江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2024年1月24日祈祷会(第二コリント5章、キリストの愛に迫られて)

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1.希望の根拠

 

・パウロは紀元50年頃、コリントで開拓伝道を行い、1年半後にそこに教会が生まれた。その後、彼はエペソの開拓伝道に向かうが、パウロが不在の間、エルサレム教会から派遣された巡回伝道者たちがコリントを訪れ、パウロと異なる福音を宣べ、教会の信仰が次第に別のものに変わって行く。エルサレム教会の伝道者たちは、「パウロは直弟子ではないから使徒とはいえない」、「彼は自分の異端的な信仰を教会に押し付けている」と批判した。いまだユダヤ教の枠内にいたエルサレム教会の人々は、パウロの「律法から自由な、割礼なしの福音」を理解できなかった。コリント教会は彼らの影響を受け、パウロに批判的になっていく。その教会に対し、パウロが書いた弁解の手紙の一部が、第二コリント5章である。

・パウロはどのような時にも落胆しない。裏切られ、非難されてもくじけない。それは彼がこの地上の生を越えた希望、復活の命に生かされているからだ。

-第二コリント4:18-5:1「私たちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。私たちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、私たちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです」。

・地上の生活は仮の幕屋生活に過ぎない。それは、風が吹けば倒れ、雨が降れば水浸しになる。だから地上の栄光を求めようとは思わないし、地上で批判され、責められてもくじけない。ただただ、「天の住処(復活の体)を地上の幕屋(肉の体)の上に着たいと願う」とパウロは語る。

-第二コリント5:2-4「私たちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています。それを脱いでも、私たちは裸のままではおりません。この幕屋に住む私たちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです」。

・地上の私たちは制約を持つ。あなたがたは私たちの弱さを責めるが、地上の生が幕屋にあり、弱さの中にある事を知って初めて、人は天上の生を望む。弱さを知った者だけが、他者の弱さを受け入れることが出来る。

-第二コリント5:6-9「体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。私たちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」。

 

2.キリストの愛に迫られて

 

・あなた方は、私を「気が狂っている」と非難した。確かに私は正気ではない。キリストの愛に駆り立てられているからだ。しかし、あなたたちのためには正気だ。熱心と熱狂は異なる。

-第二コリント5:13-14「私たちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。なぜなら、キリストの愛が私たちを駆り立てているからです」。

・正気ではない=ギリシャ語エクシステーミ、エクス=外に、イステミー=立つ、外に立つ、世の常識の外に立つ。パウロは律法を軽んじるキリスト教徒を異端として捕縛するために、ダマスコに赴く途上で、復活のキリストに出会い、イエスが復活して今も生きておられることを自ら体験した。この神秘体験を通して、古いサウロは死に、新しいパウロが生まれた。

-使徒9:3-5「サウロが旅をしてダマスコに近づいた時、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。『私は、あなたが迫害しているイエスである』」。

・キリストの迫害者だったサウロが一転してキリストの伝道者パウロになり、それからの彼は気が狂ったように伝道に邁進した。パウロは、それを、「キリストの愛が私たちを駆り立てている」と述べる。

-第二コリント5:14-15「一人の方は全ての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」。

・キリストが自分のために死んで下さったことを知った時、人は正気を失うのだ。その時、人はもう自分のためには生きることが出来ない。自分のために死に、復活して下さった方のために生きる者に変えられる。あなた方は、私が生前のイエスに従った弟子でないから使徒ではないと批判する。しかし、復活のキリストに出会った以上、そのような批判が何であろう。私はキリストに出会って全く生まれ変ったのだ。

-第二コリント5:16-17「私たちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」。

・これは神のご計画だ。神はキリストを和解の使者として降し、その死によって和解の道を開いて下さった。そして私を召して、和解の福音をのべる者として下さったのだ。

-第二コリント5:18-19「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通して私たちを御自分と和解させ、また和解のために奉仕する任務を私たちにお授けになりました。神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちにゆだねられたのです」。

・罪の赦しを喜ぶことはキリスト者の生の半分だ。残りの半分は和解の福音を伝えことだ。

-第二コリント5:20-21「神が私たちを通して勧めておられるので、私たちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何の関りもない方を神は私たちのために罪となさいました。私たちはその方によって神の義を得ることができたのです」。

 

3.第二コリント5章の黙想

 

・パウロは語る「私たちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません」。肉に従ってキリストを見るとは、歴史の中に現れたナザレのイエスをこの世的視点から見ることだ。イエスの奇跡と力ある説教を見て、人々は、「この人は聖書に預言された救世主かもしれない」、「この人は私たちをローマ帝国の支配から解放してくれるかもしれない」と期待を寄せた。しかしイエスは無力にもローマ軍によって反乱者として逮捕され、十字架刑で処刑された。神からの救済の奇跡は起きず、人々は深く失望した。肉に従って見れば、イエスは当時たくさん出た偽メシアの一人、ローマによって処刑された何千人もの反乱者の一人に過ぎない。

・弟子たちも同じように失望し、散らされて行ったが、やがてエルサレムに戻り、「この人こそメシアであった」と宣教を始め、死を持って脅されても宣教を止めなかった。彼らは復活のイエスと出会い、そのことを通して「イエスがメシア=キリストである」との確信を持った。しかし、復活のイエスと出会ったのは弟子たちだけだった。イエスこそ神の子であるとの希望を持った人だけが復活のイエスと出会い、その他の人々は出会わなかった。「イエスがキリストである」という真理は肉の目では見えず、霊の目だけが見える真理なのである。

-第一コリント15:3-5「最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてある通り、私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」。

・熱心なユダヤ教徒であったパウロも、最初は「イエスがキリストである」とは思いもしなかった。だからキリスト教徒たちを異端として迫害した。しかしダマスコでの回心体験を通して、パウロは「イエスこそキリストである」ことを確信する。だから彼は「今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません」と語る。

・パウロは続ける「私が生前のキリストに従った直弟子であろうとなかろうと、エルサレム教会からの推薦状を持つかどうかは本質的な問題ではない。私はキリストから直接に召された使者としてあなた方に接したのだ」とパウロは語る。そして「私が神から委ねられたのは和解の福音だ」と語る。

-第二コリント15:18-19「これらはすべて神から出ることであって、神はキリストを通して私たちを御自分と和解させ、和解のために奉仕する任務を私たちにお授けになりました。つまり神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです」。

・パウロはコリント教会に語りかける「神が私たちを通して勧めておられるので、私たちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」(5:20)。神と和解した者は人とも和解する。人が他者と和解できないのは、それは彼が神と和解していないからだ。「あなた方は私を憎んでいるのではないかと思えるような激しさで私を批判する。もし、あなた方が私を憎んでいるならば、あなた方は神と和解していない。だからお願いする、神と和解しなさい。神の招きは無条件であるが、受け入れるという決断はあなた方自身がしなければいけないのだ」と。

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