江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2022年8月17日祈祷会(ルカ13:1-9、悔い改めなければ滅びる)

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1.悔い改めなければ滅びる

 

・ルカ13章の物語は、イエスが話しておられた時、人々が来て、「総督ピラトが巡礼に行っていた私たちの仲間のガリラヤ人たちを神殿境内で殺した」と報告するところから始まる。ガリラヤ地方は、熱心党と呼ばれる反ローマ運動の中核となっていた地域であり、イエスの弟子の中にも熱心党のシモンがいた(6:15)。ローマは熱心党の運動を社会の治安を乱すものとして警戒しており、総督ピラトが、反ローマ運動を行うガリラヤ人の集団がエルサレム神殿で犠牲の捧げものを捧げていたところを、武装兵士たちに襲わせ、殺した。それがルカでは、「ピラトがガリラヤ人の血を彼らの生贄に混ぜた」と表現されている。

-ルカ13:1「ちょうどその時、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らの生贄に混ぜたことをイエスに告げた」。

・「神殿で礼拝をしている時にローマ総督に殺された、神はなぜこのような不条理を許されるのか」と人々はイエスに問い詰める。イエスは群衆に向かい、「殺されたガリラヤ人はあなたたちより罪が重いのではない。あなた方も罪を悔い改めなければ、同じように滅びる」と厳しく戒められた。

-ルカ13:2-3「イエスはお答えになった。『そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。』」

・当時のユダヤ教では、「律法を守って罪のない生活をしていれば災いが臨むことはない」という因果応報を教えていた。だから人々は「仲間のガリラヤ人たちはなぜ殺されたのか、罪を犯したからなのか」と問うが、イエスはこれを否定された「決してそうではない。彼らが特に罪深かったのではない」。「神の宮で礼拝をしていた時に殺された」、これは当時のガリラヤの人々には衝撃的な事件だった。民衆は、「礼拝する信徒を、神は殺されるままにされたのか、何故介入されなかったのか」とイエスに迫った。

・歴史上、「神の摂理」疑われた大事件が、1755年11月1日に発生したリスボン大地震(マグニチュード9)である。その日はカトリック教会「聖人の日」で、多くの信徒が礼拝に参加していたが、突然の大地震で聖堂は崩壊し、引き続き起こった津波で多くの人が亡くなり、犠牲者は10万人を超えた。カトリック国の中核の地で、大勢の信徒が教会堂で礼拝を捧げている時に、地震の直撃を受け、死んで行った事件は当時のキリスト教会に衝撃的な影響を与えた。

-ヴォルテールは語る「災害によってリスボンが破壊され、10万人の人命が奪われた、神はなんと無慈悲なのか」。

-カントは反論する「地震は地球の地殻変動によって起きるのであり、神の裁きではない」

・イエスはシロアムの塔崩壊で死んだ十八人の例を示し、「彼らもまた罪の故に死んだのではない。あなたたちも悔い改めなければ同じように滅びる」と戒められた。シロアムの塔は大規模な水道工事のために建てられた水道塔で、ピラトは水道工事の費用に充てるためにエルサレム神殿の金庫から多額のお金を引き出し、それに抗議したユダヤ人たちに軍隊を差し向けて、多くの死傷者を出している。ファリサイ派の人々は「異教徒のローマ人に協力したから天罰が当たった」と言ったが、イエスは明確にこれを否定された。

-ルカ13:4-5「また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」

・現代の私たちは災害や病気が神から来るのではなく、それぞれに原因があることを知っている。中野毅は論文「近代化・世俗化・宗教」で、「人は災害や病気の中に神秘を見なくなっている」と語る。

-中野毅・論文より「多くの国民は、3.11に東日本を襲った大震災や福島原発事故を、『神の怒り』や『宿業』などとは考えていない。われわれは巨大地震発生の自然的メカニズムを知っており、原爆のみならず原発の有効性とともに、制御不能なほどの危険性も知った・・・我々は運命、宿業、神の命令などの超越的な存在や時間に依拠しない生活を始めており、天災や人災、飢餓や病気への対策も、宇宙や世界の捉え方も、世俗的な時間や空間において考えている」(創価大学社会学報、2012.3)。

