江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2006年4月2日説教(マルコ10:32-40、キリストの杯を飲む)

投稿日:2006年4月2日 更新日:

1.七つの「そして

・新しい年度を迎えました。今日から私たちの教会は2006年度の歩みを始めますが、最初に聞く言葉は「私の飲む杯を飲み、私の受けるバプテスマを受けなさい」というイエスの御言葉です。イエスはピリポ・カイザリアで弟子たちに言われました「私はこれからエルサレムに行く。そこで捕らえられ、殺されるだろう」。ペテロは抗議します「そんなことを言ってはいけません。メシアが殺されるはずがありません」。イエスは弟子たちを連れて高い山に登られ、神の言葉を再度聞かれました。御心はエルサレムに行けというものでした。神の御心を再確認されたイエスは、エルサレムに向かって歩き出されます。弟子たちもイエスの後に従います。私たちが今日読むマルコ10章がその箇所です。
・イエスはエルサレムで自分は殺されるだろうと感じておられます。しかし、それが神の御心であるならば、従おうと決意されています。ですから、イエスは「先頭に立って進んでいかれます」(マルコ10:32)。もうためらいはありません。弟子たちはそのイエスの気持ちを理解出来ません。そのため、イエスは改めてエルサレムで起こる出来事を弟子たちに予告されます「今、私たちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する」(マルコ10:33-34)。
・受難が六つの動詞で表現されています。「宣告する」「引き渡す」「侮辱する」「唾をかける」「鞭打つ」「殺す」。主語は神であり、人ではありません。神がイエスを十字架に引き渡されるのです。その六つの動詞が「そして=kai」という接続詞で結ばれています。原文に忠実に訳すと次のようになります「そしてイエスは死刑を宣告され、そして異邦人に引き渡され、そして侮辱され、そして唾をかけられ、そして鞭打たれ、そして殺される」。「そして」という言葉を通して、この出来事が必然であることが強調されています。最後の「そして」に続くものがイエスの復活です、「そして復活する」。「しかし復活する」ではなく、「そして復活する」です。聖書において、7は完全数です。六つの受難の後に七つ目の復活が来るとマルコは言っています。
・私たちの人生には「不幸がたたみかけるように襲って来る」ことがあります。「そして、そして、そして、・・・」、悪の力はとどまる事を知らないようです。病気になる、失業する、事業に失敗する、愛する者が死ぬ、家族や職場の人間関係が行き詰る、繰り返し苦難の出来事が襲います。聖書が語るのは、「その苦難は全て神から来る、神は苦難を通して、人を鍛錬される」と言うことです。ヘブル書は言います「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」(ヘブル12:5-6)。繰り返しの受難の出来事の後に、七つ目に「復活の喜び」が来ます。十字架なくして、復活なし。十字架が復活への道である事をマルコは、「そして」と言う言葉で表現します。

2.七つの「しかし」

・イエスの受難予告に弟子のヤコブとヨハネが反応します。弟子たちはヘルモン山上で栄光に輝くイエスを見ました。エルサレムに行けばイエスは王座につかれると弟子たちは期待しています。ヤコブとヨハネは、自分たちにも相応の地位が与えられることを願っています。「栄光をお受けになるとき、私どもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(10:37)。王の右に座る者は右大臣、左に座る者は左大臣、いずれも人としての最高位です。イエスは兄弟たちに対して言われます「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。この私が飲む杯を飲み、この私が受けるバプテスマを受けることができるか」。イエスの杯を飲む=侮辱され、唾をはきかけられ、鞭打たれることです。イエスのバプテスマを受ける=水の中に入って死ぬように十字架で殺されることです。「エルサレムで何が起こるのか知っているのか、神の子が栄光の座につくとは十字架で死ぬことなのだ、それがわかっているのか」とイエスは聞かれます。二人は「わかっています」と答えました。しかし、エルサレムで起きることを彼らは理解していません。その証拠にイエスが捕らえられた時、二人もまたイエスを捨てて逃げています。
・35‐40節の言葉は七つの「しかし=de」で結ばれています。煩雑を避けずに訳すると、次のようになります。「しかし、イエスは・・・聞かれた。しかし二人は言った・・・。しかしイエスは言われた・・・。しかし、彼らは・・・答えた。しかし、イエスは言われた」。受難の言葉は七つの「そして」で肯定され、ヤコブとヨハネの言葉は七つの「しかし」で否定されています。ヤコブとヨハネの願いと、イエスの御心が食い違っている事を、マルコはこの「しかし」で表現しています。弟子たちが願うのは自分たちの栄光であり、イエスが求められるのは神の栄光です。その違いが七つの「しかし」で分断されています。

3.従うとは仕えること

・今日、私たちは招詞として、マルコ10:42‐45を選びました。次のような言葉です。「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。『あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである』」。
・ヤコブとヨハネの抜け駆けに、他の弟子たちは腹を立てます。彼らもまたイエスの栄光の時に、良い地位につきたいから、ここまで従って来たのです。その弟子たちに言われた言葉が、今日の招詞です。「この世では、人の上に立って権力を振るうことが偉いことだと言われている。しかし、神の国では違う。そこでは仕える者こそ偉いのだ」。そしてイエスは言われます「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのだ」。イエスは王座につくためではなく、十字架にかかるために来られた、ですからイエスに従いたいのであれば、あなたも十字架を背負って従いなさいとここで言われています。
・私たちが求めるのは、価値ある人生、人にほめられ、うらやましがられる生活です。みんなが評価される事を求めています。会社でも、学校でも、また家庭でもそうです。私たちは、他者の評価の上に、自分の人生を築き上げています。しかし、そのような人生はすぐに崩れます。何故ならば、強い人も弱くなり、若い人も年老いて、役に立たなくなるからです。イエスは言われます「父は弱い人間、役に立たない人間にも、生きることを許しておられる。私たちもいつかは弱い人間、役に立たない人間になる。その私たちをも生かして下さる神の恵みを知った時、私たちの心からわきあがる思いは感謝だ。その感謝が人に仕える行為へと私たちを導くのだ」。
・仕える=ギリシャ語ディアコネオーのもともとの意味は「給仕する」ということです。給仕する人は、自分は食べることが出来ませんが、相手がおいしそうに食べるのを見て、満足します。それが仕える生活です。しかし、人間にはこのような生活は出来ません。先日、妻と結婚の意味について話をしている時に、彼女がこのように言いました「あなたは夜帰って来た時に、食事の用意が出来ており、お風呂も沸いていて、着替えも用意されている事を求める。もし、何かの事情で、それが出来ていないといやな顔をする。あなたが妻に求めているものは良い家政婦だ。でも、私は良い家政婦であることに満足できない」。
・この言葉を聞いて、私は考え込みました。私は妻に仕える事を求めていますが、自分は妻に仕えていません。何故だろう、私は牧師として教会に仕えることは出来ます。自分の利益よりも教会の利益を優先することが出来ます。神学校スタッフとして、神学校に仕えることは出来ます。それは職業だから出来るのではないか。見返りがそこに組み込まれているから、仕えることが出来るのではないか。見返りを求める弟子たちに七つの「否定=de」が言われ、見返りを求めないイエスに七つの「肯定=kai」が言われています。仕えることは、見返りを求めないことだと聖書は教えます。見返りを求めない愛、それは十字架にしかありません。ここにおいて、私たちは繰り返し、十字架を見上げるしかありません。イエスが私の為に死んで下さった、だから私も他者の為に死ぬのだ。それがクリスチャンの生き方だ。その事を思う時が受難節なのだと思います。

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