑の言葉は同じです「お前は救い主ではないのか。何故自分を救えないのか」。
・イエスは「自分を救えない救い主」と嘲笑されます。人々がイエスに求めたのは、栄光の救い主です。力によって敵を打ち倒し、人々の尊敬と信頼を勝ち取って、自ら道を切り開いていく救い主です。人々は、病人をいやし、悪霊を追い出されるイエスの行為に、神の力を見ました。力強い説教に、神の息吹を感じました。神の力があれば、自分たちの生活を豊かにしてくれるに違いないと人々は期待しました。しかし、イエスは救いとはそのようなものではないと拒否されます。期待を裏切られた人々は怒り、イエスを十字架につけます。「民衆は立って見つめていました」(23:35)。私たちもまた民衆の一人として、その場にいます。私たちは救いを、幸福を求めて教会に来ましたが、イエスは私たちに「自分の十字架を背負って従って来なさい」と言われます。冗談ではない、幸福ではなく十字架なのか、私たちのある者は教会を去り、別の人は教会に何も期待しなくなってしまいました。私たちもまたイエスを嘲笑する人々の中にいます。
・全ての人が自分を嘲笑する中で、イエスは祈られました「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(23:34)。イエスは自分を嘲笑する人々を呪うのではなく、その赦しを神に祈られます。私たちは不思議に思います。何故、この人はこのような祈りをされるのだろうか。神の子だから出来るのだろうか。聖書は、イエスが激しい葛藤の末に、この言葉に到達された事を隠しません。捕らえられる前の晩、イエスはゲッセマネで祈られました「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください」(22:42)。イエスは死にたくなかったのです。自分を殺そうとする者に憎しみを持たれたのです。しかし、イエスは続いて祈られます「しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください」。死にたくない、辱めを受けたくない、しかしそれがあなたの御心なら従っていきますという決意です。人間としての思いと神の子としての思いが葛藤し、「汗が血の滴るように地面に落ちた」とルカは記述します。その試練に勝たれたゆえに、今イエスは、自分を殺そうとする者たちのために、祈ることが出来るのです。
・イエスが経験された葛藤を、イエスに従う人も経験します。江戸時代、キリスト教は禁止され、信徒は弾圧されました。権力者たちはキリシタンたちを拷問しながら、その耳元でささやきます「お前がこんなに苦しめられても、お前の救い主は何もしてくれないではないか。そんな者が救い主であるはずがない。踏み絵を踏めば、お前は家族の元に帰ることが出来る」。私たちもこの葛藤を経験します。自分の働く会社が組織ぐるみの脱税を行っているのを発見し、告発しようとした時、上司は私たちを止めるでしょう。「不正経理を告発すれば、会社は倒産する。会社が倒産すればお前も家族も路頭に迷う。この程度のごまかしは誰でもやっているではないか」。サタンのささやきに負けた事例が多く報道されています。期限切れ原料の使用をごまかした不二家や、番組捏造を隠蔽しようとした関西テレビもそうです。原子力発電所の事故を隠す電力会社や、談合をやめることの出来ない建設会社もサタンの誘惑に負けたのです。イエスは自分のために神の力を用いることを拒否され、嘲りの中に身を置かれました。「他人は救ったのに、自分は救わない」、この救い主の姿は、私たちに生き方の変革を求めます。

2.一人はののしり、一人は憐れみを求める

・「父よ、彼らをお赦しください」というイエスの祈りは、イエスと共に十字架につけられていた二人の人間に別々の反応を引き起こしました。犯罪人の一人はイエスをののしります「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」。自分を救えないくせに、他者の救いを祈っても何にもならないではないか。私が欲しいのは今この十字架の苦しみから解放する力なのだと。もう一人の犯罪人はイエスに言います「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、私を思い出してください」。彼は訴えました「私は罪を犯したのだから、死刑にされても仕方がない、でも死んだ後の裁きが怖くて仕方がない。私には救って下さいと要求する資格はないが、それでも憐れんで下さい」と。その男にイエスは言われました「はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」。人が死刑の宣告を受けることは、社会から「あなたなど要らない、あなたは生きるに値しない」と断罪されることです。しかし、イエスは言われます「人はあなたなど要らない、死んでしまえというかもしれないが、父なる神にとってあなたも大事な人だ。父はあなたを受け入れて下さる」。
・私たちはこの話をどのように聴くのでしょうか。私たちは死刑にされるほどの悪いことをした覚えはないから、無縁な話だと思うのでしょうか。しかし、そう思う私たちもやがて死ぬ時が来ます。死が今か、先かの違いだけで、私たちも死刑を宣告されている状況は同じです。二人は共に救いを求めています。一方は今現在の苦しみからの解放を、他方は神の憐みを求めています。私たちも、どちらの立場に立つのかが問われています。私たちは何故教会に来るのでしょうか。ここに救いがあると思うからです。しかし、その救いとは「今現在の苦しみから解放される」ことではなく、「苦しみの中にあっても平安である」救いです。

3.十字架の他に救いはない

・今日の招詞に第一ペテロ2:22-24を選びました。次のような言葉です「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。私たちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」。
・イエスが十字架で苦しんでおられた時、弟子のペテロはそこにいませんでした。自分たちも捕らえられ、殺されることを怖れて、遠くから見ていたのです。そのペテロが何故、十字架こそ救いであると言えるようになったのでしょうか。イエスが十字架につけられた時、人々はこぞってイエスをののしりました。「他人を救ったのに自分は救えないのか。神の子なら自分を救え、十字架から降りてみろ」と言うのです。イエスは、人々からのののしりを、黙って受けられました。もしイエスが、私たちの期待通り、その力を示して十字架の縄目を破り、下に降りて、罪ある人々を裁かれたら、どういうことが起こったでしょうか。
・「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば信じてやろう」と言う祭司長、律法学者たちは、真っ先に裁かれるでしょう。そしてイエスの救いは、イエスを信じ、イエスに仕える信仰者たちに与えられます。しかしどこにその信仰者がいるでしょうか。弟子たちはイエスを見捨てて逃げています。彼らも救いの対象にはならないでしょう。私たちも群集との一人として、イエスをののしっています。私たちも救いからはずされます。正しい者だけが救われるのであれば、救われる人は誰もいなくなります。だから、イエスは十字架で人々からの嘲りを全て引き受けることによって、ご自分を打たれ、私たちを救おうとしておられるのです。イエスは十字架の苦しみと死をご自分の身に引き受けて、その代わりに私たちの赦しを父に願われたのです。「父よ、彼らをお赦しください」。この“彼ら”とは私たちなのです。このイエスの祈りによって、私たちに救いの道が開かれました。
・ペテロはそのことを、身をもって体験しました。イエスを裏切り、見捨て、逃げたペテロは、もう救われる価値はないと思っていました。しかし、復活されたイエスはそのようなペテロに現れ、彼を赦し、さらには信徒の群れを委ねられました。だから今、ペテロは告白することが出来るのです「この方は十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担って下さいました。私たちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」。ペテロ自身がまさに、イエスの「お受けになった傷によって、いやされた」のです。十字架の傷によるいやしこそ、救いなのです。私たちが与えられる救いはイエスの十字架の上に立っています。とすれば、私たちはもはやこの世と同じ生き方は出来ない、教会をこの世と同じ利害共同体ではなく、信仰共同体にしなければならない。今年1年間の目標こそ、信仰共同体の形成です。イエスが血の汗を流して苦しまれたのなら、私たちも苦しめばよい。信仰共同体の形成のために必要であれば、私たちも自分たちの十字架を背負って歩くことをためらわない。そのような年にしたいと祈ります。

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