江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2006年3月26日説教(マルコ9:2-8、山に登る)

投稿日:2006年3月26日 更新日:

1.山上でのイエスの変貌

・私たちは今日、マルコ9章から御言葉をいただきます。この箇所はイエスの山上の変貌として有名な箇所ですが、現代の私たちには理解が難しい箇所でもあります。物語は、イエスと弟子たちが高い山に登られ、イエスが祈っておられる内に、その姿が光り輝き、預言者のエリヤとモーセが現れてイエスと語り、天からの声が聞こえたというものです。弟子たちは夢を見たのでしょうか。現実にこのような出来事があったのでしょうか。詳しく見てみましょう。
・ガリラヤで伝道しておられたイエスは「エルサレムに行け」との神の声を聞かれました。エルサレムはイエスの命を狙う祭司長や律法学者がいる所であり、そこに行けば殺されるかもしれないとイエスは感じておられました。イエスは気持ちの準備をされるために、ガリラヤを離れて、ピリポ・カイザリアに行かれます。その地で、イエスは弟子たちに、「あなた方は私を誰と言うか」と聞かれ、「あなたこそメシア、神のみ子です」という弟子たちの告白を聞かれました。その弟子たちに、イエスは「これから向かうエルサレムでは十字架が待っており、あなたたちもまた苦難に会うだろう、それでも従って来なさい」と言われました。弟子たちは動揺します。イエスがメシア=救い主であることを信じていましたが、その救い主が十字架で殺されるとは考えてもいなかったからです。
・6日の後、イエスは弟子たちを連れて、ヘルモン山に向かわれます。ピリピ・カイザリアから歩いて3日の所にあるシリア随一の高い山です。イエスはペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れて、ヘルモン山に登られました。イエス御自身、自分が神の子として世に遣わされたとの自覚を持っておられましたが、十字架で死ぬことが最善の道であるのか、心の内に一抹の不安は持っておられました。神の御心を改めて聞きたい、そういう思いでイエスは山に登られたと思われます。聖書では、山は神と出会うための場所、日常を離れて祈るための場所です。旧約の預言者たちも、苦難の時に山に登り、神の声を聞いています。
・イエスは山上で祈られました。そのイエスに、神はモーセとエリヤを遣わして下さったとマルコは記します。モーセとエリヤも、その存命中、山に登り、神の声を聞いています。モーセはエジプトで奴隷であった民を救い出して、約束の地に導きますが、その旅は苦難の連続でした。民は水がなくなると文句を言い、食べるものがなければつぶやき、エジプトに帰ろうと不満を言います。モーセは山に登って神に苦衷を訴え、励ましを受けて山を降りています。エリヤも同じ体験をしています。フェニキアの女王が偶像神をイスラエルに持ち込み、エリヤは戦いますが、命を狙われ、逃れてシナイ山に登り、そこで神と出会います。山上で神から言葉をいただき、力を与えられて、再び戦うために下山します。預言者たちは、神に出会うために山に登り、力をいただいて地上の現実に戻っています。今回、イエスのもとに二人が遣わされたのは、同じ苦難を経験した者として、イエスを励ますためであろうと思われます。ルカによれば、二人は「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」(9:31)とあります。最後と訳されている言葉の原語はエクソダス=出て行く、出発の意味です。一つは死ぬ=この世を出て行くという意味で小。同時に十字架死は終わりではなく、新しい出発の時であることを二人はイエスに話し、励ましたのでしょう。
・その時、イエスの姿が弟子たちの目の前で変わり、服は光のように白く輝いたとマルコは記しています。ペテロは感激して言いました「先生、私たちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう」。弟子たちは恍惚状態の中にありました。イエスが神の子である紛れもない証拠を示され、この状態がいつまでも続けば良いと願っています。しかし、ペテロの声をさえぎるように天から声が響きました「これは私の愛する子、これに聞け」(9:7)。「私は自分の意思を既にイエスに伝えている、イエスの言うことに従いなさい」との声です。気がついてみると、モーセとエリヤはいなくなり、イエスだけがおられました。イエスは弟子たちを連れて山を下りられます。神の御心を確認出来た以上、ここに留まる必要はないからです。「御心に従ってエルサレムに行こう、そこで十字架が待っていようが、逃げない。私が十字架で死ぬことを通して、父は御自分の栄光を現されようとしておられる。その御心がわかれば十分だ」とイエスは思われたのでしょう。

