江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2006年6月25日(日)説教(使徒言行録16:16−24、解放された人)

投稿日:2006年6月25日 更新日:

1.占い女の物語

・今日、私たちは、聖霊降臨節第四主日を迎えます。聖霊降臨とは文字通り、聖霊(神様の霊)をいただくことですが、聖書は、霊には「神様の霊」と「悪霊」(悪魔の霊)の双方があると記します。イエス様は宣教の中で悪霊を祓うことを大事な業としてなされました。現代の私達からしますと、悪霊あるいは悪霊祓いというのは、何かおどろおどろしく、聖書のこのような証言を聞きますと困惑さえします。しかし当時の人々は、理解出来ないあるいは治らない病気や障害は悪霊の働きだとみなして、そこからの解放を望みました。そして、多くの人が、イエス様の悪霊祓いの出来事にふれて、イエス様が人間を悪しきものから解放し、お救いになる力をもたれる方であることを知り、信仰に導かれて行きました。今日、私たちが読みます使徒言行録も、パウロによる悪霊祓いの出来事を記しています。
・ある身分の低い女の人がいました。彼女は精神的に不安定でした。悪霊にとりつかれていたのです。彼女の口から出る言葉は、普通ではありません。時には気が狂ったかのように叫んだり、周りに理解できないおかしな言葉を発しました。悪賢い男達は彼女に目をつけ“占いの女”として金儲けに利用しました。彼らにとって、占い女は金儲けの道具です。奴隷として扱ったのです。「私は道具なんかじゃない。一人の人間として生きたい!」どこかで彼女の魂は叫んでいました。でも悪霊はそれをゆるしません。彼女は悪霊に捕らえられ、その虜にされて、長い間苦しんでいたのです。今、私は、使徒パウロ達が出会った女性の話をしました。彼らは伝道でピリピという町にいて、祈りに行く途中この占い女に会ったのです。2000年も昔の話ですが、今私達の生きる時代、日本社会に通じるものを見出せます。
・多くの人は占いが好きです。朝のテレビで「今日の占い」は定番のメニューです。「双子座のあなたの今日の運勢は・・・」ふと気がつくと耳を傾けてしまいます。そんな時、自分に都合の悪い事はすぐ忘れようとします。いいことだけ聞きたいのです。一方、初めは遊び心のつもりでも、深みにはまって占い師の言うことに振りまわされたあげく、自分自身の主体性まで失ってしまう人もいます。占いとは、自然や物に現れた徴候や現象、あるいは統計学から研究し、人間が考えあみ出したものです。これは偶像にすぎません。人間は造られたもの(被造物)です。それにもかかわらず、創造主なる神に心を向けないで、自分で作ったものに頼ろうとするのは、すべて偶像崇拝です。
・偶像崇拝は、私達の生活のあちこちで見られます。金・銀・銅・木・石で作った像を拝むことは勿論、自然を拝むこと、人の思想や概念を絶対視すること、ある特定の誰かや死んだ人間を神とすることも偶像崇拝です。自分自身の中に、何か未知の崇高なるものを生み出そうとするカルト的な新興宗教も、偶像と言えるでしょう。お金・酒・ドラック・快楽・ねたみ・憎しみ・・・それらに身も心も奪われ、創造主なる神から離れることも偶像崇拝と言われます。そして聖書は「偶像に囚われた状態」を「悪霊につかれた」と表現します。
・私は以前、病院で栄養士の仕事をしていました。その時、拒食症の方を担当しました。彼女は20代の美しい女性でした。食べ終わったあとのトレーにはいつもメモがありました。「ごはんの量を30〓減らして下さい。」「朝はヨーグルトはやめて下さい。」「高カロリー栄養剤は、イチゴ味だけにして下さい。」など細かな要望です。入院病棟に行き話を聞くうちに、彼女は「失恋したショックから昔、拒食症になりました。」と打ち明けました。食べ残しがほとんどなかったのに、彼女の体重は減る一方。血液検査でわかる栄養状態は最悪でした。ある日、彼女がなぜか外来のトイレから出てくるところバッタリ出会いました。「こんにちは」互いに笑顔で挨拶しました。彼女の入っていたトイレに行くと嘔吐した痕跡がありました。食事の後、わざわざ外来病棟へ移動して、食べた物を全部吐いていました。食後1時間はナースステーションで見張られるようになりました。その頃から私は、心療内科が無いこの病院の外科に彼女が入院していることに限界を感じる、否、治療方針が間違っていると思えてなりませんでした。数ヶ月後、彼女は亡くなりました。165〓以上あった彼女の最後の体重は、25キロでした。霊安室で棺に入れる時、軽々と持ち上がりました。彼女に必要だったのは、食事の後吐かないように監禁することではなかった。高カロリー栄養剤でもなかったかもしれない・・・。この病院で心のケアはなされませんでした。彼女は受入れることのできない過去を背負い、そこから逃げ出したい、忘れたい為に摂取障害に陥ったのです。そして、痩せ細った身体をもって「誰かに助けてほしい」「振り向いてほしい」とSOSを送っていたのです。
・私も同じ摂取障害で、過食症のようになった経験があります。食べる又は食べないことに異常なまでに執着して、現実逃避やストレスのはけ口にすることも偶像崇拝の一つであり、悪霊にとりつかれていると言えないでしょうか。「女性はキレイじゃないといけない。キレイになるにはスマートであるべきだ。スマートになるためには食べてはいけない。絶対に」と、歪んだ思い込みに心が奪われ支配される。仮にこの女性の拒食症の原因がそうであれば、これは悪霊の業であり、悪霊の業は人の命さえも奪っていくのです。悪霊の業とは、2000年前の架空の出来事ではなく、現代の私たちの問題でもあるのです。

