江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2006年7月2日説教(使徒言行録13:1-12、目が開かれよ)

投稿日:2006年7月2日 更新日:

1.迫害によって広がる福音

・今、私たちは聖霊降臨節の中にいます。聖霊降臨節の中にいるとは、弟子たちが聖霊を受けてキリストを伝える者になったように、私たちも聖霊を受けて福音を証しする者になりなさいという招きの中にあることです。聖霊は人に語る力を与えます。イエスの弟子たちは、十字架の時に逃げましたが、復活のイエスと出会い、この人こそ神の子、キリストだと信じる者になります。その確信が聖霊の励ましを通して、証言という積極的な行動に変えられ、迫害を受けても語ることを止めない者に変えられて行きました。
・弟子たちの証しはやがて、神以外のものに頼る人々への批判となって行きます。批判はユダヤ人の信仰の中心であったエルサレム神殿に向かいました。弟子の一人ステパノは言います「あなた方は主の神殿、主の神殿というが、神は人の手で造ったようなものには住まわれない」。これは、エルサレム神殿があるからこそ自分たちは神の民だと誇る、ユダヤ教徒には耐え難い批判でした。今、誰かが靖国神社の境内に行って、「この神社に戦争で亡くなった英霊が祭られているとあなた方は言うが、英霊などいない。あるのは名前を書いた紙切れ一枚だ。あなた方は紙切れを拝んでいるのだ」と言ったら、人々は怒るでしょう。同じような、あるいはそれ以上の批判がエルサレム神殿に対してなされました。人々は激昂し、ステパノを捕らえ、石で打ち殺しました。
・ステパノの殉教を契機に、エルサレムにいた信徒たちへの迫害が始まります。信徒たちはエルサレムから追われ、サマリヤやシリアに逃れ、先々で福音を語りました。迫害を通して、福音がエルサレムの外に伝えられました。伝えられた福音はやがて、シリアのアンティオキアにおいて、ギリシャ語を話す異邦人にも語られ、異邦人教会が生まれてきます。使徒言行録13章はこのアンティオキアから、更に異邦世界に福音が拡がっていく様を描いています。
・13章1節以下にアンティオキア教会の主だった指導者の名前が書いてあります。バルナバはキプロス出身のユダヤ人で、エルサレム教会から監督として派遣されて来ました。シメオンはアフリカ出身の人、ニゲルとはニグロ、黒人の意味です。キレネ人ルキオ、キレネは北アフリカの都市です。マナエンはヘロデ王家と関わりを持つユダヤ人でした。サウロは小アジア・タルソ出身のユダヤ人で、かつては教会の迫害者として知られていましたが、今は回心して、アンティオキアにいます。さまざまな土地から来た、さまざまな人々が、キリストの名の下に一つにされて、教会を形成しています。このアンティオキアで信徒は初めてクリスチャンと呼ばれるようになります。私たちの教会も、さまざまな土地から来た、さまざまな人々が、キリストの名の下に集まっています。国籍だけでも日本、中国、韓国、ブラジル、フィリッピンとさまざまです。多様性がアンティオキアの強さであったように、私たちの教会の強みでもあります。
・アンティオキア教会形成までの歴史を見る時、「迫害が福音伝播の力になった」ことを私たちは知ります。エルサレムで教会迫害が起こらなければ、弟子たちはエルサレムの外には出ず、キリストの教えはユダヤ教の一派に終わったことでしょう。迫害を通して人々はサマリヤやシリアに押し出され、そのシリアから更には異邦世界へ福音が伝えられて行きます。伝道は迫害を通してなされる、あるいは伝道は困難があるから成功する、このことは私たちへの励ましです。篠崎教会がある江戸川区は創価学会や共産党が強い地域で、伝道は難しいと言われています。だからこそ、私たちのこの地での伝道は成功する、アンティオキアの例はそのことを示しているような気がします。

