江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2007年3月25日説教(ルカ20:9-19、神への反逆)

投稿日:2007年3月25日 更新日:

1.ぶどう園と農夫の例え

・今日は3月25日、2006年度最後の礼拝です。今日の礼拝後、私たちは教会総会を開きます。教会総会とは、この1年間の私たちの活動を評価し、間違いや誤りがあったのであれば、それを悔い改める時です。教会は信仰共同体ではありますが人間の集団でもありますから、必ず間違いや誤りはあります。私たちはそれを正しく認め、悔い改め、その悔い改めの上に、次の新しい1年のことを思い、祈ります。教会総会は1年間を悔い改め、新しい年に対する希望を表明する時です。この総会を前に与えられた聖書箇所がルカ20章です。
・イエスはガリラヤでの活動を終えられ、エルサレムに来られました。イエスがエルサレムに入城された時、民衆は歓呼して迎えました。この方はメシヤかもしれない、この方の力で自分たちの苦しい生活も良くなるかもしれないと期待したからです。イエスがエルサレムで最初に行かれた場所は神殿でした。神殿では商人たちが犠牲として捧げる動物を売り、流通していたローマ貨幣を献金用のユダヤ貨幣に両替する店を開いていました。イエスは「私の家は、祈りの家でなければならないのに、あなたたちはそれを強盗の巣にした」(ルカ19:46)として、商売をしていた人々を神殿から追われます。神殿を管理する祭司長たちは、イエスの行為に怒ります「「何の権威でこのようなことをするのか」(20:2)。それに答えてイエスが話されたのが「ぶどう園と農夫の例え」です。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した」(20:9-12)。
・旧約聖書では、イスラエルの民はぶどう園に例えられます。この例えでは、ぶどう園はイスラエルを、主人は神を、農夫たちはイスラエルの指導者を指します。神はイスラエルをご自分の民として選ばれ、契約を結ばれ、指導者たちに管理を委ねられました。時が経ち、民がどのように実を結んだのか、その収穫を求めて、神は僕=預言者たちを送られました。しかし、指導者たちは預言者の言葉を聞かず、これを追い出し、次には侮辱してたたき出し、最後には傷を負わせて放り出します。イザヤやエレミヤが預言者として送られ、悔い改めを求めたのに、人々は従わず、彼らを迫害したことをイエスはここで言っておられます。
・ぶどう園の主人である神は考えられます。「今までは僕を送ったので、彼らが私の使いであることに人々は気づかなかったのだ。今度は私の一人息子を送ろう、この子なら彼らもよく知っているから、敬ってくれるに違いない」。そして、神は独り子イエスを地上に送られました。農夫たちはイエスを見て、「これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる」としてこれを殺そうとします。当時のユダヤでは農地のほとんどは大地主が所有し、農民は小作人として働いていました。小作人は収穫の一定割合を地主に支払う義務がありますが、農民たちは考えました「主人は不在だ。小作料を払わなくとも処罰されないだろう。主人はもしかしたら死んだのか知れない。そうであれば跡取り息子を殺せば、ぶどう園は自分たちのものになる」。彼らはこうして、跡取り息子である私を捕らえて殺そうとしているとイエスは言われているのです。

2.神なき世界の暴力

・指導者たちは神が不在である、何も干渉されないのを見て、自分たちの利益をむさぼっていました。神がいなければ中心になるのは人間です。そこではむき出しの自己利益追求がなされ、強い者はますます強く、弱い者は切り捨てられていきます。この例えは2000年前のユダヤの指導者たちに言われていますが、実は私たちに向けても語られています。今日の文脈で言えば、次のようになるでしょう。あなたがたは食べ飽きて多くの食物を捨てているが、世界の他の半分は飢えている。イラクの人々が爆弾テロで死んでいる今日、あなたは何を食べようかと悩んでいる。働いても生活が出来ない人々がいてもあなたは無関心だ。東京には人があふれても、地方の商店街が消滅している事実を、気にかけようともしない。そしてあなたはうそぶく「彼らは働かないから貧しいのだ、彼らは怠け者なのだ」。「でもそうか、本当はあなたが彼らのことを配慮しないからではないのか。あなたもこの農夫たちと同じく、自分のことしか考えていないからではないのか」と問われているのです。
・そうです。私たちも神をなくしています。神の不在を良いことに、自分が主人公になろうとしています。自分が主人公になる時、私たちは他人のものもむさぼります。そのむさぼりが他者を傷つけ、争いを起こしています。ヤコブは言います「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」(ヤコブ書4:1-3)。
・ぶどう園で働く農夫たちはぶどう園の所有者ではないのに、それを自分のものにしたいと願い、主人が送ってきた僕を袋だたきにして追い返し、最後には主人の一人息子を殺してぶどう園を自分のものにしようとします。これが罪です。罪とは自分が主人公になろうとすることです。その時、他者が見えなくなります。

