1.二人の福音記者の記述の違い
・今日はルカ6章から「平野の説教」といわれるイエスの言葉を学んでいきます。この平野の説教は、マタイ福音書にあります「山上の説教」のルカ版で、一般的にはマタイの「山上の説教」の方が有名です。しかし、ルカを通して見えてくる真理があります。今日は、このルカの記述をマタイの記述と対比しながら、イエスの言葉の意味を学んでいきたいと思います。
・さて、同じイエスの説教を基本にしても、ルカとマタイではその内容が微妙に異なります。ルカ6:20においては「貧しい人々は、幸いである」と言われていますが、並行のマタイ5:3においては「心の貧しい人々は、幸いである」として、心が付加されています。同じ様にルカ6:21「飢えている人々」がマタイにおいては「義に飢え渇く人々」とされ、ルカ「泣いている人々」がマタイでは「悲しむ人々」となっています。「貧しい人々」と「心の貧しい人々」では意味が異なってきます。「飢えている人々」と「義に飢え渇く人々」もその意味するところは違います。「泣く」ことと「悲しむ」ことも微妙にニュアンスが異なります。またルカでは四つの祝福の後に四つの災いが挙げられていますが、マタイでは災いの言葉はなく、八つの祝福の言葉が並びます。両者を比較して読むとその違いが際立ち、イエスは、本当は何を言われたのだろうかとの疑問がわいてきます。
・聖書学者の研究では、マタイもルカも同じイエスの語録資料(資料を意味するドイツ語“Quelle”の頭文字をとってQ資料と呼ばれます)をテキストにしているとのことです。そしてその原型は次のような伝承だったと想像されています「何と幸運な者だ、貧しい者は。彼らには神の王国がある。何と幸運な者だ、飢えている者は。彼らは腹いっぱいに満たされるだろう。何と幸運な者だ、泣いている者は。彼らは笑うだろう」。その伝承を見ますと、ルカ福音書の方がオリジナルに近いと思われますが、しかしルカの言う「災いの言葉」はありません。またマタイの付加する「心の貧しいもの」、「悲しむもの」「義に飢え渇くもの」という言葉もありません。聖書学の研究が示すものは、ルカはイエスの言葉伝承に「災いの言葉」を付加して、イエスの言葉を強調し、マタイは「心の」、「義に」等の言葉を加えて、イエスの教えを内面化したと思われます。でも何故、そのような作業が行われたのでしょうか。
・貧しい者=ギリシャ語:プトーコスは、ヘブル語=アーニー(物乞い)、ダル(やせこけた、みすぼらしい)の訳で極貧者を意味しています。イエスは物乞いを必要とするような貧しい者を祝福されたのです。そしてイエスは「泣く者」を祝福され(6:21)、「飢えている人たち」を祝福されました。何故、「貧しいもの」「泣いているもの」、「飢えているもの」、この世的に見れば災いとなる事柄を「幸い」とイエスは言われたのでしょうか。ここでは、貧しい者が富むようになるから幸いだとは言われていないことに留意すべきです。貧しいものには「神の国が与えられる」から幸いだといわれています。貧しい人々は神の助けなしには生きていけないから神に助けを求め、求める者は神に出会います。泣いている人々は自分の不幸を見つめ、「何故このような不幸をお与えになるのですか」と神に問いかけざるを得ませんで、神との交わりがそこに生まれます。だから幸いなのだとイエスは言われています。
・ルカがそのイエスの言葉を強調するために災いを付加したのは明らかです。「富んでいるあなた方は不幸である」、「満腹しているあなた方は不幸である」、「笑っている人々は不幸である」、この世では幸福と定義付けられるべき富や豊富な食物や笑いが災いの対象とされています。ルカは言います「あなた方はもう慰めを受けている」(6:24)からだと。富んでいる者、満たされている者は、財産やその他のものを多く持つ故に、神を必要としません。彼は既に慰め=拠り頼むものを持っている故に、神に叫ばず、その結果神に出会うことはない。だから不幸なのだと言われています。イエスは別のところで次のように言われています「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」。
・最後の迫害に関する記述「すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである」(6:26)は、明らかにイエスの言葉ではなく、ルカの付加でしょう。シュトロフという聖書学者は言います「祝福の言葉はもともと一段古い段階のイエスへの信従の脈絡に属するものであったが、それを語録資料が自分のものにし、迫害されている弟子たちへの祝福を付け加えることによって、自分たちの現状に関わらしめた。弟子たちこそが、今や、イエスによって幸いとされた貧しい者たちである」と。
2.マタイとルカの編集の目的
・イエスは文字通り、「貧しい者、飢えている者は幸いである」と祝福されました。それをマタイは自己の神学的理解から内面化し、ルカは貧困の事実を強調しました。これをマタイのように緩和せずに、またルカのように強調せずに聞いた時、何が求められているのでしょうか。福音書によれば、イエスの宣教に積極的に応答したのは、取税人や遊女、異邦人等の社会的に疎外されていた人々であり、反発したのはパリサイ人やサドカイ人等の支配階級でした(マタイ21:31)。まさに「貧しい者」、「泣いている者」、「飢えている者」がイエスを受け入れ、「富んでいる者」、「満腹している者」、「笑っている者」はイエスを拒否しました。今、満足している者は神を求めず、満たされていない者は求めます。そして求める者には命が与えられ、求めない者には与えられないとしたら、今、満たされていない者が祝福されるのは当然ではないかとイエスは言われたのです。
