江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2010年2月7日説教(ルカ5:1−11、お言葉ですから従います)

投稿日:2010年2月7日 更新日:

1.ペテロの召命

・2月に入りました。今日与えられました聖書日課はルカ5章、イエスが弟子たちを招く記事です。弟子たちの召命ではマルコの記事が有名です。マルコは記します「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、『私について来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った」(マルコ1:16-18)。「二人はすぐに網を捨てて従った」、マルコの記事では、初対面のペテロとアンデレがイエスの招きに答えて、すぐに網を捨てて従ったとありますが、人は通常、初対面の人に誘われてすぐに従うことはしません。ルカはこの記述を見て、修正する必要を感じたのでしょう。そのため、ペテロたちがどのようにしてイエスの招きに応えていったのかを、別の資料に基づいて書きました。それがルカ5章の記事です。
・本文を読んでいきましょう。ルカは記します「イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた」(5:1-3)。ペテロと仲間たちは夜を徹して漁をしましたが、何も取れず、気落ちして網を洗っていたところでした(5:5)。そこにイエスが来られて、舟に乗せてほしいと頼まれましたので、舟を漕ぎ出します。ルカによれば、ペテロとイエスは初対面ではありません。イエスが前にペテロの姑の熱病を癒したことがありました(4:38-39)。顔見知りですからイエスはペテロに船に乗せてほしいと頼み、ペテロも引き受けたのでしょう。
・ペテロは舟上で語られるイエスの言葉を共に聞きましたが、おそらく特段の印象は受けなかったのではないかと思われます。何故なら、彼の心は漁の不作でふさがれていたからです。夜通し働いたが何の収穫もなかった、魚が売れなければ収入はない、どうしたら良いのか、そのことをペテロは悩んでいたようです。イエスはペテロの心にある悩みを察知され、説教が終わると、ペテロに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われます(5:4)。ペテロは漁師であり、漁の専門家でした。漁は深夜から夜明けに行うのが通常で、昼に漁をしても収穫が少ないことをペテロは経験から知っていました。しかし、前にイエスに家族の病気を治してもらったことがあり、また会堂での説教も聞いて感服していましたので、断るのも気がひけたのでしょう。ペテロは答えます「先生、私たちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(5:5)。
・ペテロが沖に舟を漕ぎ出し、網を降ろしたところ、網が破れそうなほどの多くの魚が取れました(5:6)。ありえないことが起こったのです。ペテロはこれを見てイエスがただの人ではないことを知り、恐れて、「主よ、私から離れてください。私は罪深い者なのです」(5:8)と懇願します。ペテロはこれまでイエスを「先生」と呼んでいました。しかし今、ペテロは驚くべき出来事を見て、自分が神の人の前に立っていることを知り、「主よ」と呼び変えます。そのペテロにイエスは「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(5:10)と言われ、ペテロと仲間たちは「舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」とルカは記します(5:11)。

2.人間をとる漁師へ

・夜通し働いても一匹の魚も取れず、疲れきって網を洗う現実がこの世にはあります。会社から解雇され、次の就職先も見つからずに気落ちする人がいます。老親の介護に疲れて生きるのがいやになった人もいます。夫に先立たれ子供を抱えてこれからどうしたらよいのかと悩む妻もいます。自分の努力が報われない、人間の智恵や経験では乗り越えられない人生の限界があります。その限界を超えるものがイエスの呼びかけです。一晩中働いても一匹の魚さえ取れなかったペテロに、「もう一度やって見なさい」とイエスは言われます。その招きに「無駄かもしれませんがやってみましょう。お言葉ですから」とペテロは答えました。その時、虚しい現実が豊かなものになる経験を人はします。「おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった」(5:6)出来事を見ます。その圧倒的な神の力に接した時、人は神の前にひざまずきます。イエスを「先生」と呼んでいたペテロが、今イエスを「主」と呼びます。この体験、人知を超えた神の力に触れることによって私たちに信仰が与えられるのです。生きた神の現臨に触れる、その体験におののくことがなければ、頭だけの信仰はいつか崩れます。信仰は自分の身に起こった出来事への感動、応答なのです。
・罪を告白した者には祝福が与えられます。それは「恐れ」からの解放です。信仰生活を送るとは、主に委ねることが出来るので、全ての恐れから解放されることです。イエスはペテロに言われました「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(5:10)。「人間をとる漁師」と新共同訳は訳しますが、原文には「漁師」と言う言葉はありません。ゾーグレオー=捕らえる、生け捕りにするという動詞が用いられており、直訳すると「あなたは人間を生け捕りにする者になる」となります。人間を生け捕る=人々を捕らえ、生き返らせるものにする、自分一人の幸不幸に患わされる者から、他の人を解放する存在に変えられるとイエスは言われたのです。私の救いから私たちの救いへ、信仰が「私たちの救い」になった時、その信仰は力を持つようになります。
・吉岡秀人と言う人がいます。ミャンマーを基点に国際医療ボランテイアを行う「ジャパン・ハート」を立ち上げた医師ですが、彼が医者になったきっかけは、ある中国の修行僧の話を聞いたことにあるそうです、どうしても悟りを得たいと苦しむ若い禅僧に、高僧が言います「目を開け。山を下れば多くの人が病や飢えで苦しんでいる。お前が悟ろうが悟るまいが、世の中の人々の苦しみは変わりはしない。自分のことで悩む暇があれば町に下りて苦しむ人々に手を差し出しなさい」。彼はそれまで人生に目標が持てず、学業にも身が入らず、大学も二浪しています。しかし、その言葉を聞いて、彼は人を助ける技術を身につけたいと願い、国立大医学部に挑戦し、医者になってからは救急外来や小児外科、産婦人科等で学び、32歳の時にミャンマーに行き、無償無給の医療活動を始め、15年後の今では多くの医師・看護婦が活動に参加するまでになりました(吉岡秀人・飛べない鳥たちへ)。
・自分のことばかり考えている時、私たちは現在いる所から踏み出すことはできません。そして踏み出さない時、ペテロのように、「夜通し働いても一匹の魚も取れず、疲れきって網を洗う」生活の繰り返しになり、いつの間にか生きる意味さえも喪失していきます。現代の日本は「希望喪失社会」です。年間3万人の人が自殺し、未遂者も含めれば、毎年、30万人の人が自分の命を絶とうとする異常な社会です。それは人々が生きる意味、自分に与えられている使命を忘れ、自分のことしか考えられない社会になったからではないでしょうか。吉岡医師は記者の質問に答えて言います「東京では新人看護師の1割が1年以内に離職すると聞きます。しかしここには、必要とされている実感、それに応える事で得る充実感がある。若い医師や看護師ら医療に携わる者にとっての醍醐味があります」。東京では何故新人看護師が辞めていくのか、仕事がきついのに充実感が少ないからでしょう。人間は「誰かに、あるいは何かのために必要とされている」時に、幸福になります。ペテロたちが招かれているのは、幸福への道、自分だけの幸いを求める自己から解放され、人間をとる漁師になる=私たちの幸いを求める道です。

