江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2023年3月29日祈祷会(使徒言行録8:1-40、教会に対する迫害と福音の進展)

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1.エルサレム教会に対する迫害とサマリア伝道

 

・ステファノの殉教がきっかけとなり、エルサレム教会への迫害が起こり、信徒たちはユダヤやサマリアへ散らされた。しかし、迫害でエルサレムを追われたのはギリシア語系ユダヤ人(ヘレニスト)たちだけであった。ヘレニストたちの自由な律法理解がユダヤ教徒からの迫害を招いた。

-使徒8:1-3「その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方へ散って行った。しかし、信仰深い人々がステファノを葬り、彼のことを思って大変悲しんだ。一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた」。

・迫害によりエルサレムを追われた人々による地方伝道が始まった。彼らは行く先々で福音を伝え、信徒への迫害は福音をエルサレムの外へ拡大するきっかけとなった。フィリポはその宣教者の一人だった。

-使徒8:4-8「さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。群衆はフィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話しに聞き入った。実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人々も癒してもらった。町の人々は大変喜んだ」。

・彼は癒しや不思議な業を通してサマリア人の回心を導き、その中に魔術師シモンもいた。

-使徒8:9-13「この町に以前からシモンという人がいて、魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた。それで、小さな者から大きな者に至るまで皆、『この人こそ偉大なものといわれる神の力だ』と言って注目していた。人々が彼に注目したのは、長い間その魔術に心を奪われていたからである。しかし、フィリポが神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女もバプテスマ(洗礼)を受けた。シモン自身も信じてバプテスマ(洗礼)を受け、いつもフィリポにつき従い、すばらしいしるしと奇跡が行われるのを見て驚いていた」。

・サマリア伝道の進展を聞いたエルサレムの使徒たちは、ペトロとヨハネをサマリアに派遣した。

-使徒8:14-16「エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせた。二人はサマリアへ下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈った。人々は主イエスの名でバプテスマを受けていただけで、聖霊はまだ誰の上にも降っていなかったからである」。

・魔術師シモンは世の中のものは何でも金で買えると思いこんでいた。だから、使徒たちの聖霊授与の力も金で買いたいと考えた。

-使徒8:17-19「ペテロとヨハネが人々の上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。シモンは、使徒たちが手を置くことで、“霊”が与えられるのを見、金を持って来て、言った。『私が手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、私にもその力を授けてください。』」

・ペトロはシモンの誤った考えを、仮借ない厳しい態度で戒めた。

-使徒8:20-25「ペトロは言った。『この金は、お前と一緒に滅びてしまうがよい。神の賜物を金で手に入れられると思っているからだ。お前はこのことに何のかかわりもなければ、権利もない。お前の心が神の前に正しくないからだ。この悪事を悔い改め、主に祈れ・・・ペトロとヨハネは、主の言葉を力強く証しして語った後、サマリアの多くの村で福音を告げ知らせて、エルサレムに帰って行った。」

・古代世界にはシモンのような占星術師、占い師、魔術師がたくさん居て、人々に支持されていた。シモンにとって癒しは生計の手段だった。後日、聖職売買が彼の名をとって「シモニア(ラテン語Simonia)」と呼ばれるようになる。教会がお金や名声を求め始めたとき、教会もまたシモン主義になっていく。人々は現代でも魔術を求めている。現代人も迷信と真の信仰の違いを、認識できていない。

 

2.エチオピアの高官の回心とバプテスマ

 

・フィリポはサマリアで福音を宣べ伝えていたが、彼は主の天使から、「ガザへ行け」と命じられ、出かける。そこは寂しい道であったが、フィリポは何も問わずに行く。

-使徒8:26-29「さて、主の天使はフィリポに、『ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ向かう道に行け』と言った。そこは寂しい道である。フィリポはすぐ出かけて行った。折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた。」

