1.コリント教会に対する憂い
・パウロはコリントへ行く計画を取りやめ、コリント教会の人々はパウロの約束違反を批判した。それに対するパウロの弁明が1:23-2:4に述べられている。
-第二コリント1:23「神を証人に立てて、命にかけて誓いますが、私がまだコリントに行かずにいるのは、あなたがたへの思いやりからです」。
・パウロは前にコリントを訪問し、非難と面罵を受け、傷心の内にエペソに帰った。状況は変わっていない。今、コリントへ行けば厳しい処罰をせざるを得ない、だから行くことを控えたとパウロは語る。パウロはコリントへ行くことを断念し、その代わりに手紙を書いて、テトスに託した。
-第二コリント2:1-4「私はそちらに行くことで再びあなたがたを悲しませるようなことはすまい、と決心しました・・・あのようなことを書いたのは、そちらに行って、喜ばせてもらえるはずの人たちから悲しい思いをさせられたくなかったからです・・・私は、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした」。
・その後、あなた方は私を侮辱した人々を処罰したと聞いた。もう十分だ。その人を赦しなさい。
-第二コリント2:5-7「悲しみの原因となった人がいれば、その人は私を悲しませたのではなく、大げさな表現は控えますが、あなたがたすべてをある程度悲しませたのです。その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです」。
・罪を犯した者は厳正に処罰しなければならない。処罰なしには悔い改めは生じない。しかし、悔い改めれば赦しなさい。罪を憎むのであって、人を憎むのではないのだから。
-第二コリント2:8-10「ぜひともその人を愛するようにしてください。私が前に手紙を書いたのも、あなたがたが万事について従順であるかどうかを試すためでした。あなたがたが何かのことで赦す相手は、私も赦します。私が何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです」。
・パウロはコリント教会への和解の使者として手紙を持たせてテトスを派遣したが、帰りを待ちきれず、トロアスからマケドニアにまで足を伸ばして、コリントの状況を知りたいと願った。
-第二コリント2:12-13「私は、キリストの福音を伝えるためにトロアスに行った時・・・兄弟テトスに会えなかったので、不安の心を抱いたまま人々に別れを告げて、マケドニア州に出発しました」。
・2:13に続くのは7:5だ。マケドニアでテトスに会い、彼からコリント教会が「パウロに申し訳なかった」と語っていることを知り、パウロは喜びに満たされた。
-第二コリント7:5-7「マケドニア州に着いた時、私たちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです。しかし、気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によって私たちを慰めてくださいました・・・あなたがたが私を慕い、私のために嘆き悲しみ、私に対して熱心であることを彼が伝えてくれたので、私はいっそう喜んだのです」。
2.コリント教会に対する喜び
・2:14からパウロは一転して、キリスト賛歌を歌う。コリント教会との和解が出来たことを知り、感謝の賛歌を挿入する。2:14-7:4までの個所だ。
-第二コリント2:14-15「神に感謝します。神は、私たちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、私たちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、私たちはキリストによって神に献げられる良い香りです」。
・ローマの凱旋行軍では、最初に戦争捕虜が行進し、次に香炉を振りまく祭司が続き、最後に将軍と兵士が続く。振りまかれる香りは勝者に対しては命の香りであるが、処刑が待っている敗者にとっては死の香りだ。福音の香りも同じだ。受け容れる者には命の香りとなり、拒否する者には死の香りとなる。
-第二コリント2:16「滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです」。
3.キリスト者は神によって書かれた手紙である
・パウロは次の17節から言葉を変えて、コリント教会を混乱させている伝道者たちを批判する。
-第二コリント2:17-3:1「私たちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。私たちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、私たちに必要なのでしょうか」。
