1.ヤコブの殺害とペトロの投獄
・福音は国家を超える故に、国家と衝突し、時として国家は福音の迫害者になる。初代教会の迫害者になったのは、ヘロデ大王の孫ヘロデ・アグリッパ一世(在位41~44年)だった。彼はローマによって任命された王であり、ユダヤ人ではなくイドマヤ出身のため、国民に人気がなく、彼らの関心を買うために、人々が異端視していたキリスト教会の柱の一人、使徒ヤコブを捕らえ、これを処刑した。
-使徒12:1-3「そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロをも捕えようとした。それは除酵祭の時期であった。」
・迫害の手はペトロにも伸びた。ヘロデ王はユダヤ人たちの更なる関心を得るために教会の指導者であったペトロを捕らえ、投獄した。教会は何もできず、ただ神にペトロの安全を祈るだけだった。
-使徒12:2-5「ヘロデはペトロを捕えて牢に入れ、四人一組の兵士四組に看視させた。過越祭の後で民衆の前に引き出すつもりだった。こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。」
・ヘロデはペトロの仲間たちが救出にくるかも知れないと判断し、兵士たちに厳重な監視をさせた。
-使徒12:6「ヘロデがペトロを引き出そうとしていた日の前夜、ペトロは二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間で眠っていた。番兵たちは戸口で見張っていた。」
・その厳重な監視の中に、突然主の使いが現れ、ペトロは救出された。事実関係は不明であるが、教会に好意を持つ者が王宮の中にもおり、救出の手助けをしたのかもしれない。
-使徒12:7-8「すると主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らした。天使は・・・『急いで起き上がりなさい』と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。天使が、『帯を締め履物を履きなさい』と言ったので、ペトロはその通りにした。また天使は、『上着を着てついて来なさい』と言った。」
2.ペトロ、牢から救い出される
・歴代の教会は祈りが神に聞かれ、ペトロ救出の奇跡を生んだと考えてきた。しかしヤコブ投獄の際にも教会は祈ったであろうが、ヤコブは殺された。ペトロは為すべきことがあるために生かされ、ヤコブはその業を終えて死んだ。すべて神の業である。
-使徒12:9-10「ペトロは外に出てついて行ったが、天使のしていることが現実のことと思えなかった。幻を見ているのだと思った。第一、第二の衛兵所を過ぎ、町に通じる鉄の門の前まで来ると、門がひとりでに開いたので、そこを出て、ある通りを進んで行くと、急に天使は離れ去った。」
・なぜペトロは助かり、ヤコブは殺されたについて富山鹿島町教会の小堀牧師は語る(2009.9.27)。
「ヤコブは、ペトロ、ヨハネと共に、十二使徒の中でも・・・いつもこの三人が主イエスのそばにいるという、特別な存在だった。それなのに、どうしてヤコブは殺され、ペトロは助けられたのか・・・イエスがエルサレムに入る直前、ヤコブとヨハネの母がイエスに、『王座にお着きになる時、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください』と願い出た・・・これに対しイエスが、『確かに、あなたがたは私の杯を飲むことになる』と答えた。イエスが「私の杯」と言われたのは、十字架の死を語っている。ヤコブの死は、この主イエスの予言の成就と見ることが出来る。一方、ヤコブの兄弟であるヨハネは、使徒たちが皆殉教していく中で90歳まで生きたと伝えられている・・・生きるにしても死ぬにしてもキリストが崇められる、そのことのために用いられる主の僕の姿を示している。実際、ペトロはこの時は助けられるが、20年後にはローマにおいて殉教する。ペトロが牢から救い出されて『今、初めて本当のことが分かった』と言う中には、自分が救い出されたのは単に私が助かるというようなことではなくて、神は私を助けることによって、私を主の福音を伝える者としてまだ用い給う、その御心の中で助けられたということが初めて分かったということでもあるのだと思う」。
3.ペトロ、仲間たちを訪ねる
・ペトロは救われたことを兄弟たちに知らせるため、ヨハネの母マリアの家を訪問した。この家は信徒たちの隠れ家であり、最後の晩餐も聖霊降臨もこの家で起こったと伝承されている。
