江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2008年3月30日礼拝説教(ヨハネ20:19-29、復活の主に出会う)

投稿日:2008年3月30日 更新日:

1.弟子たちを赦されるイエス

・先週、私たちは、ラザロの復活の物語を読みました。イエスは復活を信じることができないマルタに言われました「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる」(11:25)。物語から学びましたのは、イエスは、復活を信じることの出来ないマルタとマリアのために、ラザロを死からよみがえらせ、そのしるしを通じて、マルタとマリアが信じる者に変えられて行ったことです。復活は理性では信じることが難しい出来事です。今日でも多くの人が復活を信じることが出来ずに苦しんでいます。何故ならば、復活なしには、人は死の縄目から自由になることが出来ないからです。イエスに従った弟子たちもまた、イエスの復活を信じることが出来ませんでした。その弟子たちがいかにして信じる者に変えられていったのか、今日はヨハネ20章から学びます。
・ヨハネは物語を次のように始めます「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(20:19)。イエスが十字架で殺されたことは、弟子たちを絶望と恐怖に陥れました。救い主と信じて従ってきた人が十字架で殺され、彼らは絶望の中に投げ込まれました。また、自分たちはその人を捨てて逃げたという罪意識が彼らを苦しめました。さらには自分たちも捕えられるかも知れないという恐怖もありました。「家の戸に鍵をかけていた」、弟子たちの怖れを現しています。弟子たちは、イエスがその日の朝早く復活され、マグダラのマリアに会われたという報告を聞いています。ペテロは墓に急いで、墓が空であることを自分の目で見ています。それにもかかわらず、彼らはイエスの復活を信じることはできず、怖れて、「部屋に閉じこもっていた」のです。
・その彼等の只中に、復活のイエスが現れました。並行箇所のルカでは「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」とあります(ルカ24:37)。とても信じられないような出来事に彼らは遭遇したのです。その弟子たちにイエスはご自分の手とわき腹をお見せになりました。そこには十字架につけられた時の釘穴と、刺された時の槍の跡が残っていました。弟子たちはその傷を見て、ここにおられる方が、十字架で死なれたイエスであることを知り、喜びに包まれます(20:20)。
・イエスは弟子たちに、「あなたがたに平和があるように」と言われました。この「平和」という言葉はギリシャ語でエイレネーが用いられています。ヘブル語シャロームの訳語で、「平安」の方がより適切な訳かもしれません。イエスは弟子たちに「あなたがたは何故逃げたのか」とも、「あなたがたは何故私を捨てたのか」とも言われず、ただ「あなたがたに平安があるように」と祝福されました。弟子たちは「主をみて喜んだ」。復活の主に出会って喜んだことは当然ですが、裏切った自分たちを赦して下さったイエスの愛に彼らは震えました。恐怖に震えて戸を閉ざし、世との関係を遮断していた弟子たちが、復活のイエスに出会い、変えられました。彼らは外に出て「イエスは復活された。イエスは神の子だ。私たちはその証人だ」と宣教を始めます。イエスの復活は死んでいた弟子たちをよみがえらせたのです。

2.イエスはトマスのために再び、顕現された。

・復活のイエスが弟子たちに現れた時、トマスは一緒にはいませんでした。他の弟子たちが「私たちは主を見た」といってもトマスは信じません。彼は言います「私は、その手に釘あとを見、私の指をその釘あとにさし入れ、また、私の手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」(20:25)。トマスは観察し、実験し、実証されうるものでなければ決して信じません。現代の私たちと同じです。ヨハネはトマスを「十二人の一人」と形容します(20:24)。聖書で「十二人の一人」と言う時は、通常は背教者ユダを指します。ヨハネ6章は記します「『あなたがた十二人は、私が選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ』。イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた」(6:70-71)。トマスもまた「十二人の一人」でありながら信じることが出来なかった。イエスを三度否認したペテロもまた「十二人の一人」だった。イエスが選ばれた弟子たちでさえ、復活を信じることが出来なかったことをヨハネは隠しません。
・しかし、イエスは信じることの出来ないトマスのために、再度現れたとヨハネは記します。8日の後、つまり次の主日、イエスが再び現れ、トマスに対して言われました「あなたの指をここにつけて、私の手を見なさい。手を伸ばして私の脇に刺し入れてみなさい」(20:27)。トマスにイエスは言われます「おまえは見ずに信じることは出来なかった。この釘跡と槍跡に触れても良い。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。トマスはイエスの言葉に圧倒され、ひざまずき、告白します「わが主、わが神」。教会の信仰告白の核心が、最も弱い弟子において語られました。十二弟子の一人であるトマスさえ、その不信仰を赦されたであれば、私たちの不信仰もまた赦しの中にあるのです。また、この日が8日目であることを覚える必要があります。1週間前の日曜日に復活のイエスに出会った弟子たちは、次の日曜日にイエスと再び出会うために集まっていた、ここに既に礼拝が始まっていたのです。

