江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2014年5月18日説教(ローマ4:13-25、不可能を可能にする神の力)

投稿日:2014年5月18日 更新日:

1.アブラハムの信仰

・ローマ書を読み続けています。ローマ書はローマ教会に対する手紙です。手紙にしてはかなり長く、また内容も神学論議が多く、手紙としては異例の形です。パウロは何故このような長い手紙を書いたのか、それはローマ教会内のユダヤ人信徒と異邦人信徒の間に争いがあったからです。教会の中にはユダヤ人も異邦人もいました。教会で読んでいる聖書は旧約聖書であり、それはユダヤ人の救いについて書かれています。それ故にユダヤ人信徒たちは聖書に記されているように、「割礼を受け、律法を守らなければ救いはない」と主張していました。他方、その聖書はヘブライ語ではなく、ギリシア語に翻訳された聖書でした(70人訳ギリシア語聖書、当時はユダヤ人もヘブライ語が読めなかった)。それゆえ異邦人信徒はギリシアの文化伝統に従って聖書を読み、宣教されたイエスの言葉を聞きます。異邦人信徒は「キリストは私たちに割礼を受け、律法を守らなければ救われない」とは言われなかったと反発しました。そのためにパウロはユダヤ人信徒も異邦人信徒も納得する形で、福音を説き直す必要を感じました。そのためにユダヤ人の父であり、異邦人にとっても尊敬すべきアブラハムの信仰について解き明かしていきます。それが今日読みますローマ4章です。
・パウロは語ります「肉による私たちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。聖書には何と書いてありますか『アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた』とあります」(4:1-3)。「義とする」とは罪が赦される、救われるという意味です。アブラハムは「故郷を捨て私に示す地に行け」という神の命に従い、約束の地を目指して旅立ちました(創世記12:4)。アブラハムは「約束の子イサクを私への犠牲として捧げよ」という理不尽な命にも従いました(同22:10)。神はそのアブラハムの「服従の行為」を義とされたとユダヤ教は理解します。そのためユダヤ人信徒は、救いは「神に従う」という行為によってなされる、律法を守ることが救いへの道なのだと主張していました。しかしパウロは、「それは違う。聖書はそうは言っていない」と言います。そしてパウロはアブラハムが義とされた経緯を、聖書を通して見ていこうではないかと提案します。
・アブラハム物語は創世記12章から始まります。彼はメソポタミアに住んでいましたが、75歳の時に召され、故郷を捨てて旅立ち、約束の地カナンに導かれました。神はアブラハムに約束されます「あなたの子孫を大地の砂のようにする」(同13:16)。その時、アブラハムには約束を継承すべき子がいませんでしたが、この約束を信じます。しかし、子はなかなか与えられず、アブラハムと妻サラは次第に年を取っていきます。次に現れた神は、アブラハムにあなたの子孫を星の数のように増やすと約束されます「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい・・・あなたの子孫はこのようになる」(同15:5)。その時、「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(同15: 6)と創世記は記します。パウロは述べます「この幸い(救い)は、割礼を受けた者だけに与えられるのですか。それとも、割礼のない者にも及びますか。私たちは言います『アブラハムの信仰が義と認められた』のです。どのようにしてそう認められたのでしょうか・・・割礼を受けてからではなく、割礼を受ける前のことです」(4:9-10)。割礼を受ける前にアブラハムが義とされたのであれば、「割礼の有無は救いとは無関係ではないか」とパウロはここで語ります。前にも述べましたように、この割礼を洗礼と読み替えれば、「洗礼の有無は救いとは無関係である」となります。洗礼はあくまでも救われた感謝(4:11「義とされた証し」)として受けるのです。
・アブラハムが割礼を受けたのは100歳になった時でした。神がアブラハムにみたび現れ、「あなたに子を与える」と約束されます。「私はあなたの妻サラを祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る」(創世記17:15-16)。アブラハムは半信半疑でした。彼はつぶやきます「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか」(同17:17)。しかし神はそのアブラハムに「約束の印」として割礼を受けよと命じられ、アブラハムは命令に従って割礼を受けます(同17:24)。この出来事を受けてパウロはローマ教会の人々に語ります「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前で私たちの父となった」(4:17)。