-使徒12:11-12「ペトロは我に返って言った『今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、私を救い出してくださったのだ。』こう分かるとペトロはマルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家へ行った。そこには大勢の人が集まって祈っていた。門の戸を叩くと、ロデという女中が出て来た。ペトロの声だと分かると、門を開けもしないで家に駆け込み、ペトロが門の前に立っていると告げた。」
・人々はペトロの救出を祈りながら、その実現を信じていなかった。人間の信仰はそんなものだとルカは語っている。ペトロは彼らに獄舎から救い出された次第を話した後、主の兄弟ヤコブたちへの伝言を頼んだ(13:17)。彼はこれ以降姿を消し、地下生活に入る。
・この使徒ヤコブ殺害やヘロデ迫害を転機として、エルサレム共同体の主導権は使徒たちから、主の兄弟ヤコブを中心とする長老指導体制に変わっていく。やがて開かれるエルサレム使徒会議(紀元48年頃)を主催したのも主の兄弟ヤコブだった。
-使徒15:13-21「二人が話を終えると、ヤコブが答えた『兄弟たち、聞いてください・・・私はこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです。モーセの律法は・・・安息日ごとに会堂で読まれているからです』」。
・主の兄弟ヤコブ(義人ヤコブ)はエルサレム教会の初代教会長を、紀元38年から24年間務めたとされる。62年に処刑され、殉教した。ヨセフスによる「義人ヤコブ」の殺害について、「キリストと呼ばれたイエスの兄弟ヤコブ」が石打ちの刑に処せられたとの記事があり、ユダヤ人からも尊敬されていた。人は役割がある限り生かされ、それを終えると主の御もとに去っていく。古代教父テルトゥリアヌスは語る「殉教者の血は教会の種子である」。死を恐れぬ信仰が多くの人にキリストの福音を信じる契機を与えた。
4.ヘロデ王の急死
・ティルスとシドンの人々は、ヘロデ・アグリッパ王がフェニキアに来た折、彼を歓迎し、その演説を「神の声だ」と誉め上げた。その時、ヘロデは「蛆に食い荒らされて息絶えた」とルカは記す。ヘロデの急死は歴史家ヨセフスもその著「古代誌」で伝える「ヘロデは銀糸で織られた衣装をまとって現れ、それが太陽を反射して光り輝き、民衆が『この人こそ神だ』と称えた時、彼は倒れた。王は激しい腹痛に襲われ、五日後に死んだ」(使徒12:20-23)。
・暴君は滅びる。それは歴史の必然だ。何故なら歴史を支配しているのは権力者ではなく、神だからだ。
-使徒12:24-25「神の言葉はますます栄え、広がって行った。バルナバとサウロはエルサレムのための任務を果たし、マルコと呼ばれるヨハネを連れて帰った。」
・ユダヤ人たちは自分たちだけが神に選ばれた民であり、異邦人は救いの外にあると信じていた。ルカはそうではないと主張し、フィリポがエチオピア人に授洗したこと(8章)、ペトロがローマ人コルネリウスを教会に受け入れたこと(10章)、アンティオキア教会で異邦人が信徒に加えられたこと(11章)をあげている。そして13章からは、パウロの国外伝道旅行を記す。ルカが『使徒言行録』で語りたかったのは、キリストの福音は「エルサレムから始まり、ローマにまで届いた」、神は全世界の人々に福音を伝えることを望まれ、そのようになったということである。
・使徒言行録は28:31で突然終わり、その後のパウロがどうなったかは一切記されないが、おそらくパウロはローマで処刑されたのであろう。しかし後継者たちは語ることを止めなかった。パウロの後継者たちの語りがエペソ書やテモテ書という「パウロの名による書簡」として残されている。福音はパウロの死を超えて語り継がれていった。イエスの後にペテロやパウロが起こされ、イエスの福音を語り続けた。使徒たちもローマで処刑されたが、次に続く人々が「神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続け」た。やがてペテロの処刑地の上に教会が建てられ、ローマ教会がキリスト教の中心になって行く。どのような力も福音を沈黙させることは出来なかった。福音は「キリストの弟子」を作り続け、彼らが語り続けてきたからだ。そして今、私たちがその役割を継承して語り続けていく。使徒言行録は私たちによって書き続けられていくのである。