江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2006年7月16日説教(ガラテヤの信徒への手紙5:1−12、十字架の主にこそ)

投稿日:2006年7月16日 更新日:

1.福音から離れ始めたガラテヤ諸教会へ

・ペンテコステの日に、弟子たちは聖霊を受け、福音を語り始めました。「あなたたちが十字架につけたイエスを神はよみがえらせて下さった。この方こそ、救い主だった。あなたたちも悔い改めて、キリストにすがりなさい」。この日、3千人の人が悔い改めのバプテスマを受け、教会が生まれました。エルサレムに生まれた教会はユダヤ教徒からの迫害を受け、サマリヤやシリアに押し出され、そこにも教会が生まれていきました。異邦人教会です。異邦人教会はやがて、キプロスや小アジアへ宣教師を派遣し、ガラテヤ、エペソ、コロサイ等にも教会が生まれて来ました。福音がローマ世界に広がり始めたわけです。しかし、福音の広がりと同時に、いろいろの問題が生じてきました。ガラテヤ教会にも問題が起こりました。だから、パウロはガラテヤの諸教会に手紙を書きました。
・ガラテヤの諸教会はパウロの伝道によって設立されましたが、パウロが立ち去った後、エルサレムから派遣された教師たちが、パウロの教えた福音とは異なる福音を説いて、教会に混乱が生じていました。教師たちは「信じるだけでは人は救われない。救われたしるしとして割礼を受けなければいけない」として、人々に割礼を求め、人々もそれを受け入れようとしました。そのことを伝え聞いたパウロは、ガラテヤ諸教会にあてて手紙を書き、その中でこのように言います「もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます」(ガラテヤ2:21)。「キリストが十字架で死なれて私たちは救われた。もし、割礼なしには救われないなら、キリストは何のために死なれたのか」とパウロは迫ります。
・エルサレムの教師たちは、パウロは本当の使徒ではないと主張していました。「パウロの教えはエルサレム教会の教えとは異なる。エルサレム教会こそ、使徒の伝統を継ぐ正統教会だ」と主張したわけです。それに対してパウロは反論します「私は復活の主に出会い、直接召された。キリストは私たちの罪の赦しのために死んで下さった。そしてよみがえられた。福音とはキリストに示された十字架と復活以外にはない。」と。パウロは、かつては熱心な律法主義者であり、律法への熱心が律法を守らないキリストの教会への迫害へと彼を走らせました。しかし、復活のキリストに出会って全てが変えられ、律法によって人は救われないことを知りました。その後、パウロはアンティオキア教会に招かれ、そこをベースに宣教の働きを始めます。
・アンティオキア教会にはユダヤ人もギリシア人もいましたが、民族は違っても兄弟姉妹の交わりがなされ、信仰が民族を超えたものとなり、人々はクリスチャンと呼ばれ始めました。しかし、エルサレム教会の人々は依然としてユダヤ教の枠内にいて、「異邦人も割礼を受けて律法を守らなければいけない」と主張していました。パウロはエルサレムに行って、使徒たちと話し合いを行い、異邦人には割礼を強制しないことが決められましたが、ユダヤ人の律法に対する信仰は消えず、繰り返し立ち現れます。それがガラテヤ教会を混乱させ、ガラテヤ書が書かれました。その手紙の中核が今日読みますガラテヤ5章です。

2.再び奴隷に戻るな

・ガラテヤの人々は、割礼を受けなければ救われないとのエルサレム教会の教師の影響を受けて、割礼を受けようとしています。パウロは彼らに言います「割礼を受ければ、あなたはキリストと無縁の者になるのだ」。それがガラテヤ5:1-2のところです「この自由を得させるために、キリストは私たちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります」。律法による救いとは、律法を守って正しいとされることですが、そのようなことは人には出来ません。「この小さき者にしなかったのは、私にしなかったのだ」と言われて、誰が自分の無罪を主張できましょう。律法は行為だけでなく、為すべき事をしなかった不作為の罪をも問うのです。私たちは律法を守ることは出来ない、だからキリストが死んで下さった、その恵みにすがるしかないのだとパウロは言います。「割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います」(ガラテヤ5:3-5)。
・パウロは続けます「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」(ガラテヤ5:6)。ユダヤ主義キリスト者たちは信仰だけにすがることができませんでした。信仰は見えません。他方、律法は見えます。割礼を受ける、安息日を守る、食べていけないと言われたものは食べない、見えるものを守ることで救いの確信を得たいと思うのが律法主義です。しかし、この律法主義は教会を壊す悪を秘めています。パウロは言います「彼らが教会を腐敗させるパン種であることがわからないのですか」と。パンはパン種=酵母を入れて焼くと、ふっくらとした、やわらかいパンになります。私たちは酵母の働きが人間に役に立つ時、それを発酵と言います。発酵の別な言い方は腐敗です。人間にとって役に立たないとき、腐敗と言うわけです。腐敗も発酵も同じ菌の働きです。ガラテヤの人々は割礼を受け、律法を守ることを、パンをおいしくする信仰的な行為として受け入れようとしているが、それはパンをおいしくするのではなく、パンを腐らせる行為なのだ、律法主義を受け入れたとき、教会はキリストの体ではなくなるのだとパウロは強調します。