3.召しに応える生き方

・私たちもまたペテロと同じ招き、自我の業である信仰から解放されて、神の働きに参加しなさいという招きを受けています。「お言葉ですが」と拒否した時、そこには出来事は起こりません。「お言葉ですので」と従う時、そこから新しい世界が開けていきます。信仰の父と言われるアブラハムもそうでした。
・今日の招詞に創世記12章1節を選びました。次のような言葉です「主はアブラムに言われた。あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい」。アブラム、後のアブラハムはメソポタミヤに住む遊牧民でした。遊牧民は牧草地を求めて移動生活をしますが、移動の範囲は、水と草が確保されていることが条件です。アブラハムは父テラの時代に、カルデアのウルからハランまで移住しています。ウルはユーフラテス川とチグリス川が交差する河口の町、メソポタミヤ文明の発祥の地です。そこでは月神が礼拝されていました。太陽や月は被造物に過ぎないのに、それを拝む文明が生まれていた、神の創造の業が忘れ去られていたのです。神は創造の回復のために、アブラハムの父テラにそこを離れ、新たな信仰の場を求めるように命じられ、テラはユーフラテス川に沿って北上し、上流のハラン地方まで移住しました。テラはそこで死にます。そのテラの息子アブラハムに、「ハランを離れて、私の示す地に行け」との神の召しがありました。
・ウルからハランまでは1000kmの距離がありますが、ユーフラテス川に沿う地域ですので、水と草はあります。水と草がある限り、羊や山羊を生計の手段とする、遊牧民の生活は保証されています。しかし、今回の神の示しは、ユーフラテス川を離れて砂漠を超え、カナンの地に行けというものでした。そこはメソポタミヤの遊牧民にとっては未知の地、水や草が保証されない地、盗賊や野獣の危険に満ちた地でした。神はアブラハムに「私を信じ、見たことのない地に行け」と言われました。「私があなたを養い育てる、その約束を信じて、一歩を踏み出せ」と言われたのです。彼はその時75歳でした。旧約聖書の年齢の数え方は、現代とは異なっており、アブラハムは50歳ごろに神の召しを受けたと思われます。人生の盛りは過ぎていました。妻サラは不妊で子供もなく、これからも子を持つ希望もありませんでした。アブラハムの人生はもう終わったようなもの、まもなく閉ざされる、その時に彼は召されたのです。彼は一言も問い返すことなく、カナンを目指して歩き始めます。
・この一歩が、世界史を変える一歩になります。このアブラハムからイサクが生まれ、イサクからヤコブが生まれ、ヤコブの12人の息子が後のイスラエル12部族を形成していきます。ユダヤ人にとってアブラハムは民族の祖です。このユダヤ教からキリスト教が生まれ、キリスト教においてもアブラハムは信仰の父(ローマ4:11)と呼ばれています。また、アブラハムは側女ハガルを通してイシマエルを生みますが、このイシマエルがアラブ民族の祖になっていきます。イスラム教もまたアブラハムから生まれていったのです。世界の三大宗教と呼ばれるユダヤ教、キリスト教、イスラム教のいずれもがアブラハムを父と呼んでいます。そのアブラハムの第一歩がこのハランからの旅立ちの中にあるのです。
・私たちもまた「新しい一歩を踏み出せ」と招かれています。先に紹介した吉岡秀人氏は言います「人間と言うのは結局、自分が差し出した時間や背負ったリスク以上のリターンを手にすることはできないのです。人生にはカネよりも大事なものがあるとわかっていてもついついカネが欲しくなる。僕は、人の進路を塞ぐのは、往々にしてカネや社会的評価を求める己の欲だと思っています。天職と呼べるような生き様を見つけたり、自分にしかない才能を開花させたりするのには、そうした欲を消し去って、目の前の仕事に、我を忘れるくらい没入してみることが不可欠なのです」(2009年5月16日・朝日新聞「フロント・ランナー」から)。今、多くの若い人たちが希望を喪失しているのは、やるべきことが見出せない、あるいは与えられた挫折の意味がわからないからだと思います。聖書は希望を伝えます。人生の限界に直面する人々にイエスは「もう一度やって見なさい」と言われます。そして「もう一度」行った時、人間の限界を打ち破る神の業が示されます。それを見た者、生きている神の現臨にふれた者は、新しい人生に踏み出すように招かれます。その招きを皆さんも今日、受けているのです。

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