江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2020年9月20日説教(出エジプト記20:1-17、祝福としての十戒)

投稿日:2020年9月19日 更新日:

1.十戒の付与

 

・エジプトを出たモーセと民は、3カ月の荒野の旅の末に、主の山シナイにたどり着きました(19:1-2)。シナイはモーセが最初に神と出会った場所であり(3:1)、エジプトを出た民はここに1年間滞在し、主の民としての訓練を受けます。このシナイで主は民と契約を結び(シナイ契約)、その条文が「十戒」です。主は「あなた方をエジプトから救済した」のは、「あなた方を聖なる民とし、あなた方を通して救いを諸民族に伝える」ためだと語られます(19:5)。モーセが主の言葉を伝えると、民は主の申し出に応じて契約を結ぶことを誓います「私たちは主が語られたことをすべて行います」(19:8)。

・そしてモーセは主から戒めを受けるために、主の山に一人で登っていき、十戒を記した石の板を受け取ります。それが24章にあります「モーセが山に登って行くと、雲は山を覆った。主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日の間、山を覆っていた。七日目に、主は雲の中からモーセに呼びかけられた。主の栄光はイスラエルの人々の目には、山の頂で燃える火のように見えた。モーセは雲の中に入って行き、山に登った。モーセは四十日四十夜、山にいた」(24:15-18)。

・十戒はイスラエルに対する神の直接的な呼びかけです。内容的には、初めの4つは神に対する戒めであり、後の6つは人間関係に関する戒めです。序文は語ります「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(20:2)。そこにありますのは、神である「私」が、人である「あなたと出会い、あなたを奴隷の家から導き出した」という宣言です。この十戒は「十の言葉で表された契約であり、それは出エジプト記の頂点であり、旧約聖書の心臓部である」と言われます。今日はこの十戒が私たちにとってどのような意味を持つのか、ご一緒に読んでいきます。

 

2.神への戒め(第一戒~第四戒)

 

・十戒の最初の戒めは、「あなたには、私をおいてほかに神があってはならない」というものです。原文では「あなたは私の前に他の神々があってはならない」です。「私があなたを奴隷の家から解放した。神々と称せられるものは多くあるだろうが、あなたにとっては私以外の神はいない。あなたが私以外の神と関係を持つことはありえない」という神の呼びかけの言葉を聞くのです。エジプトから救い出して下さった神に対する感謝が、「私は他の神を崇めることはしません」という誓約に導くのです。

・第二の戒めは「あなたはいかなる像も造ってはならない」という偶像礼拝の禁止です。イスラエルは神の像を持ちません。聖書は人間が造る神殿や神像において、神に出会う信仰を否定します。異教の神は人間の造った像に宿り、人間の構築した神殿や聖所に現れる神です。それは人間あっての神、人間に依存しないと自己を啓示できない神です。しかし、聖書の神は人格において、人間と出会われる方です。「世は被造物をかたどった像を造り、それを神として拝むが、それは神などではありえない」のです。

・第三戒は「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」です。神は天地を造り、イスラエルを選び、受け入れら自らの名を、「あってあるもの」と啓示されました(3:14-15)。古代においては「名を知るものは、その力をつかむ、神の名を知るならば神を動かし得る」と考えられていました。そこから、神名を唱えて人間を支配しようとする呪術が生まれます。神の名において誓うことが禁止させられます。人間の名を呼ぶ神への服従と信頼がこの戒めの精神です。

・第四戒は「安息日を心に留め、これを聖別せよ」です。直訳すると「聖別するために覚えよ」です。安息日はあくまでも他の日から区別する日(安息日=ヘブル語シャーバット、シャバース=中止する、区別する)であり、日常労働からの休息と解放の日です。休み=レクレーションは、レ=再び、クリエーション=創造する、再創造の時なのです。そして安息日は隣人をも解放する日となります「あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も休め」(20:10)と命じられています。しかし後の人びとは、この祝福(休むことが許される)を戒律として、「休まなければならない日」にしてしまいました。ですから、イエスはこれを批判し、「安息日は人のために定められた」と語られ、安息日の解放を宣言されました(マルコ2:27)。キリスト教会は安息日を主の日として祝います。カール・バルトは語ります「日曜日は礼拝に行かなければいけない日ではなく、自由な日として過ごすべきではないか。かくて、我々はこの日に教会に行くのではないか」。

 

3.人間への戒め(第五戒~第十戒)

 

