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日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2023年11月8日祈祷会(第一コリント11:1-34、礼拝における秩序)

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2023年11月8日祈祷会(第一コリント11:1-34、礼拝における秩序)

 

1.男は男として、女は女として

 

・パウロはガラテヤ書3:28において「キリストにおいては男も女もない」と教えた。主の前には性別に関係なくみな平等であると。ここでのパウロは革新的だ。しかし第一コリントのパウロはガラテヤ書のパウロとは異なり、保守的な男性尊重主義に立つように思える。

-第一コリント11:2-5「あなたがたが、何かにつけ私を思い出し、私があなたがたに伝えた通りに、伝えられた教えを守っているのは、立派だと思います。ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。男はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶるなら、自分の頭を侮辱することになります。女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。それは、髪の毛をそり落としたのと同じだからです」。

・パウロは語る「男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神である」と。これは女性差別なのか、あるいは伝統的な考えの表明なのか。当時、婦人が公共の場所で髪を解くのは、娼婦的な行為とされたのが背景にある。パウロは婦人の被り物について伝統を守るように伝える。今日でもカトリック教会の礼拝において婦人たちは被り物を被るか、髪の毛を結ぶ。

-第一コリント11:6「女が頭に物をかぶらないなら、髪の毛を切ってしまいなさい。女にとって髪の毛を切ったり、そり落としたりするのが恥ずかしいことなら、頭に物をかぶる(髪の毛を結ぶ)べきです」。

・7節以下のパウロの発言は、現代では女性差別発言となるだろう。

-第一コリント11:7-10「男は神の姿と栄光を映す者ですから、頭に物をかぶるべきではありません。しかし、女は男の栄光を映す者です。というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。だから、女は天使たちのために、頭に力の印をかぶるべきです」。

・パウロの中で考えが揺れているようだ。11-12節のパウロは神の前における男女の同権を再び語る。

-第一コリント11:11-12「いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。それは女が男から出たように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからです」。

・13節からまた保守的な発言が顔を出す。ただそれは「ふさわしくない服装で礼拝に参加することは止めなさい」、「伝統は伝統として守りなさい」というパウロの勧告である。かつて人々は主日の礼拝にはきちんとした服装(男性であれば背広とネクタイ、女性であればドレス)で参加していたが、今日では服装基準が乱れ、普段着で出席する人が多い。神の前に出るというのであれば、一定の服装基準が必要と思える。

-第一コリント11:13-15「女が頭に何もかぶらないで神に祈るのが、ふさわしいかどうか。男は長い髪が恥であるのに対し、女は長い髪が誉れとなることを、自然そのものがあなたがたに教えていないでしょうか。長い髪は、かぶり物の代わりに女に与えられているのです。この点について異論を唱えたい人がいるとしても、そのような習慣は、私たちにも神の教会にもありません」。

 

2.主の晩餐式における分かち合いの大事さ

 

・コリント教会では、主の晩餐式において、裕福な人たちは自分たちだけで食事し、貧しい者に分かつことを怠るという問題があった。当時の晩餐式は各人の持ち寄りによる愛餐会であった。

-第一コリント11:18-20「あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています・・・それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです」。

・当時、集会は個人の家で行われ、裕福な人は食堂の座席に招かれ、自分たちの持参したパンとぶどう酒を食し、満腹していた。他方、貧しい人は中庭に座って残りものを分与されていたらしい。

-第一コリント11:21-22「食事の時、各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです。あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか。」

・この現実にパウロは怒る。「何のためにあなた方は主の晩餐式を行うのか。キリストの十字架を覚えるためでないか。キリストは裕福な人のためだけに十字架につかれたのか」とコリントの人々に問う。

-第一コリント11:23-26「私があなたがたに伝えたことは、私自身、主から受けたものです・・・あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られる時まで、主の死を告げ知らせるのです」。