3.悪を善に変えられる神を信仰する

・イエスは人々に言われます「ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人たちに与えるにちがいない」。主人に反逆した農夫たちは罰を受けて除かれ、新しい農夫たちに経営が委ねられるのが当然です。それが世の決まりです。しかし、神はそうされない。イエスは言われました「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」。今日の招詞に詩篇118篇22-25節を選びました。イエスが引用された詩篇の原文です。「家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった。これは主の御業、私たちの目には驚くべきこと。今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。どうか主よ、私たちに救いを。どうか主よ、私たちに栄えを。」
・この詩篇はバビロン捕囚を踏まえた詩です。神は罪を犯したイスラエルを罰するために、バビロニア帝国を用いてイスラエルを滅ぼし、指導者たちを遠いバビロンに捕囚として連れ去りました。イスラエルは捨てられたように思えました。捕囚民はバビロンの地で悔い改め、涙を流しました。時が来て、神は、バビロンに囚われた人々を解放してイスラエルに戻し、新しい国の再建を任せられました。捨てられたかに見えた石を用いて、神はイスラエルを立て直されたと人々は讃美しました。イエスがこの詩篇を引用された意図は明確です。人々はイエスを役に立たない石として捨てるでしょう。しかし、そのイエスを神は死から復活させられます。復活を通して、人々はイエスが神の子であることを知り、自分たちが罪の故に神の子を殺したことに気づかされ、悔改めます。その時、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となる」のです。神の救いはまことに不思議です。滅ぼすべき不実な農夫たちを滅ぼさずに、逆に自分の独り子を殺し、人々に救いの道を与えられました。
・私たちは神をなくして、むき出しの自我が対立する社会を作ってきました。私たちの社会は弱肉強食の暴力的な社会です。しかし、神はそうでない社会を造れと私たちに言われています。マタイ20章の「ぶどう園の労働者の例え」は印象的です。そこでは朝早くから働いた人にも、夕方から1時間だけ働いた人にも、同じ1デナリの労賃が支払われています。1時間しか働かなかった人は、朝から市場に立っていましたが誰も雇ってくれず、夕方になってやっと仕事が見つかったのです。早朝から働いた人は文句を言います「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いた私たちと、この連中と同じ扱いにするのですか」(マタイ20:12)。人間の目からすれば当然の要求です。多く働いた人が多くのお金をもらうのが社会の原理です。しかし、農園の主人は言います「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではないか。・・・私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」。最後の者も家族を養うためには1デナリのお金が必要だ、私は彼にも生活できる賃金を支払ってやりたいのだと神は言われています。今、最低賃金法の改正が国会で議論されています。現在の最低賃金法では、フルタイムで働いても生活保護世帯の基準以下の収入しか与えられず、生活が成り立たないからです。日本の最低賃金は地域によって格差がありますが、最高で時給719円(東京)、最低は610円(青森など)で、フルタイムで働いても月収10~12万円台にしかなりません。一生懸命に働いても生活が成り立たない仕組みがここにあります。神はマタイ20章を通して、あなたがたもこの問題に関与せよといわれているのです。
・私たちの生活の中に、日曜日の礼拝が差し込まれていることは、本当に恵みです。私たちは、週6日は競争社会の中で働きます。そこでは効率が優先し、弱肉強食の原理が働きます。しかし、教会に来れば、信頼を裏切った農夫たちにも悔い改めの機会が与えられ、働けない労働者にも生きることが許されている社会があります。教会こそが本来の社会なのです。私たちは神なき社会の暴力の中に身を置かざるをえませんが、日曜日には神の憐れみに接して、再び生きる力を与えられます。教会は私たちの生活の一部ではなく、私たちの本質に係わる場、どう生きるべきかを神から聞く場なのです。信仰によって罪からの解放がなされ、自我が追放される場です。「牧師の言葉に傷ついたからもう教会に来ない」とか、「あの人は嫌いだから付き合わない」とかが議論される場ではなく、受けた恵みをどのように伝えていくのか、どうすれば私たちが相手の足を洗うように愛し合うことが出来るのかを聞く場所です。午後から持たれます教会総会で、私たちはそのような問題を話し合っていきたいと思います。

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