1.ラザロの死
・イースターをお祝いする今日、私たちはヨハネ11章から、ラザロの復活物語を読みます。イエスが死んだラザロを墓からよみがえらせる物語です。死者の復活は、信じることの出来ない人には、つまずきの物語です。哲学者のスピノザは述べます「もし誰かが、私のために、ヨハネ11章・ラザロ復活の記事の真実を立証ししてくれるなら、私はこれまでの著作の全てを廃棄して、クリスチャンになる」と(内村鑑三聖書注解全集第10巻・ヨハネ伝・p181より)。復活は理性では受入れにくい出来事です。しかし、私たちは復活を信じます。今日は、ラザロの復活物語を通して、私たちは生と死をどのように受け止めるべきかを共に学んでいきます。
・物語は、ベタニア村のマルタとマリアが、「弟ラザロが危篤なので、すぐ来て欲しい」という使いを、イエスに出すところから始まります。ベタニア村のラザロとその姉妹たちは、イエスと親しい交わりを持っており、イエスがエルサレムに来られる時は、いつもベタニア村に泊まられたようです。そのラザロが病気になり、危篤になりました。イエスは当時ヨルダン川に向こう側におられ、また大勢の人たちが教えを請いに来ており、すぐに動けなかったため、なお二日そこに滞在されてから、ベタニア村に向かわれました。イエスが着かれた時には、ラザロは、既に死んで四日が経っていました。
・ラザロの姉マルタは、イエスが来られたとの知らせを受けて村の外まで迎えに行き、イエスに言います「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」(11:21)。「もっと早く来てくだされば弟は死ななかった」、マルタは恨み言を言ったのです。それに対してイエスは答えられます「あなたの兄弟は復活する」。ラザロは生き返るとイエスは言われました。当時の人々は死後の命を信じていました。だからマルタは言います「終わりの日に復活することは存じております」(11:24)。しかしイエスが言われたのは、終わりの日ではなく、今、ラザロが生き返るということでした。イエスは言われました「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(11:25-26)。神は死んだ人をもよみがえらせることが出来る、これを信じるかとイエスは言われたのです。死んだ者が生き返るなど聞いたこともないし、見たこともない。誰が信じることが出来ましょう。マルタも信じることは出来ません。マルタの答えは的外れのものでした「主よ、あなたが神の子、メシアであると信じています」(11:27)。
2.ラザロの復活
・葬儀や埋葬の時、私たちは亡くなった人をしのんで泣きます。死んだ人が、もう私たちの手の届かない世界に行ってしまったからです。しかし、イエスは「泣く必要はない」と言われました。イエスはラザロが危篤だと知らされても、すぐに動こうとはされませんでした。ラザロが死んだことを知られた時に弟子たちに言われました「ラザロが眠っている。彼を起こしに行こう」(11:11)。イエスにとって死とは父なる神の御許に帰ることであり、悲しむべきことではなかったのです。
・しかし、マルタが泣き、その姉妹マリアもまた悲しみに打ち負かされている様を見られ、イエスは心に憤りを覚えられました。死が依然として人々を支配しているのを見て、憤られたのです。そしてマルタに言われました「墓の石を取り除きなさい」。マルタは答えます「四日も経っていますからもうにおいます」。イエスはマルタを叱責されます「もし信じるなら神の栄光が見られると言ったではないか」(11:40)。人々が石を取り除いたのを見ると、イエスは墓に向かって呼ばれました「ラザロ、出てきなさい」。死んで葬られたラザロが、手と足を布で巻かれたままの姿で出てきました。
・当時の人々は、人は死んだら陰府に行くと考えていました。陰府は沈黙の国、忘却の地です。死んだ人とはもう会えない。だから人が死ねば、みな泣く。私たちは死んだらどうなるのでしょうか。誰もわからない。わからないから、考えることをやめる。そして、「食べたり、飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」(1コリント15:32)として、過ごします。しかし、死を考えないようにして、現在を楽しもうとしても、何の意味もありません。死は確実に訪れるからです。この人生は死で終わりなのか、それとも死を超えた命があるのか。真剣に求めるべき問いです。
・多くの人はベタニア村で起こった出来事を、歴史的出来事と信じることが出来ません。有名な聖書学者ブルトマンは、次のように述べます「イエスの十字架の上での刑死は史実だが、復活はその史実としてのイエスの十字架の意味を、当時の神話的象徴で表現したものである」(小田垣雅也「イエスの復活」から)。また、遠藤周作も「復活は歴史的事実であるというよりも、弟子たちの宗教体験と考えるべきだ」(遠藤周作「キリストの誕生」p38)と言います。
