江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2006年7月9日説教(使徒言行録13:13-30、神の言葉の力を見よ)

投稿日:2006年7月9日 更新日:

1.歴史は神の導きの中にある

・今日、私たちは使徒言行録13章を読みます。パウロの一行は、キプロスでの宣教を終え、船で小アジア(現在のトルコ)のペルゲに渡り、そこからピシディヤのアンティオケに進み、安息日に会堂に入って席に着きました。ユダヤ教の会堂では安息日ごとに人々が礼拝に集まり、律法と預言の書(旧約聖書)が読まれた後、一人の人が立って短く説教します。今日のキリスト教会の礼拝の形は、このユダヤ教の伝統を継承するものです。さて、会堂の管理者は、巡回伝道者であるパウロとバルナバが来ているのに気づき、「会衆のために励ましのお言葉があれば、話して下さい」と声をかけてくれました。宣教者パウロにとって願ってもないチャンスでした。パウロは早速立ち上がり、「イスラエルの人たち、ならびに神を恐れかしこむ方々、よく聞いてください」と語り始めます。イスラエルの人たちとはユダヤ人、神を恐れかしこむ人々とは改宗した異邦人のことです。会堂に集まったユダヤ人と異邦人に向けてパウロは語り始めます。
・そのパウロの説教が16節から41節にかけて記録されています。今日はその説教の前半部分を中心に学んでいきます。彼がまず述べるのはイスラエルの歴史です。17節:神はイスラエルの先祖たちを選び、エジプトで大きな民族に育て上げ、奴隷の境遇に貶められていた彼らを、エジプトから解放しました。出エジプトの出来事です。18節:エジプトを出た民は40年間荒野をさまよいましたが、神は彼らを養い、導かれました。19節:民は約束どおりカナンの地に導かれ、裁き人といわれる士師の指導のもとに守られました。21-22節:イスラエルは王制に移行し、サウル王を経てダビデが王に任命され、イスラエルは栄えます。23節:神は、このダビデ王の子孫から救い主イエスを送って下さいました。
・前半部分の第一の特徴は、主語がすべて神であることです。「神は、私たちの先祖を選び出し・・・神はエジプトから導き出し・・・神はカナンの地を相続させて下さり・・・神は裁く者たちを任命なさり・・・神はサウルをお与えになり・・・神はダビデを王の位につけ・・・神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送って下さった」。「神は、神は、神は」、歴史の主体は神であり、神が世界を支配し、歴史を導いておられることをパウロはここで証言しています。この認識は非常に大事なことです。神を信じない人々は言います「歴史の主体は人間であり、人間が歴史を作っている。神などいない、いるのは人間だけであり、強い者の歴史だけが残っていく」。私たちがこの二つの歴史観のいずれを選ぶかで、私たちの歩む道は異なってきます。
・もし人が歴史の主体は人間だと考えれば、彼の人生は他の人々との戦いになります。弱肉強食の世界の中で、勝った人だけが表舞台を歩き、負けた人は退場を余儀なくさせられます。このような社会では平安はありません。勝った人もいつかは負けていくからです。他方、歴史の主体が神だとすれば、私たちの人生は別の歩み方になります。パウロはイスラエルの2000年を概観し、「神が選び、導き、育み、与えた」と結論付けます。もし、私たちが、歴史は神により導かれていることを信じるならば、私たちの人生もまた、「神が選び、導き、育み、与えた」人生であることになります。私たちが出会う人、出来事、全ては偶然ではなく、必然だということになります。私たちが今、課題や問題を抱えているとすれば、それは神によって与えられていることになります。そして神が恵みの神であるとすれば、課題や問題は私たちを呪うためではなく、祝福に導くために与えられていることになります。このことを信じるとき、人生の意味は根本から変わってきます。どのような人生であろうとも、それを肯定できるようになるのです。パウロの説教は、私たちがどのような歴史認識を選ぶのかと問いかけてきます。信仰とは、わからないことを無理に信じることではなく、自分はどのような人生を生きるのかを選び取ることです。