2.助けを求める占い女

・占いの女、この女性に転機がおとずれます。イエス様の福音を携え伝道していた一行、パウロ達を見つけたのです。彼女はパウロ達の後ろについて来てはこう叫びます。「この人たちは、いと高き神の僕(しもべ)で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです!」。幾日も叫び続け、しつこくつきまといパウロ達を困らせます。なぜ彼女はこんなことをしたのでしょう?悪霊はパウロ達を神のしもべと鋭く見抜きました。イエス様が悪霊に悩む人を助けられた時、その悪霊はイエス様に向かって「神の聖者」「いと高き神の子イエス」と見抜いて叫んだという福音書の記事を思い起こします(マタイ8:28~、マルコ5:1~、ルカ8:26~)。悪霊は聖なる者を見抜く力を持っていることがわかります。誠の神が誰であるかを知っているのです。それは悪霊の「近寄らないでくれ」というイエス様に対する激しい拒絶だったのです。
・しかし、パウロ達に近づいた時のここでの叫びは、まるで「福音に耳を傾けなさい」と民衆に宣伝するかのようです。悪霊が最も忌み嫌い憎んでいるのは福音のはず。どうして悪霊は、彼女の唇を使って、パウロ達を称賛し、伝道を手助けするようなことをしたのか?パウロは手紙(〓コリント11:14)でこう書いています。「だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。」福音に耳を傾けよと伝道を助け御言葉を支持するかのようにふるまい、悪霊はパウロ達に近づいたのでしょうか?確かにこのことが原因で、パウロ達は捕まり、虐待され、牢に投げ込まれます。これは、ずるがしこい悪霊のたくみな罠だったのでしょうか?
・「この女の叫びは何を意味するのか」。この問いについて他にも様々な解釈があります。ここで私達はいま一度、この女性のこれまでの悲しい惨めな生涯を思い巡らしてみましょう。悪霊にとりつかれ、捕らわれの身となった一人の女性。自由のない暮らし。自分を商売道具として利用し奴隷として扱う男達。もはや体も思考も自分の物ではなくなってしまった。私はなんて惨めな女だろう・・・。この人の魂が、叫んだのではないでしょうか?「私をここから助け出し、解放し、救って下さい。あなた達なら、それが出来るのではないですか?」、SOSのサイン。それが、彼女をこの奇妙な行動へと突き動かしたのではないでしょうか?彼女を取り巻く状況は真っ暗闇でした。しかしそのどん底にあっても必死にSOSを送り続けました。それはパウロを振り向かせました。彼女があまりにもしつこく付きまとったので、たまりかねて振り向いたのです。パウロは彼女を支配する霊に向かって命令しました。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け」。するとすぐに、悪霊は彼女から出て行ったのです。彼女はもはや商売道具ではなくなりました。すべての霊を思いのままに出来る神、イエス・キリストの御名によって解放されたのです。