2.私たちの信じる神はアブラハムの神であり、キリストの神である

・パウロは続けます「アブラハムは希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じた」(4:18)。これは直訳すると「望みのない所に、なおも望みを持って信じる」となります。その時、アブラハムは既に100歳、妻のサラは90歳でした。人間的に見れば、アブラハムの肉体は既に死んでいました。子供を持てる年齢はとうに過ぎていました。同じようにサラの肉体も死んでいました(「サラの月経は閉じていた」創世記18:11)。パウロは書きます「そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした」(4:19)。創世記のアブラハムは現実にはその信仰は弱まっています。彼は半信半疑なのです。しかし、アブラハムは疑いながらも、「死者に命を与える神=肉体的に死んでいるはずの老夫婦から新しい命を生み出す方」を求めました。それは「存在していないものを呼び出して存在させる神」を求めることでもあります(4:17)。「存在していない=現在はいない相続人」を、「呼び出して存在させる=いるようにしてくださる」、不可能を可能にする神です。
・それは「死者に命を与える神」、「十字架で死んだイエスをよみがえらせる神」と同じ神であり、「アブラハムの信仰は私たちと同じ信仰なのだ」とパウロは言います。イエスが十字架上で「わが神、わが神、何故」と叫んで死んでいかれたのも、絶望の中での神への希望の表明です。その絶望の中から神はイエスを起された。パウロは最後に語ります「それが(アブラハムが信じたことが)彼の義と認められたという言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、私たちのためにも記されているのです」(4:23)。つまり、「私たちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、私たちも義と認められます。イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義とされるために復活させられたのです」(4:24-25)。パウロはイエス・キリストの十字架と復活という出来事を通して、アブラハムの信仰の出来事を見ています。だからアブラハムの救いは、私たちの救いでもあると彼は断言できるのです。
・パウロは4章の言葉を語りながら、言外にローマの信徒を批判しています「アブラハムが恵みによって救われたとすれば、アブラハムには何の誇りもなく、その子孫であるあなたがたも誇るものは何もないはずではないか」。それなのにあなたがたは教会の中でいがみ合っている。自分はユダヤ人だ、異邦人だと誇り合っている。「それは何だ」とパウロは問いかけています。「義とされるというのは罪あるままに神に赦していただくことだ。神に赦された人は他の人も赦す」。「もしあなたがたが互いに和解できないとしたら、赦し合えないとしたら、あなたがたは、イエスが私たちの罪のために死に渡され、私たちが義とされるために復活させられたことを、本当には信じていないからではないか」とパウロは迫ります。「もしそうであれば、自分の無信仰を認め、自分がまだ罪の縄目の中にあることを告白し、神に赦しを求めよ。そうすれば神は赦して下さるであろう」と。

3.死者に命を与える神を信じる

・今日の招詞のローマ8:24-25を選びました。次のような言葉です「私たちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。私たちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」。パウロは「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前で私たちの父となった」(4:17)と語ります。「存在していないものを呼び出して存在させる神」、「無から有を呼び出される神」(口語訳)。不可能を可能にされる神を、アブラハムは信じ、パウロは信じ、そして私たちも信じています。
・それは目に見える現実の中に何の可能性もない時に、なお信じる信仰です。「アブラハムは希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、多くの民の父となった」(4:18)ではないか。イエスも何の光も見えない中で神に希望を委ねて死んでいかれたからこそ、神はイエスを起されたのではないか。「信仰は常に自然的諸可能性の墓場を乗り越えて成長する」(E.ケーゼマン)。人間の力が絶えた所から神の力が働くのです。
・パウロはその信仰を招詞の言葉の中で繰り返します「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。私たちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」。パウロは私たちに問いかけます「もしあなたに信仰があるならば、恐れずに現実を見つめ、そこが闇であることを受け入れ、その闇の中で“光あれ”と言われると、“光が生じた”創造の出来事を思い起こせ。100歳のアブラハムと90歳のサラに子を与えた神の力を信ぜよ。十字架で死んだイエスを起こした神の力を見よ」と。信仰は力です。その力は私たちの生活の現実の中で実際に働く力です。「復活の主を信じる」とは、「無から有を呼び出される神」を信じることです。そして信じた者には「生きる勇気」が与えられます。これが私たちに恵みとして与えられた信仰なのです。

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