2.アンテイオキアから異邦世界へ

・アンティオキア教会で、人々は集まり、礼拝し、祈り、断食をしていました。その時、教会に神の言葉が伝えられます。「バルナバとサウロを私のために選び出しなさい。私が前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために」(13:2)。バルナバとサウロは教会の中核であり、バルナバは主任牧師、パウロは副牧師的な役割だったと思われます。二人がいなくなると教会は困る、人々は困惑したことでしょう。教会は困った時には祈ります。そして痛みがあっても、それが御心であれば従おうと決心します。3−4節は原文に忠実に訳すと次のようになります「彼らは二人を解放し、二人は聖霊に遣わされてセレウキアに下った」。人々は二人を教会の任務から解放し、主が求められる任務に派遣したのです。伝道とは教会から派遣される行為です。伝道の本質は特別伝道集会を開くことでもないし、チラシやパンフレットを撒くことでもなく、私たちがそれぞれの場、職場や学校や家庭に派遣されていく行為です。礼拝の最後に行われる祝祷は派遣のための祈りです。礼拝でいただいた力を持って、それぞれの場で証しすることが出来ますようにとの祈りです。
・教会から送り出されたバルナバとサウロは、バルナバの故郷であるキプロス島に向かいました。彼らはセレウキアから船に乗り、キプロス東部のサラミスに上陸します。当時のキプロスはローマの属州であり、セルギウス・パウルスという総督に治められていました。島には多くのユダヤ人が住んでおり、二人はまずサラミスのユダヤ人会堂に行き、宣教を始めます。使徒たちの伝道はいつも「まずユダヤ人に福音を」という使命感で始められます。私たちが外国に住む時、まずそこにいる日本人社会と関係を持つのと同じで、ごく自然の行動でしょう。
・二人の伝道は評判を呼び、ローマ総督が彼らに会いたいと言ってきました。二人は首都パフォスに行きます。総督官邸にはバルイエスという魔術師がいました。彼は宮廷魔術師でした。当時の人々は占いや神託を信じていましたから、宮廷にお抱え魔術師がいることも珍しくなかったのです。彼は総督がバルナバとサウロの話を聞いて、回心することを恐れました。自分の地位が脅かされると考えたからです。彼はあらゆる手を使って、妨害しようとします。サウロは彼の干渉に腹を立て、言います「あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう」(13:10-11)。
・こうして魔術師の目が閉じられ、彼は見えなくさせられます。しかし、これは呪いではありません。「時が来るまで」、一時的に目が閉じられたのです。パウロ自身がキリスト教の迫害者から回心した時に、三日間目が見えなくなると言う経験をしています。目が見えなくなることによって人は始めて、自分がいかに無力で哀れな存在に過ぎないかを知らされます。その時、過去の生活がいかに虚栄に満ち、空しいものであったかが見え、回心します。盲目にされることを通して人は目が見えるようになるのです。伝承によれば、バルイエスはその後、クリスチャンになったと言われています。
・総督セルギウス・パウルスはこの出来事を見て、驚き、信仰に入ったと聖書は伝えます。バルイエスが盲にさせられた奇跡を見て、信仰に入ったのではありません。「総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入った」とあります。神は自分を救うために、パウロとバルナバという二人を遠い国から派遣し、一人の魔術師を盲にしてまでも、自分を招いて下さった。神がこれほど自分のために心を砕き、これほどむきになって下さったことを知って、彼の心の目が開かれ、彼は信仰に入ったのです。

3.目が開かれる

・今日、私たちは、招詞として、ヨハネ9:41を選びました。次のような言葉です「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」。
・イエスは、生まれつき盲目の人を憐れんで癒されました。しかし、その日が安息日でしたので、パリサイ人たちは、安息日を破ったと言ってイエスを責めました。その彼らに語られたのが、招詞の言葉です。イエスは彼らに、「何故一人の人の目が開かれたことを喜ばず、その日が安息日だといって怒るのか。あなた方は聖書を読みながら、なぜ父なる神の御心がわからないのか。あなたがたは見えると言っているが、実は見えていないのだ」と言われたのです。もし患者が、自分には少しも悪いところはなく健康であると医者の前で言い張るなら、医者は何の治療も施すことはできず、その人は病気で死んでしまうでしょう。生まれつき盲の人は、自分は盲目であり、人々から罪人だと断罪される人生を歩んできました。だから、イエスの前に出た時、「私は罪人です。私をいやしてください」と正直に自分を告白できたのです。しかし、パリサイ人たちは「自分たちは正しい、自分たちは神の戒めを全て守っている」と言い続け、罪人であるとことを認めないゆえに、救いから遠ざけられているのです。今日、私たちが、様々な人生の問題の解決を求めて礼拝に来て、それらの諸問題が解決されたとしても、私たち自身の病=罪がいやされていなかったら、何の意味も無いでしょう。身の回りの困難が取り去られることよりも、それを乗り越えることができる心の健康=罪の赦しこそ第一に求めるべきものです。
・使徒言行録13章では、パウロの行為を通じて、バルイエスという一人の目が閉じられました。閉じられることを通して「見える」と思っていた自分が、実は見えなかったことを知らされ、回心に導かれていきました。その出来事を通して、見えていたが実は見えなかったセルギウス・パウルスの心の目が開き、神と出会うことが出来ました。これは、私たちの教会でも起こっている出来事です。「自分は強い。自分は一人でも生きていくことが出来る。神などいらない」と思っていた人が、病気や困難を通して、一時的に目をふさがれ、自分がいかに哀れな存在であるかを知らされ、悔い改め、神と出会う経験をします。その回心の出来事のしるしであるバプテスマを見て、多くの会衆が改めて神と出会います。教会にバプテスマ者が与えられた時、この使徒言行録13章と同じ出来事が起きていることを覚えたいと思います。

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