1.最後の挨拶
・パウロはローマ教会の人々に最後の挨拶を送る。注目すべきはパウロがそれぞれの人を紹介する視点だ。パウロはプリスカとアキラを「キリスト・イエスに結ばれた協力者」と呼び(16:3)、フェベを「主に結ばれている者」として紹介する(16:2)。またウルバノを「キリストに仕えている」と紹介し(16:9)、トリファイナとトリフォサ姉妹を「主のために苦労して働いている」と呼ぶ(16:12)。主にある働き人、同労者としての連帯がここにある。違った環境で育ち、違った階層に属していても、「主にある働き人」として共に労苦している。その尊敬があれば教会は一つになれることをパウロは示している。
-ローマ16:1-12「私たちの姉妹フェベを紹介します・・・彼女は多くの人々の援助者、特に私の援助者です。キリスト・イエスに結ばれて私の協力者となっている、プリスカとアキラによろしく・・・あなたがたのために非常に苦労したマリアによろしく・・・アンドロニコとユニアス・・・は使徒たちの中で目立っており、私より前にキリストを信じる者になりました・・・私たちの協力者としてキリストに仕えているウルバノ・・・によろしく。真のキリスト信者アペレによろしく・・・主のために苦労して働いているトリファイナとトリフォサによろしく。主のために非常に苦労した、愛するペルシスによろしく。」
・手紙の最後で、パウロはローマ教会の人々に挨拶を送るが、最初にこの手紙を持参するフェベに対する「とりなしの願い」を行う。ケンクレアイ教会はコリント教会の分教会(伝道所)だ。
-ローマ16:1-2「ケンクレアイの教会の奉仕者でもある、私たちの姉妹フェベを紹介します。どうか、聖なる者たちにふさわしく、また、主に結ばれている者らしく彼女を迎え入れ、あなたがたの助けを必要とするなら、どんなことでも助けてあげてください。彼女は多くの人々の援助者、特に私の援助者です」。
・コリントで彼を支援してくれたくれたプリスカとアキラが今ローマにいる。手紙から推測されるのは、ローマ教会は、信徒の家に集まって礼拝を持っていた「家の教会」であったことである。
-ローマ16:3-5「キリスト・イエスに結ばれて私の協力者となっている、プリスカとアキラによろしく。命がけで私の命を守ってくれたこの人たちに、私だけでなく、異邦人のすべての教会が感謝しています。また、彼らの家に集まる教会の人々にもよろしく伝えてください。」
・ルフォスと母の記述も印象的だ。ルフォスの父、クレネ人シモンはかってイエスの十字架を無理に担がされた人であった(マルコ15:21)。それから29年、妻と子が信徒となり今はローマの教会にいる。
-ローマ16:13「主に結ばれている選ばれた者ルフォスおよびその母によろしく。彼女は私にとっても母なのです」。
・ローマ書の最後にある人名表は、ローマ教会の人々の身分構成を示唆している。ここに27人の名前が挙げられているが、注目点が二つある。一つは婦人の名前が多く見られることだ。当時の社会において、婦人は、父のあるいは夫の所有物であり、人格が尊重されていたわけではない。このような時代の中で、教会では婦人たちが尊敬され、大きな働きをしていた。プリスカ(16:3)は夫アキラより先に名前を挙げられているし、フェベ(16:1)はケンクレアイ教会の執事、ユニアス(16:7)は使徒と呼ばれている。
・二つ目の注目点は、多くの奴隷あるいは解放奴隷と目される人々の名前が記されていることだ。アンプリアト(16:8)、ウルバノ(16:9)、スタキス(16:9)は当時の典型的な奴隷の名前である。10節「アリストブロ家の人々」という呼び名は「アリストブロ家の奴隷」を指し、11節「ナルキソ家の人々」も同じ意味だ。当時のローマ教会では多くの奴隷または解放奴隷たちが信徒になっており、彼らもまた「主の働き人」として、重んじられていたことが推察される。教会の中では、社会的な身分や属性を超えた、「主にある兄弟姉妹」の交わりが実現されていた。使徒時代には、「キリストにあっては、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もない」という標語が文字通り実現していたことが推察される。
-ガラテヤ3:28「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」
2.福音宣教の働きのために