3.バプテスマを受けて

・ところで、私達も、かつて主なる神様に向かってSOSを送った一人一人ではないでしょうか。私たちは、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けました。またこれから受けようとしています。皆さんがバプテスマを受けた時、そこには、どのようなドラマがあったのでしょうか?私のバプテスマは11才の時です。小学校4年生の時、学校でいじめられていました。クラスの女子に無視される。トイレで顔をぶたれる。あまり楽しくない学校生活でした。家に帰って部屋にこもり、自分を嫌っている者は何人かと、その人たちの意地悪な目を思い浮かべては数えました。毎日、根暗です。ある日、給食の時間、6人の女子がやってきて、防災頭巾を手に次から次へと私の頭に投げつけました。防災頭巾は火事や地震の時、頭をガードするクッションみたいなものですから、さほど痛くありません。でも心は痛みます。その間なぜか、十字架のイエス様を想いました。「あの時、イエス様は痛かったのだ」と初めて知りました。なぜ初めてかと言えば、それまで私は「イエス様は神様だから、鞭で叩かれても、釘で手足を打ち砕かれても全然平気、痛くなかったんじゃないかなあ。」と勘違いしていたからです。
・この出来事からイエス様を受け入れました。本当の痛みと苦しみを知っている方、何より「一人ぼっち」を知っている方として身近に感じられたのです。十字架に向かったイエス様は弟子達に逃げられ裏切られ、人々から欺かれ、侮辱され、馬鹿にされ、本当に孤独であったからです。翌年バプテスマを受けました。バプテスマの翌日、何かが変わるのではないかと期待して登校しました。でも、そこはいつもと同じ現実でした。バプテスマを受けたからといって、自分を取り巻く状況がガラっと変わるわけではなかった。では何が変わったのか、それは自分自身の思いでした。「私自身にも何か原因があったかもしれない」。悔い改めが与えられたのです。もう自分を嫌う者は誰か、それは何人かと顔を思い浮かべてはその目の数を数えるような、意味のない虚しいことをしなくなりました。私の心を支配していた、憎しみ・被害者意識から解放されたのです。
・一度、イエス様を信じバプテスマを受けた私達に与えられることは何か。それは、心配・悩み・問題が過ぎ去ることか?束縛や支配が無くなる事でしょうか?そうではないのが現実です。偶像が満ち、悪霊が働くこの地上…今日ここに集められた私達は、そんな現実の直中で暮らしています。もしかしたら、ある方は大切な人を亡くした。あるいは仕事を失しなった。そのショックから立ち直れず、うつ病になってしまった。心病む自分は理解されないのか?社会の、家族の無理解に嘆いているかもしれない。ある方は、笑顔をふりまいて率先して奉仕をしています。でも本当は、職場の人間関係・家庭・育児でのストレスや緊張や疲れから神経症(ノイローゼ)になっているかもしれない。またある方は病気を患い、その痛みと苦しみが何年も何ヶ月も続いたことで望みを失いかけているかもしれない。ある方は、誰かに縛られて全く自由のない暮らし。ある方は、自分の内なる欲望・欲情に行動が振り回され、自分の感情すらコントロールできない。罪に悩み打ちひしがれる日々。ある方は心配事・不安を抱え、それに囚われ思い煩っている。・・・それでも今日私達はどうにかして、なんとかこの教会に辿り着き、集められました。なぜでしょう。礼拝するためです。