・第五戒~第十戒の戒めは、人間に対する戒めです。「両親を敬え。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。隣人に関して偽証してはならない。隣人の家を欲してはならない」(20:13-17)。「両親を敬え」、原語では「重んじなさい」です。自分を生み、育ててくれた父母を重んじることは人間として当然の感情ですが、いつの間にかそれが重荷になってくる。しかし「あなたは神の代理人としての父母を重んじなければならない」と命じられています。「殺すな」とありますがこれは誤訳であり、原文では「あなたが殺すはずがない」となっています。何故ならば「人は神にかたどって造られたから」(創世記9:6)ゆえに、相手を殺すことは創造の神への反逆になります。「奴隷状態から解放され、救済にあずかって、今生かされているあなたが、人を殺すことなどあり得ない」との意味です。イエスはこの第六戒「殺すな」を、「怒るな、和解せよ」と根本にまで遡って解釈され、言われました「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、私は言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」(マタイ5:21-22)。禁止の戒めが、愛の戒めに変えられています。

・第七戒は「姦淫してはならない」です。ここでも禁止命令ではなく、「あなたが姦淫するはずがないではないか」と語られています。神は人を男と女に創造され、男女の交わりは結婚という形で積極的に肯定されます。その神の命じた結婚の秩序を乱すものとして、姦淫が戒められています。イエスは言われました「情欲を持って女を見る者は、既に心の中で姦淫を犯したのである」(マタイ5: 28)。厳しい戒めであり、誰も守ることが出来ません。新共同訳はそれを緩和するために「みだらな思いで他人の妻を見る者は」としていますが、明らかな誤訳です。ここでは女性を人格ではなく、性的欲望の対象とすることが戒められています。同時にイエスは姦淫を犯した女性を赦されていることに留意すべきです。「あなたたちの中で罪を起こしたことのないものがこの女に石を投げなさい」(ヨハネ8:10)とイエスは言われ、誰も投げることが出来ませんでした。十戒は私たちに「あなたはどうなのか」を迫る教えです。

・第八戒は「盗んではならない」です。神は人間が働くことを通して必要な糧を得るように定められました。盗みは労働の大切さを無視し、神が与えたものをないがしろにする行為です。王制以降、強者と弱者、富者と貧者の格差、対立の中で、盗み・貪りが社会的問題になってきました。アモスやエレミアは貧しい人々に分かち与えようとしない金持ちたちを糾弾しています。「全ては神から与えられたもの」ということを認識する時、貧富の格差の放置は、「盗むな」という戒めの違反になります。第九戒は「隣人に関して偽証してはならない」です。法廷においての真実証明は二人以上の証人を必要としました。公の場において隣人としての義務と責任を果たせと命じられています。第十戒は「隣人の家を欲してはならない」です。具体的には「隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを欲してはならない」と言われています。貪りとはみだりに欲しがること、それは生きるのに必要なものを与えて下さる神への感謝を忘れた罪です。この「貪るな」という禁止命令が、「愛せよ」に能動命令に変わる時、隣人との関係が変化して行きます。

 

4.本当の戒めとは何か

 

・この十戒が時代を経るに従い、神から与えられた戒め、律法として体系化されて行きます。出エジプト記20:22以下にその細目が展開されます。後代になると、律法とは安息日を守るとか、割礼を受けるとかの聖書に書かれた戒めはもちろん、ラビたちの解釈した戒めも加えられ、イエスの時代には614もの戒めがあり、どれを最も大事なものとして守ればよいのかが、ユダヤ人にさえ解らなくなっていました。それに対してイエスはただ二つのことを言われます。今日の招詞としてマルコ12:29-31を選びました。次のような言葉です「イスラエルよ、聞け、私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。第二の掟は、これである『隣人を自分のように愛しなさい』。この二つにまさる掟はほかにない」。イエスは「神を愛し、人を愛せ、それが律法の根本だ」と言われました。神を愛せという最初の戒めはユダヤ人には納得できるものでした。十戒の第一戒がそうです。しかし「人を愛せ」というイエスの言葉は、ユダヤ人には驚くべき内容を持っていました。隣人を愛することは大事なこととして教えられましたが、それが神を愛することと同じくらいに大事な戒めとは考えてもいなかったのです。

・ユダヤ人は「神を愛する」とは、神のために犠牲の動物を捧げ、礼拝を守ることだと考え、まさか「人を愛することだ」とは思いもしませんでした。ここで律法とは何かを改めて考えて見ましょう。十戒の第一戒は「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、私をおいてほかに神があってはならない」(20:2-3)となっています。原文のヘブル語は禁止命令ではなく、直接法の否定形で書かれています。「してはならない」ではなく、「するはずがない」と書かれているのです。「私はあなたを愛してエジプトから救い出した。だからあなたが私以外の者を救い主として拝むはずがない」。「私の愛したあなたが隣人を殺すことなどあり得ないし、姦淫を侵すことによって妻を悲しませることをするはずはない」と語られています。律法とは「神からの祝福に対する人の側からの応答」なのです。その祝福の応答を人々は、「しなさい」、「してはいけない」と言う命令に変えてしまった、そこに問題があるとイエスは言われます。律法は神の愛に対する応答、福音であることを覚えたいと思います。

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