・パウロはローマ書という壮大な書簡を書いた。彼は書簡の中で何度も、「イスパニアに行く時あなた方を訪ねたい」(15:24a)、「あなた方の所を経てイスパニアに行きます」(15:28)と書いている。イスパニアは当時の世界では「地の果て」だった。「地の果てに至るまで証人となれ」という宣教命令を完成するために、パウロは当時の地の果てだったイスパニアにまで宣教したいと願ったのであろう。パウロはローマ書冒頭で、自分は「ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります」(ローマ1:14)と語る。未開の人とはギリシア語を話さない人々、イスパニアを含む未知の人々を指す。パウロは生きている内に「すべての国民」への宣教を考えていた。全世界への伝道が完成した時、神の国が来ると考えていたようだ。
-使徒1:8「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、私の証人となる。」
・当時のイスパニアにはユダヤ人は居住せず、パウロがこれまで伝道の拠点としてきたシナゴーク(ユダヤ人会堂)もなかった。パウロの母国語であるギリシア語はそこでは話されていず、通じるのはラテン語で、パウロはラテン語を話せない。ラテン語訳聖書も当時はなかった。パウロのイスパニア伝道は多くの困難を抱えており、財政的・文化的障害がローマ共同体の助力を必要とした。だからパウロはローマの教会に助力を願う。
-ローマ15:7「だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。」
・パウロの手紙を持参するのは、ケンクレアイ教会の執事フェベだ。ギリシア・ローマ世界においては、手紙の持参人は手紙の内容と同じくらい大事な役割を果たす。手紙の持参人は単に手紙を相手に渡すだけではなく、手紙の内容について相手に説明する役割を持った。彼女はスペイン宣教にローマ教会の支援を求めるために派遣されたと思われる。容易ではないスペイン宣教のために、パウロが信頼できる同労者であることを伝えるために、彼のこれまでの諸教会での働きが伝えられた。
・ローマのユダヤ人キリスト者たちは、パウロが異邦人宣教への過激な主張者であり、エルサレム教会の保守派から嫌われていたことを知っていたであろう。彼らはアンティオキアでペテロが異邦人信徒との会食(聖餐)を拒否した時、パウロがペテロを激しく批判したことも聞いていたであろう。
-ガラテヤ2:11-14「ケファがアンティオキアに来た時、非難すべきところがあったので、私は面と向かって反対しました。なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです・・・(私は)皆の前でケファに向かってこう言いました。『あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。』」
・彼らはパウロが、「使徒」として信頼できるのか、疑っていたかもしれない。ローマ教会には政府に近い人たちもいたと推測される。彼らはパウロが度々投獄され、争いに巻き込まれた前歴に懸念したと思われる。トラブルメーカのようなパウロと協力することは教会の安全を損なう心配もあった。パウロの計画を支援するのはリスクがあった。その時、フェベのような上流階級の支援者によるパウロの身元保証は彼らを安心させた。彼女の富と社会的・法的身分がローマ教会に対する安心材料になったと思われる。
3.ローマ教会への最後の勧告
・ローマ教会の中にも、異なった福音を宣べ、教会を混乱させる動きがあった。パウロは警告する。
-ローマ16:17-18「兄弟たち、あなたがたに勧めます。あなたがたの学んだ教えに反して、不和やつまずきをもたらす人々を警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。こういう人々は、私たちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです」。
・教会に集まる人々は生い立ちを異にし、信仰の経歴も異なる。信仰の多様性の中にあって、一つの教会を形成する。自分の義を主張することをやめるためには、キリストの十字架を共に仰ぐしかない。
・イエスは「教会の中には良い麦も出るし、悪麦もでる。その時、悪麦を抜くな、良い実も共に抜くと、教会全体が崩壊する可能性がある。それは神に任せよ」と教えられた(マタイ13:24-30)。教会も人の集まりであり、常に一致を乱そうとする動きが出る。「その人を裁くな、神が裁いて下さる」とパウロも繰り返す。教会は裁く場ではなく、とりなしの祈りを行う場だ。
-ローマ16:19-20「あなたがたの従順は皆に知られています。だから私はあなたがたのことを喜んでいます。なおその上、善にさとく悪には疎くあることを望みます。平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう。私たちの主イエスの恵みがあなたがたと共にあるように」。