・主の十字架の犠牲によって私たちは一つとされた。だから、共に教会に集まり、共に食事をいただく。これを受け入れない人は主の晩餐式にあずかる資格はないのだ。

-第一コリント11:27-29「ふさわしくないままで主のパンを食べたり杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、パンを食べ、杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」。

・ある人は、この箇所を「資格の無い人(無受洗者)は晩餐をいただくことはできない」とする。日本基督教団はその教憲・教規で無受洗者の晩餐式参加を否定する。それは文脈を読み違えていると思える。ここで指摘されているのは貧しい人と食べ物を分かち合わない、裕福な人々だ。主の晩餐式は次第に儀式化していった。しかし、晩餐式の本質は、個人的な招きではなく、共同で招かれていることだ。キリストの祝福をいただきながら、他者を祝福しない者は相応しくないと言われている。

-第一コリント11:33-34「私の兄弟たち、こういうわけですから、食事のために集まる時には、互いに待ち合わせなさい。空腹の人は、家で食事を済ませなさい。裁かれるために集まる、というようなことにならないために」。

 

3.主の晩餐式とは何か

 

・パウロはコリントの人々に、「主の晩餐式」の意味を語る。パウロがここで語るのはエルサレム教会から伝承した式文であり、晩餐式の起源はイエスが弟子たちと共に取られた最後の晩餐にあることを示す。

-第一コリント11:23-25「私があなたがたに伝えたことは、私自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのための私の体である。私の記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、私の血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、私の記念としてこのように行いなさい』と言われました」。

・マタイ、マルコ、ルカの各福音書は、最後の晩餐が主の晩餐式になったとの伝承を伝える。(マルコ14:25他)。イエスは最後の時が来たことを悟り、労苦を共にしてきた弟子たちにお別れの挨拶をされた。「私はやがて死ぬが、私の流す血、裂く体は決して無駄にならない。そのことを覚えておいてほしい」と。そして最後に言われる「神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してない」。私は死ぬが神の国はまもなく来る。その時また一緒に祝宴を開いてぶどう酒を共に飲もうと、イエスは弟子たちに語られた。主の晩餐式はそれを想起する行為である。

・弟子たちも決意を新たにする。復活のイエスとの顕現を通して、再び集められ、イエスの死と復活を想起する「主の晩餐式」を持った。パウロは語る「あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られる時まで、主の死を告げ知らせる」(11:26)。主の晩餐式は「イエスが私たちのために死んで下さった」という過去の出来事を記念する。しかし同時に、「イエスが再び来て下さる。その時、神の国が来る」という将来の希望をも想起する。

・パウロは「主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしている」(11:29)と語る。「ふさわしくないままに主の晩餐をいただく」とは、「兄弟たちと和解することなくパンをいただくこと、兄弟に対して恨みや軽蔑の念を持ったままで杯をいただくこと」を意味する。ただ2世紀以降教会制度が確立してくると、主の晩餐式は礼拝の中で行われる秘蹟(サクラメント)となり、信徒のみ(洗礼者のみ)に限定される。しかしパウロは「洗礼が主の晩餐にあずかる要件だ」とは述べておらず、「主の晩餐」にあずかるにふさわしいか否かは、各人の信仰的な反省に委ねるべき事柄である。

・初代教会において「主の晩餐式」は共同の食事の中で祝われていた。それは愛餐(アガペー)と呼ばれ、この食事の交わり、分かち合いこそ、イエスが最も大事にされていたことを覚える。イエスは徴税人や罪人たちと共に食卓につき、そのために批判された。しかしイエスは人々との食卓の交わりを続けられた。「共に食べることこそ、神の国のしるし」として大事にされていたからだ。主の晩餐式が愛餐(アガペー)であれば、そこにおける参加者の洗礼の有無は無関係である。私たちは主の晩餐式を本来の姿である「愛餐」に戻す必要がある。だから私たちの教会では洗礼を受けていなくとも、「イエスを主と信じる」決断をされた方は、共に晩餐にあずかるように招く。それを通して「一つの体」になるためだ。「一つのパンを共に食べる」、そこに教会の交わりの原点がある。

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