3.キリスト者の自由

・律法主義を受け入れた時、教会はキリストの体ではなくなる、では律法は悪なのでしょうか。パウロはそうは言いません。最初に律法が与えられたのはモーセの時代でした。そのころ、イスラエルの民はエジプトで奴隷として苦しんでいました。彼らの助けを求める声を聞かれて、神はモーセを派遣され、エジプトから助け出されました。そのとき、与えられたのが律法、特に安息日の規定でした。民はエジプトでは休むことが出来なかった、土曜日も日曜日も奴隷として酷使された、その彼らに「週一日は体を休めるために、休みなさい」として与えられたのが安息日です。しかし、時代が経つに従い、安息日の意味が変わってきます。「安息日には仕事をしてはいけない」、「安息日に仕事をする者は罰する」、やがては「安息日を守らない者は死刑にする」とまで規定が強化されます。祝福を呪いに変える、そこに人間の罪、律法主義の問題が生じるのです。
・これは旧約の時代だけの話ではありません。日本のキリスト教はアメリカのピューリタン主義の影響を強く受けていますので、禁酒・禁煙の伝統があります。酒やタバコはある場合には害をもたらします。ある人がバプテスマを受けたのを契機にお酒をやめました。彼は祈りました「自分の体は神の霊が宿る聖なる宮とされた。この宮をアルコールで汚すことはやめよう」。信仰からくる美しい決断です。しかし、自分がお酒を止めた人は、他の人がお酒を飲むことを赦せなくなります。そして言い始めます「あなたはクリスチャンの癖にお酒を飲むのですか」、やがて発言がエスカレートし「あなたがクリスチャンであればお酒をやめなければいけない」。この時、この人の信仰は律法主義に、人を呪うものに変わっていきます。
・割礼もそうです。割礼は男性の性器の包皮を切り取る行為ですが、元来は砂漠の不衛生の中で、体を清潔に保つために、与えられた行為です。今日でも砂漠地帯のアフリカや中東では割礼の習慣は残っています。その割礼がやがては神の民のしるしとなり、「割礼を受けなければ神の民ではない」、「割礼を受けなければ救われない」とまでされていきます。この割礼という言葉は、今日的に言い直せばバプテスマです。私たちはキリストと出会うことが出来た、その感謝としてバプテスマを受けます。「バプテスマを受ければ救われる」、「バプテスマを受けなければ地獄に行く」、そのように考え始めたら、私たちもガラテヤの偽教師と同じになってしまうことを知らなければいけません。救いはキリストと出会うことにあるのであって、バプテスマにあるのではないのです。
・今日の招詞にガラテヤ5:13−14を選びました。読んできました聖書箇所に続く言葉です「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」。
・パウロは律法とは「隣人を自分のように愛すことだ」と言います。人はキリストに出会い、自由にさせられることを通して、自分の中にある肉の欲が、霊の愛に変えられていきます。肉の欲とは相手を自分に仕えさせようとする欲です。飲酒の例で言えば、自分も飲まないのだからあなたも飲むなと強制する行為です。他方、愛は自分が相手に仕えていく行為です。私はオーストラリアに駐在している時、日本人教会のお世話をされていたD.ヘイマン宣教師に出会いました。彼はお酒を飲みませんでしたが、私たちには次のように言っていました「私はワインが大好きです。オーストラリアのワインはおいしい。しかし、私がお酒を飲むことに躓く人もいるかもしれませんので、私はお酒をやめました。しかし、あなた方はどうぞおいしいワインを楽しんで下さい」。「全ては許されている、しかしすべてのことが益になるわけではない」(1コリント10:23)。「躓く人がいるかもしれないので、私は飲まない、しかしあなたは飲んで楽しみなさい」。これが律法から解放されたキリスト者の自由です。
・福音もすぐに律法化します。それを避けるためには、隣人のために祈ることが必要です。隣人のために祈り始めた時、その隣人を呪うような行為はできません。隣人の欠点を数えなくなります。私たちが隣人の欠点を数えなくなれば、心に引け目を持っている人も教会にくることが出来るようになり、教会が神の国になって行きます。逆に、「バプテスマを受けないと地獄に行く」とか、「礼拝に出ない人は救われない」とか言い始めた時には、教会がサタンの巣窟になりかねません。パウロは言います「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世は私に対し、私は世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」(ガラテヤ6:14-15)。

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