2.この出来事の意味するもの

・今日の招詞にマルコ8:34‐35を選びました。先週と同じ招詞ですが、改めて聞いてみたいと思います。次のような言葉です「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。『私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、私のため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである』」。
・ヘルモンの山上で何があったのかを私たちにはわかりません。これが実際にあった出来事なのか、聖書学者の意見は分かれています。ある人々は復活後のイエスの栄光を生前スに投影した教会の信仰告白であり、実際の出来事ではないと見ます。別の人々はペテロが目撃し、それを弟子のマルコに伝えた現実の出来事だと考えています。私たちは、これは本当に起きた出来事だと考える立場に立ちます。何故なら、ペテロ自身がこの出来事を証言しているからです。ペテロは教会への手紙の中で言います「私たちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、私たちは巧みな作り話を用いたわけではありません。私たちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、『これは私の愛する子。私の心に適う者』というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。私たちは、聖なる山にイエスといた時、天から響いてきたこの声を聞いたのです」(〓ペテロ1:16-18)。何らかの神秘体験、あるいは幻視体験を弟子たちがしたことは事実でしょう。しかし、今日の聖書個所で大事なことは、不思議な出来事があったということではなく、この出来事を通して、イエスが力をいただき、山を降りてエルサレムに向かう決心をされたことです。「御心であれば、理解できなくとも、従って行く。そうすれば道が開けてくる」という真理が明らかにされたことです。十字架の死=最期がエクソダス=出発と表現されていますように、十字架は終わりではなく、出発であるということです。
・その真理を知るためには、まず山に登らなければいけません。山に登って、神から言葉をいただくのです。私たちの場合は、礼拝に来て、御言葉をいただくことがそれになるでしょう。ただ、山に登った人は、そこに留まるのではなく、山を降りなければいけません。私たちが教会に来て、心が慰められた、清められたというだけでは、十分ではありません。その清められた思い、強められた力を現実の生活の場で生かしていく事が山を降りることです。それが自分の十字架を背負って行くということです。世間では十字架を背負うとは、病気や障害を背負って生きるという意味に使いますが、聖書の言うのはそういうことではありません。自分を捨てて=他者の為に苦難を負うという意味です。イエスも弟子たちもエルサレムに行く必要はないのです。怖いのであれば、逃げればよい、しかし御心であれば逃げない、それが十字架を負うということです。
・今日の礼拝で、ギデオン協会の方に証しをしていただきました。ギデオン教会は、学校や病院で聖書を配る活動をされています。配っても聖書を受取らない人もいるでしょうし、受取っても道端に捨てる人もいることでしょう。ギデオン協会の活動の大半は実を結びません。自分たちが献金して製作した聖書が捨てられていくのです。こんな無益な作業をして何になるのか、捨てられるために配っているのか、そういう疑いの中でギデオンの人々は活動します。しかし、彼らは活動をやめません。何故ならば、その捨てられた聖書を拾い、読んで、キリストに出会う人々がいるからです。いろいろな教会の証しを聞く時、いかに多くの人々がギデオンの聖書との出会いを契機に、教会に行くようになったかが証言されています。その喜びを知っていますので、無益とも思える仕事を続けていくことが出来るのです。
・十字架の死、何の意味があるか分からない、無益としか思えないキリストの死、その死から教会が生まれ、その教会は2000年後の今日も生きています。十字架の死から、命が生まれていったのです。死は決して最期ではなく、エクソダス=出発なのです。聖書においては死=最後は、エクソダスと言う言葉で表現されます。エクソダスは出発です。死が終わりではありませんから、この世のいかなる苦難も希望に変えられていきます。だから、私たちは、教会の屋根に十字架を立て、ここに希望がある事を表明するのです。

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