・エルサレム教会の推薦状を持った教師たちがコリントに来て、パウロとは異なる福音、割礼や食物規定等の律法による救いを唱え、教会を混乱させていた。彼らはエルサレム教会からの推薦状を誇示し、「この推薦状が示す通り、自分たちこそ正当な福音を伝える使者」であり、他方「パウロは何の推薦状も持っていないから偽使徒だ」と攻撃した。それに対して、パウロは「彼らは神の言葉を売り物にしている商売人に過ぎない」(2:17)と語る。「本当の推薦状は人からのものではなく、神からいただいた推薦状であり、私の推薦状はあなたがたなのだ」と語る。
-第二コリント3:2「私たちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、私たちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています」。
・牧会者にとって、その伝道から生まれた信徒こそ、神からの推薦状だ。パウロは「あなた方は私たちの伝道によって、イエス・キリストを救い主として受け入れた。あなた方が変えられた。その事こそが私たちに与えられた推薦状だ」と語る。教会の信徒こそ、キリストの手紙なのだ。
-第二コリント3:3-6「あなたがたは、キリストが私たちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です・・・神は私たちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします」。
・コリントに信仰者の群れが生まれた、それこそがキリストの働きなのであり、あなた方はこのキリストの働きの「生きたしるし」なのだと彼は語る。「全てのキリスト者は、好むと好まざるとにかかわらず、「キリストの香り」であり、「キリストの手紙」なのだ。世の人はキリスト者の生き方を通して、キリストを、そして神がどなたであるかを知るのだ」と。宗教社会学者のロバート・ベラーは、その著「善い社会」の中で、アメリカ・メソジスト教会の一人の牧師の言葉を紹介している。
-ロバート・ベラー「善い社会」から「ヘブライ人への手紙の著者が誰であるかはどうでも良い。それは死んだ神学だ。生きた神学はこの書が私の人生にどのような意味を持つのかを教える。ヘブル13章5節は語る「主は『私は、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない』と言われました」。16歳の娘の麻薬が発覚した時、この言葉はどのように私を導くのか。会社が買収されて24年間勤務した職場を去らなければいけない時、この言葉の意味は何なのか、それが問題なのである」(「善い社会」、p207-208)。
・人生の危機に直面した時、キリストの言葉が本当に私たちを苦難から立ち上がらせる力があるのか、そのような体験的神学の学びを通して、私たちは訓練され、聖書が「生きて働く」福音になっていく。その時、まさに「文字は殺し、霊は生かす」というパウロの言葉の意味が、理解出来るようになる。
-ロバート・ベラー「善い社会」から「宗教共同体(教会)はまた、私たちが究極的な問題と取り組むのを助けてくれる。すなわち、費用便益計算(利害損得)以上のもの、欲望以上のものに基づいて生きるための道を探ることである」(同p228)。
・現代の私たちは利害損得(お金)を宗教としているが、聖書は利害を超えるもの、神を愛するように隣人を愛することを求めている。そこにしか人間が救われる道はない。「死の谷を過ぎて~クワイ河収容所」が教えるのもそうだ。
-著者アーネスト・ゴードンはイギリス軍将校で、日本軍捕虜となり、鉄道工事に従事した。彼は書く「飢餓、疲労、病気、隣人に対する無関心、私たちは家族から捨てられ、友人から捨てられ、自国の政府から捨てられ、そして今、神すら私たちを捨てて離れていった」(122P)。
・著者は収容所で、病気に罹り、「死の家」に運び入れられた。病舎の粗末な竹のベッドに横たわり、命が終わる日を待っていた著者のもとに、キリスト者の友人たちが訪れ、食べずにとっておいた食物を食べさせ、膿を出して腐っている足の包帯を替え、体を拭く奉仕をする。彼らの献身的な看護によって、著者は次第に体力を回復し、彼らを動かしている信仰に触れた。無神論者だった彼が見出したのは、「生きて働いておられる神」だった。「神は私たちを捨てていなかった。ここに愛がある。神は私たちと共におられた・・・私はクワイ河の死の収容所の中に神が生きて、自ら働いて奇跡を起こしつつあるのをこの身に感じていた」(176P)。