3.教会で私たちは復活の主に出会う

・今日の招詞に�コリント15:3-5を選びました。次のような言葉です「最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」。
・初代教会の復活伝承には、二つの流れがあります。一つはイエスが葬られた墓が三日目に空虚になったこと、もう一つはイエスが弟子たちの前に現れたことです。パウロがここで証言しているのは、キリストはケファ(ペテロ)と十二弟子の前に現れたことです。そしてパウロは、キリストは私にも会って下さったと証言しています。パウロはヨハネ20章に書かれている出来事が実際に起こったのだと言っているのです。そしてパウロはコリントの人々に訴えます「キリストは死者の中から復活したと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(同15:12-14)。パウロは言います「復活は理性では承認しがたい出来事だ。しかし、私たちはその出来事を実際に体験した。だからあなた方もそれを受入れて生きなさい。受入れる時、聖書の使信が文字通り、福音=良い知らせになっていくのだ」と。
・復活は聖書の中心的使信です。それは歴史的事実であると同時に、人格的な事実です。弟子たちが復活のイエスに出会って、それまで隠れていた部屋から出て、「主はよみがえられた」と宣教を始めたのは、歴史的事実です。初代教会が、ユダヤ教の聖日である土曜日ではなく週の初めの日、日曜日に聖日礼拝を始めたことも歴史的事実です。教会の迫害者であったパウロが復活のイエスに出会って伝道者に変えられた、これもまた歴史的事実です。しかし、十二弟子が復活のキリストに出会ったことは人格的な事実であり、学問的に検証できる事柄ではありません。また、パウロのイエスとの出会いも他の人には見えない、人格的な事実でした(使徒言行録9:7)。しかし、確実に出会いはあった、私たちも復活の主に出会って人生が変えられた、それもまた事実なのです。
・さて、トマスは何故、信じることが出来なかったのでしょうか。イエスが弟子たちの群れに現れた時、彼はその群れにいませんでした。だから復活のイエスに出会えなかった。トマスは不安と絶望の中で、弟子の群れから離れていたのです。しかし、トマスは群れに帰ってきました。おそらくは復活のイエスが現れたとの話を聞いたからだと思われます。帰ってみると、他の弟子たちは「私たちは主を見た」と喜び沸き立っています。彼は違和感を覚え、反発し、「あの方の手に釘の跡を見、その釘跡に指を入れてみなければ信じない」と高言しました。しかし、それでも群れを離れませんでした。だから、イエスが再び現れた時、トマスはイエスに出会い、その出会いが彼に命と力を与えました。人は一人では信仰をまっとうできない。だから、信仰者は教会を形成し、共に集い、共に祈ります。
・イエスは、弟子たちに宣教の使命を与えられました。「父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす」(20:21)。イエスは信仰者の群れである教会に、宣教の使命を与えられた。このことを私たちは心に刻む必要があります。私たちの教会は新小岩教会の伝道所として立てられました。篠崎教会が立てられたのは、新小岩教会の人たちが、イエスの宣教命令を自分たちへの言葉として聞いたからです。自分たちだけの信仰生活を守るのであれば、篠崎の地に教会を立てる必要などなかった。そうではなく、篠崎の人々にイエスの言葉を伝えるために、新小岩教会の人々は財政的、人的な重荷を自ら背負って、この地に教会を立てました。
・私たちもただ礼拝を守りたいだけであれば、この教会は不要です。近くに他の教会もある、無理してこの教会を維持する必要はない。そうではなく、この地域の人々に伝道することが教会の使命であり、それが復活の主が命じられたことだと私たちが理解する時だけ、ここに教会が必要となります。だから、私たちは、この教会に、自分の捧げ得る限りのお金や時間を捧げるのです。私たちが、自己の満たしを求めて、この教会に来ても、復活の主との出会いはない。救いは個人の出来事ではなく、共同体の出来事だからです。共同体の一人として、私たちは主に出会う。だからまだ教会員でない方は、転入会して私たちと一緒に教会形成に当たって欲しいと願います。私たちは教会の主日礼拝を通して復活のキリストに出会い、力をいただいて世に出て行くのです。

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