江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2023年11月15日祈祷会(第一コリント12:1-31、教会における各人と全体のあり方)

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1.各人の持つ霊の賜物

 

・パウロはコリント12章で、「教会に集められた一人一人に霊の賜物が与えられ、各人がその賜物を持ち合って、教会が形成される」と語る。

-第一コリント12:4-6「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です」。

・霊の賜物が、知恵、知識、信仰、癒し、預言、異言等として現れ、教会の中で、役割を果たす。霊の賜物(カリスマ)は、主の恵み(カリス)によって与えられる。

-第一コリント12:7-10「一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気を癒す力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています」。

・「霊の賜物は教会の徳を高めるために与えられる。しかしあなたがたは賜物をいただいた自分を誇っている」、それはおかしいとパウロは戒める。コリント教会では賜物の優劣を巡って争いが起きていた。異言を語る人は、語れない人を「神の霊をいただいていない」と見下していた。異言、ギリシア語でグロッサ=舌の言葉、コリント教会では集会や祈祷会の時に、人々が霊的興奮状態になって、わけのわからない言葉を叫んだり、大声で讃美したりした現象があったのであろう。今日でもペンテコステ系の教会では、異言を強調する。そこでは「人は水でバプテスマを受けただけでは不十分であり、聖霊のバプテスマを受けなければ救われない。異言こそ天使の言葉、聖霊のバプテスマを受けたしるしなのだ」と語られる。

・しかしパウロは語る「異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げる」、信仰さえも、私たちが獲得したものではなく、与えられた恵みである。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」(第一コリント12:3)。榎本保郎は「新約聖書1日1章」の中で語る「毎年多くの新来者が来るが、彼らがみな信仰を持つわけではない。名簿には多くの名前が記されているが、残っていく人はわずかである。神に選ばなければ、信仰は持てないのだ。熱心に求めている人でも、信仰を持てないまま、去っていく人も多い。この中で私たちがイエス・キリストを主と信じるようになったということは、まったく聖霊の働き以外に考えられない」。

・今日の日本では「カリスマ」という言葉は「特別な才能」という意味で使われ、カリスマを持つ人が偉い人であるかのように評価される。しかし、本来のカリスマ(賜物)とは、神の恵み(カリス)から来ることが忘れられている。だからパウロは語る「ある人には知恵や知識を語る言葉が、別な人には病の癒しや奇跡を行う力が、他の人には異言を語る力が与えられている。それぞれが神の霊の働きであり、それぞれが尊い賜物ではないか」と。

 

2.教会はキリストの体であり、各人はその肢体である

 

・教会はキリストの体である。一つの体であるから、構成員の民族が異なり、地位が異なり、慣習が異なっても、教会は一つになる。

-第一コリント12:12-13「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、私たちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」。

・仮に、体の全てが目であり、全てが耳であれば、その体は異様で、意味を成さない。異なる者が集うから、そこに教会(エクレシア=呼び集められた群れ)が生じる。「足が『私は手ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が『私は目ではないから、体の一部ではない』と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか」(第一コリント12:15-17)。

・体のそれぞれの部分が役割を持っているように、教会もいろいろな人がいてこそ教会なのだ。それなのに、あなた方は信仰の弱い人や貧しい人を軽蔑し、自分たちを誇っている。

-第一コリント12:21-22「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」。

・コリント教会では金持ちは自分たちだけで主の晩餐に預かり、貧しい人は腹をすかしていた。信仰が強いと誇る人は神殿に捧げられた肉を平気で食べ、それを罪だと思う人を「信仰の弱い人」と嘲っていた。これが教会の正しいあり方と思うかとパウロは問いかける。

-第一コリント12:23-25「私たちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています」。

・互いを配慮する、それが愛し合うことだ。それでこそ、キリストの体になるのだとパウロは言う。

-第一コリント12:26「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」。

・教会はそれぞれの人が与えられた賜物を持って集まる所だ。ある人は説教し、別の人は子供たちの世話をする。ある人は奏楽をし、別の人は受付に立つ。講壇の花を準備してくれる人も、掃除を担当してくれる人も必要だ。誰も子供たちの世話をしなかったら、幼児を連れた母親は礼拝どころではない。誰かが掃除をしてくれるから、私たちは清潔な会堂で礼拝を行う。奏楽者が伴奏してくれるから共に讃美できる。礼拝は実に大勢の人々の働きで成立し、その働きが異なっても、何が尊くて何が卑しいかの区別はない。

-第一コリント12:27-31「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか。皆が奇跡を行う者であろうか。皆が病気を癒す賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。」

 

3.第一コリント12章と私たち

 

・この箇所はパウロが「教会はどうあるべきか」を人間の体になぞらえて展開した箇所だ。パウロは語る「体は一つの部分ではなく、多くの部分から成り立っている」(12:14)。そして「一つの部分が苦しめば全ての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれればすべての部分が共に喜ぶ」(12:26)。パウロの言いたいことは明確だ。「教会には多くの人が集められる。ある人は裕福で、ある人は貧しい。ある人は奉仕に熱心で、別の人はそうでもない。ある人は聖書に精通し、別の人はそうでもない。しかし、それぞれがキリストに召されて、ここにいる。私たちは主にある兄弟姉妹であり、一人一人の人が必要なのだ」と。

・パウロは何故、このような手紙をコリント教会に書いたのだろうか。それはコリント教会の中で、裕福な人は貧しい人を見下し、信仰熱心な人はそうでない人を侮蔑する現実があったからだ。現実の教会は決して理想的な姿ではない。私たちは教会の現実を見据え、どうすれば教会がキリストの体にふさわしいものになりうるのかを求めていく。教会こそ、地上に立てられた神の国であり、大事な場所だからだ。

・教会には熱心に奉仕する方がいる一方で、礼拝を休みがちの人もいる。パウロは語る「体の中で他よりも弱く見える部分が、かえって必要なのだ」(12:22)。教会にとって「弱く見える部分」、礼拝を休みがちな人、礼拝から遠ざかっている人こそ、大事なのだとパウロは言う。その人は教会の誰かに、あるいは何かにつまずいて来ることが出来なくなった。あるいは生活の苦しみが重過ぎて礼拝どころではない。そういう人々の存在を通して、教会の病変が見えてくる。その人たちこそ、教会にとって大事な人、気を配るべき人なのだ。パウロは語る「神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられた。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っている」(12:24-25)。

・コリントの人たちは自分たちの神秘体験を誇り、知識を誇った。多くの財産を教会に寄付した人もいたし、信仰のためであれば殉教してもよいという人もいた。パウロは彼らに警告する「異言を語っても預言の賜物があっても、山を動かすほどの信仰があっても、愛が無ければ全ては無だ」(13:1-3)。パウロは語る「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」(12:31)。私たちにもっとも必要な賜物とは「互いが相手のことを思い合うことを可能にする賜物」、つまり「愛」だ。愛こそ熱心に求めるべきものであり、「愛が無ければ全ての空しい」とパウロは語る。それが13章の愛の賛歌へとつながって行く。

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