・そのイエスの言葉をそれから50年後にルカとマタイが聞いています。イエスの時代とは環境が変わりました。イスラエルはローマに滅ぼされ、エルサレム神殿は破壊され、祭司たちはいなくなりました。ユダヤ教はパリサイ派を中心とする律法宗教になっています。教会の人々も、第一世代の弟子たちのように、全てを捨ててイエスに従うのではなく、定住して生活しています。経済的にも安定し、明日のパンがない状況ではなく、逆に安定と富が彼らの信仰を揺るがし始めています。このような中で、ルカは貧しさを強調するために四つの祝福に四つの災いを付加し、マタイは時代の変化に応じた修正をしたのでしょう。福音書は単なるイエスの伝記ではなく、その時代の人々がイエスの言葉をどのように聞いていったかの記録なのです。
・では私たちは、イエスの言葉をどのように聞くのでしょうか。私たちは相応に恵まれた生活を送っています。豊かと言って良いかもしれません。経済的にも安定し、明日のパンがない状況ではなく、逆に安定と富が私たちの信仰を揺るがし始めているのではないでしょうか。もしかしたら、ルカが言うように、私たちは「富んでおり、満腹しており、笑っている」存在なのではないでしょうか。しかし、私たちの豊かさは、非常に不安定なバランスの上に成り立っています。今、勤めている会社が倒産すれば、あるいは「あなたはいらない」としてリストラされたら、私たちの経済生活は崩れます。今、笑っていても、重い病気になったり、離婚したりすれば、とたんに笑い顔は凍りついてしまいます。今の豊かさ、今の幸せは神の摂理=護りにより、維持されているのです。そのことを知った時、神の保護を離れた人々、貧しい人、飢えた人、泣いている人を見つめ、そのために何かをすることが求められています。それが次に考えます「神の前の豊かさ」です。
3.神の前に豊かになる
・今日の招詞として、ルカ12:20−21を選びました。次のような言葉です「しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」
・「愚かな金持ちの例え」と呼ばれている、イエスの例え話の一部です。物語は次のように展開します「ある人の畑が豊作で、有り余るほどの穀物が収穫され、それを倉にしまい込みます。そして金持ちは自分に言い聞かせます『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と。すると神は言われました『愚か者よ、今夜、お前の命は取り上げられる』」。話は12:15から始まりますが、原文のギリシャ語では短い話の中に、私(ムー)と言う言葉4回も出てきます。私の作物、私の倉、私の財産、私の魂、彼の関心は私だけです。しかし、命が終る時、私の倉も、私の穀物も、私の財産も、私の魂も終ります。故にイエスは言われます「愚かな金持ちよ、何が一番大切なものか、知らなかったのか」。
・この例えの意味するものは明らかです。一つは、金持ちは自分の命が自分の支配下にあると思っていることです。私たちも老後や不時の災害に備えて貯金すれば安心だと思っていますが、その前に死んでしまうかもしれない。命は私たちのものではありません。二つめは努力して蓄えても、死んでしまえばその財産は他人のものになるということです。財産を残すことによって相続人の間に争いが起こり、かえって不幸を招くこともあります。三つめは、地上の財産は私たちが神の国に入るためには何の役にも立たないことです。だから、「この金持ちは愚かではないか、本当に必要なものを持ってなかったのではないか」とイエスは私たちに問い掛けておられます。だからルカはイエスの言葉を延長していいます「富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている」と。
・命への道が「獲得し、蓄え、所有し、守る」ことでないとすれば、それは「感謝していただき、与え、仕える」道です。ルカでは「日々、自分の十字架を背負い」とあります。毎日の生活の中で従うということです。具体的には、自分の大事なもの、時間とお金を捧げていく生き方です。私たちは何故主日の礼拝に集うのか。せっかくの休日に、行楽地にも行かず、家族との団欒も捨てて、教会に集まる。それは一週間が守られたことを感謝し、最後の一日を主に捧げるためです。聖書では、収入の十分の一を捧げよと言います。収入は神が与えて下さったのだから、その一部を神に返すのです。皆さんが教会に捧げる月約献金は牧師の給与になり、教会の水道光熱費等になります。それにどのような意味があるのか、十分の一献金は痛みを伴うお金なのにと私たちは思います。痛みを伴うからこそ価値があります。この痛みを通して、私たちは「獲得し、蓄え、所有し、守る」ことから解放されていくのです。牧師の給与を皆さんが支えることを通して、牧師は聖書を学び、祈り、御言葉を語ることが出来ます。そのことを通して、地域の人々に救いの言葉が語られていきます。
・「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」。これを私たちの現実の中で読みかえれば、「豊かであったのに主のために貧しくされた人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである」と言えます。「今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる」という言葉は次のように読み替えたいと思います「今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは私の弟子たちの奉仕により満たされる」。最後の「今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる」は、「今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは私の弟子たちの奉仕により、笑うようになる」。イエスが私の弟子たちと呼ばれるのは、今日この会堂に集まっておられる方々です。私たちは「神の前に豊かになる」ために、ここに集められているのです。