4.本当の解放

・本日の招詞は、聖書箇所に続く御言葉、使徒言行録16:25~26です。「真夜中ごろ、パウロとシラスが讃美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入った。突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。」 
・主人たちの下(もと)に束縛され、悪霊の下(もと)に捕らわれの身であった占い女。この女性をイエス・キリストの御名によって解放したパウロとシラス。皮肉にもこのことによって、今度は彼ら自身が捕らわれの身となり、鞭で打たれ虐待を受けたあげく、牢に投げ込まれ足かせをはめられ束縛されます。しかしここで、彼らは、牢獄の中で「讃美の歌をうたって神に祈った」とあります。これは礼拝です。礼拝の直後、大地震が起り、牢の扉が開き、全ての囚人の鎖が外れてしまったのです。これは、礼拝によって解放が与えられる、その象徴ではないかと私は思います。たとえ今、牢獄の中、暗闇に閉じ込められたかのような、何かに囚われ縛られている私達であったとしても、教会に来て礼拝します。イエス様が私達を招いて下さるからです。イエス様は、心病む私達にとっての最大の理解者です。私達がどんなに心病んでいても、罪に打ちひしがれていても、今このままの状態で丸ごと受けとめて下さるのがイエス様です。十字架の痛みを持って、ご自身の肉体の死をもってまでも私達を罪の縄目から解き放って、赦しを与えて下さる方です。
・イエス様に赦された私達は教会に集い、共に讃美し祈り御言葉を聴きます。「イエス様のもとに共にいること」、それが礼拝です。お互いの存在を受け入れ合って、今一緒に「ここにいる」ことを喜び合うのです。そして、イエス・キリストの名によって祝福されます。互いの痛み・重荷を分ち合います。共に泣き共に喜びます。教会は誰もがイエス様によって招かれ、安心して「いる」ことができる場です。ここに「いる」その事が、神様に喜ばれています。私達はそんな、神様に対して何をもって応えればいいのでしょう?
・それは、悔い改めではないでしょうか?悔い改めて、もう一度イエス様の十字架を見上げ、神に立ち返ることではないでしょうか?一週間、自分がどんなに神以外のものに振り回され、神以外の何かに囚われて、思い煩い、神から離れてしまったか。その弱い惨めな私を神はどんなに我慢し忍耐しておられたか。そして、赦して下さった。助けて下さった。癒して下さった。救って下さった。神よ、そんなあなたに、もう一度立ち返りたいのです!どうかこの私のすべてをとらえてください!と、あふれる思いを心の底から告白し、悔い改めることです。悔い改めて神に立ち返り、悪霊から解放され、神の霊に聖霊に満たされるのです。本当の解放はここにあります。
・パウロ達はその後どうなったでしょう。大地震の後、牢の鎖から解放されたにもかかわらず、その場にとどまりました。そして看守に伝道し、自らの使命をただ続行しました。自分に足かせをはめ、鍵をかけたその人、看守に、福音を伝えた。看守はイエス様の福音にふれ、バプテスマを受けた。バプテスマを受けた看守は、悔い改めるとただちに、囚人の背中の傷を荒い、食事を用意する者に変えられた。私達もパウロ達のように、福音を携えて歩む群れです。礼拝が終わりコーヒーを飲んで玄関から出て行くその時に、たとえどのような困難な状況が待っていたとしても、「私は神に知られている」「神に理解されている」「神と共にいる(インマヌエル!)」そのことを確信し、感謝し喜び、その場所で礼拝する自由が与えられています。パウロ達のように、困難な時をも平安のうちに乗り越えることができるのです。そしてその場で福音を携えます。伝道します。主イエス・キリストの名による、本当の解放はココにあるのだ。この福音を、この教会から発信するものでありたい・・・そう願うのです。
(山本佐智子)

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