2.聖書の真理は歴史の中で実証されてきた

・パウロの説教が教える第二は、聖書は歴史の中で書かれ、検証されてきた書物であるという事実です。最初の選びが為されたアブラハムは紀元前2000年の人であり、モーセの出エジプトが為されたのは紀元前1500年、ダビデ王が出たのが紀元前1000年です。そしてパウロが話している時点は紀元後40年頃です。パウロは2000年間のイスラエルの歴史の必然としてキリストが来られたと証言しています。そのパウロの証言から更に2000年の時が経過しています。そのことが教えるのは、聖書は2000年間の歴史の中で書かれ、その後2000年間の歴史の中で、検証されてきた書物であるということです。このような書物は聖書の他にはありません。
・これが私たちの人生に、どのような関係を持っているのでしょうか。それは私たちが悩む罪、私たちが負わねばならない重荷、私たちに求められる忍耐、それらは過去の人たちも味わい、苦闘したものだということです。私たちが初めてではないのです。「かつてあったことは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない」(コヘレト1:9-10)。聖書には2000年間の人々の苦しみや悲しみが記録されています。そして、その苦しみや悲しみがどのようにして解決されたかも書かれています。
・人は言うかもしれません「私の問題は私だけの問題であって、他の誰も取って代わることは出来ない。イエスでさえ私の身代わりにはなれない」と。しかし、私たちの抱える問題はほとんど過去の人たちも直面して、解決してきた問題です。故にヘブル書の著者は言います「私たちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか」(ヘブル12:5)。聖書は私たちが生きるうえで必要な道を示すことが出来る書であることを、パウロの説教は主張しています。

3.罪の赦しのために来られた方を信じる

・26節から説教は後半に入ります。後半の特徴は、主語が人になっていることです。27-29節:「エルサレムに住む人々は・・・イエスを罪に定め・・・イエスを死刑にするように求め・・・イエスを木から降ろし、墓に葬りました」。神が主語の時は祝福と恵みがあったのに、人が主語になると、たちまちそれは呪いと悪意に変わります。救い主が世に送られたにもかかわらず、人々はこれを拒否し、十字架につけて殺したとパウロは迫ります。それにもかかわらず神は人々の悪意を超えた行動をされました。それが復活です「しかし、神はイエスを死者の中から復活させてくださったのです」(13:30)。神の意思は人の思いを超えて為される、神の愛は人の悪を超えて進むとパウロは証言しています。
・今日の招詞として使徒言行録13:38−39を選びました。説教の結論部分です。「だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです」。
・神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださいました。この時まで、死はすべての人に対して最後の敵であり、最後の勝利者でした。知恵ある者も、力ある者も、徳ある者たちもみな死にました。「しかし、神はこの方を死者の中からよみがえらせた」、これが福音です。救いを必要とする人は、みな絶望的苦しみの中にいます。福音は、十字架の死という絶望の真只中から生まれました。イエス・キリストの復活、人知を越えた神の力、ここに救いがあります。これまで、死は暴君のように奪い、絶望だけを残して行きました。死は終わりだと思っていましたが、神は死の向こう側を見せてくださいました。
・このイエス・キリストの復活は約束の成就です。それは、旧約聖書に預言されていました。この預言が成就したとパウロは言います。神の言葉の確かさがここにあります。神は約束されたことを必ず実現して下さいます。私たちの日常では、約束に欺かれて怒りや悲しみを募らせ、人間不信に陥る事がよくあります。しかし、神の言葉は確かです。イザヤは言います「私の口から出る私の言葉も、むなしく、私のところに帰っては来ない。必ず、私の望む事を成し遂げ、私の言い送った事を成功させる」(イザヤ55:11)。
・「神がイエスを死人の中からよみがえらせて、もはや朽ちることのない方とされた」(13:35)。朽ちると言う言葉は、肉体が腐敗して土に帰ることです。死者の肉体が朽ちていく姿は、悲惨で耐え難いものです。しかし、神はキリストを死者の中からよみがえらせてくださいました。私たちは、イエスにあって、朽ちることのない永遠の生命に招き入れられたのです。そして38節です「罪の赦しが宣べられているのは、この方によるのです」。パウロは「私たちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、私たちも義と認められます。イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義とされるために復活させられたのです」(ローマ4:24-25)と述べます。イエスの十字架の死は贖いです。私たちの罪の身代わりとしてイエスは死なれました。そのことによって私たちの罪は赦されました。それを保証するのは、イエスの復活です。イエスが死からよみがえられたように、私たちも死んでも生きる、それは私たちの罪が十字架であがなわれ、新しく生まれることが可能になったからです。
・以上がパウロの説教の要旨です。そしてパウロが説教を終えたとき、人々は「次の安息日にもまた話して下さい」と頼みました。神の言葉が人々に伝わり、教会が生まれたのです。そして教会は、このパウロの説教を繰り返します。「次の安息日にもまた話して下さい」、願わくは、アンティオキア教会で起こった出来事がこの篠崎キリスト教会でも起こりますように。

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