・イエスは言われます「私を信じる者は死んでも生きる」。ここで言われていることは肉体的な命のことではありません。ギリシャ語の命には「ビオス」と「ゾーエー」の二つがあります。ビオスとは生物学的命、ゾーエーは人格的な命を指します。復活をビオスの問題と考える時、人は混乱します。ラザロが生物学的によみがえってもたいした問題ではない。彼は再び死ぬからです。しかし、復活はゾーエーの問題です。大事なことはラザロが生き返ったことではなく、ラザロのよみがえりを通じて、マルタが命である神に出会ったことです。私たちはこの地上を「生ける者の地」、あの世を「死せる者の地」と考えていますが、真実は違います。全ての人が死にますから、この地上は「死につつある者の地」なのです。しかし、イエスを信じる時、状況は変わります。何故ならば、死んだラザロがよみがえったことを通して、神は死者をも生かされることが示されました。イエスを信じる時、この地上が「生ける者の地、死に支配されない者の地」に変わるのです。
3.愛が人を復活させる
・今日の招詞にマルコ9:23−24を選びました。次のような言葉です「イエスは言われた。『できればと言うか。信じる者には何でもできる』。その子の父親はすぐに叫んだ。『信じます。信仰のない私をお助けください』」。
・イエスのもとにてんかんに苦しむ子を持つ父親が来て、息子の病をいやしてほしいと頼みました。その時、息子は地面に倒れ、転びまわって泡を吹いていました。イエスは父親に「いつからこのようになったのか」とおたずねになります。父親は答えます「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、私どもを憐れんでお助けください」。それに対して言われた言葉が今日の招詞です。「できればと言うか。信じる者には何でもできる」。父親は叫びます「信じます。信仰のない私をお助けください」。この切実な叫びが応えられ、てんかんの子はいやされました。そのいやしにより、父親は信じることの出来る者、永遠の命を持つ者になりました。ここで救われたのは、てんかんの子であると同時に、その父親なのです。この父親は私たちです。私たちも、わからないままに、確信がないままに叫びます「信じます。信仰のない私をお助けください」。
・ラザロの復活は、ドストエフスキーの小説「罪と罰」の主題として用いられていることでも有名です。前に、この「罪と罰」をご紹介したことがありますが、あえて再度申します。ここに復活の大事な意味が込められているからです。主人公ラスコリニコフは、貧しい学生でしたが、自分のように才能のある若者が貧乏にあえぎ、何の将来性もない金貸しの老婆がたくさんの金を持っているのは不合理であるという思い上がった気持ちから、金貸しの老婆を殺して金を奪います。しかし、実際に殺してみると、彼は良心に責められ、そのお金を使うことも出来ません。その彼が、娼婦ソーニャと知り合います。ソーニャは家族を助けるために娼婦に身を落としていますが、心は純真なままです。彼女はラスコリニコフのために、ヨハネ福音書の「ラザロの復活」を読みます。それを聞いて心を動かされたラスコリニコフは自分の罪を認め、自首し、やがてシベリヤの流刑地に送られます。ソーニャはシベリヤまで彼について行きます。地の果てのような所で数年を過ごした後、復活祭過ぎのある朝、蒼白くやせた二人は、川のほとりでものも言わずに腰を下ろしていました。突然、彼は泣いてソーニャの膝を抱きしめます。彼女の無私の愛が、遂に彼を深く揺り動かしたのです。「二人の目には涙が浮かんでいた。・・・愛が彼らを復活させたのである」とドストエフスキーは書いています。
・ドストエフスキー研究家の井桁貞義氏(早稲田大学文学部教授)は次のように述べます「ドストエフスキーが作家として活動するなかでいつも手もとに置いていた新約聖書は現在モスクワのレーニン図書館に保存されており、ヨハネによる福音書第11章19節-23節、「罪と罰」でラスコリニコフの願いによってソーニャが朗読する「ラザロの復活」の箇所には始めと終わりがインクでマークされ、小説ではイタリック体で強調されている25節『私は復活であり、命である』には鉛筆で下線がほどこされています」。ドストエフスキーは神を信じることの出来なくなった私たち現代人のために、この小説を書いたのです。
・愛が彼らを復活させた。イエスの愛は、ラザロのよみがえりを通して、悲しみに沈むマルタとマリアの姉妹を復活させました。イエスの愛は十字架で逃げ去った弟子たちに再び現れることを通して、弟子たちを復活させました。それはソーニャの信仰を通して殺人者ラスコリニコフを復活させました。復活は人を生かす力を持っているのです。イエスは言われました「私は復活であり、命である。私を信じる者は、たとい死んでも生きる。このことを信じるか」。復活を愚かなこと、信じるに値しないこととして捨てることは簡単です。しかし、捨てても何も生まれない。私たちは全てを知っているわけではない。復活の出来事の中に真理がある、復活の出来事を通して、人は神に出会うのです。