・ガザに着いたフィリポは、エチオピア人の宦官に、福音を伝える使命を与えられる。

-使徒8:30-31「“霊”がフィリポに、『追いかけて、あの馬車と一緒に行け』と言った。フィリポが走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえたので、『読んでいることがお分かりになりますか』と言った。宦官は、『手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう』と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。」

・聖書は専門家の解き明かしなしには十分に理解できない。それ故、聖書は共に読むことが必要だ。宦官が朗読していたのはイザヤ書だった。

-使徒8:32-33「彼が朗読していた聖書の個所はこれである。『彼は羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、口を開かない。卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。』」

・フィリポは、イザヤが預言した「苦難の僕」こそ、メシアとして来られ、十字架で死なれたイエス・キリストであると宦官に説き、彼にバプテスマを授けた。

-使徒8:34-38「宦官はフィリポに言った。『どうぞ教えてください。預言者は誰についてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。誰か他の人についてですか。』そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説き起こして、イエスについて福音を告げ知らせた。道を進んで行くうちに、彼らは水のある所へ来た。宦官は言った。『ここに水があります。バプテスマ(洗礼)を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。』そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官にバプテスマ(洗礼)を授けた。」

・何故、このエチオピア人はフィリポの説明でこんなにも簡単に受洗を希望したのだろうか。彼は宦官(去勢された男性)であり、ユダヤ教では会衆からは除外されていた(申命記23:2「睾丸のつぶれた者、陰茎を切断されている者は主の会衆に加わることはできない」)。その除外に対して「宦官もまた神の愛の中にある」と述べたのはイザヤであった。だから彼はイザヤ書を熱心に読み、イザヤが指し示す苦難の僕がキリストであることを知り、キリストを救い主として受けいれた。第三イザヤにおいてキリストにつながる福音が既に述べられ、その福音が500年の年月を経て一人の魂を救い、このバプテスマにより、エチオピアにもキリストの群れが生まれていく。

-イザヤ書56:3-5「主のもとに集って来た異邦人は言うな、主は御自分の民と私を区別される、と。宦官も、言うな、見よ、私は枯れ木にすぎない、と。なぜなら、主はこう言われる、宦官が、私の安息日を常に守り、私の望むことを選び、私の契約を固く守るなら、私は彼らのために、とこしえの名を与え、息子、娘を持つにまさる記念の名を、私の家、私の城壁に刻む。その名は決して消し去られることがない」。

 

3.使徒8章の黙想

 

・初代教会はイエスの出来事を聖書の成就として福音を語り、その中でイザヤ53章が重要な位置を占めていた。彼らはイザヤ53章こそ、イエスをメシア(キリスト)である根拠だと述べ伝えた。

-大貫隆「イエスという経験」から「イエス処刑後に残された者たちは必死でイエスの残酷な刑死の意味を問い続けていたに違いない。その導きの糸になり得たのは聖書(旧約)であった。聖書の光を照らされて、今や謎と見えたイエスの刑死が、実は神の永遠の救済計画の中に初めから含まれ、聖書で預言されていた出来事として了解し直されるのである・・・彼らはイザヤ53章を『イエスの刑死をあらかじめ指し示していた預言』として読み直し、イエスの死を贖罪死として受け取り直した」。

・キリスト教信仰は、受難、贖い、復活、昇天、聖霊降臨、等を唱える。世の知恵は「人の理性」に訴えるが、神の知恵は「人の魂」を揺さぶる。信仰は理性を超える。信仰の骨格を示すものが使徒信条である。

-使徒信条「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず」。

・友や家族に裏切られ、何も信じられなくなった人に復活のキリストは、「私は共にいる」と語られた。死の恐怖の中で凍り付いていた私たちに、復活のキリストは「人生は死では終わらない」ことを示された。信仰者は様々な体験を通して復活の主に出会う。だから信じる。信仰者はこの世の基準では愚者だが、「キリストにある愚者」だ。この愚者になることによって、この世的な価値観(エゴ)から解放され、他者を支配するのではなく、他者のために生きる人々が生み出されていく。教会は自分たちが「キリストにある愚者」であることを誇る人々の群れである。

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