・しかし、その現代人も、「大災害の中で、私は生き残って、あの方は亡くなった。それは何故なのか、これからどのように生きていけばよいのかという実存的な問い」に応えることはできない。ここにイエスが2000年前に提起した問い「悔い改めなければ滅びる」が、今日においてもなお大きな意義を持つ。

 

2.「実のならない無花果の木」の譬え

 

・葡萄と無花果はイスラエルの象徴である。その無花果の木に三年たっても実がならず、園の主は木を切り倒せと命じた。譬えの葡萄園の主は神で、無花果の木はイスラエル民族、三年はイエスの公生涯であろう。それだけ経っても悔い改めの実を結ばぬイスラエル民族を滅ぼせと神が命じている譬えである。

-ルカ13:6-7「そして、イエスは次の譬えを話された。『ある人が葡萄園に無花果の木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。“もう三年もの間、この無花果の木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。”』」

・無花果の木を伐採せよと命じられた園丁は、「もう一度手入れし肥料を与えますから、伐採を待って下さい」と主人に願う。園主は神で、無花果の木を懸命にかばう園丁はイエスである。イスラエル民族を滅びから救う努力を惜しまぬイエスがこの譬えになっている。

-ルカ13:8-9「園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

・この譬えは神と人の間に立つ仲介者としてのイエスの特質を表している。当然イエス自身の言葉ではなく、ルカの編集句であろう。ルカは紀元70年にイスラエルがローマにより滅ぼされた歴史を見据えている。

―ロ-マ8:34「だれが私たちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ復活された方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私たちのために執り成してくださるのです。」

 

3.不条理を超えて生きる

 

・人生は予測不能な出来事で満ちている。2011.3.11の大震災も予測不能な出来事だったが、出来事に遭遇した人々の人生は大きく変えられていった。大震災を通して、「神が創造した世界において、何故多くの人々が悲惨な体験をしなければならないのか」ということが、繰り返し問われて来た。震災において2万人の人々が犠牲になり、生き残った人たちの中には家族を失い、家を失い、工場や商店を失い、身よりも財産もなくなった人たちがある。町や建物が復興しても、家族を亡くした方々の心は復興していない。

・東北学院大学・原口尚彰は震災直後の2011 年6 月7 日に「神への問い」と題する説教をした。

-原口尚彰「全能の神が創造主であり、世界はすべて主の御手の内にあるのなら、何故このようなことが起こるのか、罪ない人が被災し苦しむのはどうしてなのかという問いは、心の中に絶えず生じて来ます。実際に同様な問いを東日本大震災に関して、日本に住む少女がローマ教皇に問うたところ、教皇は率直に『自分も同じような疑問を持っている』と述べたそうです。誰にも答えられない問いなのです」。

-原口氏は続ける「この問いは「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(我が神、わが神、何故私をお見捨てになったのですか)」という十字架上のイエスの問いでありました(マルコ15 : 34)。神の子が、何故拷問を受け、断罪され、極悪人のように十字架刑を受けなければならなかったのかということは大きな謎であり、不条理でした。それは、そのような不条理な苦しみの中にある人間と共にイエスは歩み、その苦しみを共に担い、共に問い続けて下さるということに他ならないと思います」(東北学院大学『説教集』第16 号、2012 年3 月から)。

・不条理を超える力を人に与えるものがイエスとの出会いであろう。夜通し漁をして何も取れなく失望していたペテロがイエスの言葉に従って網を下した時大量の魚が採れ、ペテロはイエスの弟子となって行く(5:1-11)。人々から嫌われていた徴税人ザーカイもイエスと出会うことによって、新しい命に生きる者となった(19:1-10)。私たちもある時、イエスに出会い、従うように招かれて、この会堂に集められた。私たちは、共に不条理を経験された方が今、天におられ、私たちの叫びに耳を傾けていて下さることに、希望をかけている。「悔い改めなければ滅びる」ということは、「悔い改めれば滅びない」ということだ。

・ルカは16章「金持ちとラザロのたとえ」の中で、金持ちに語らせる「父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう」(16:30)。しかしアブラハムは答えた「もし、モーセと預言者(すなわち聖書)に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」(16:31)。聖書を一人で読んでも難しく、伝える者がいなければ悔い改めは生じない。伝える者として、私たちがここに存在する。

-ローマ10:14「信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。」

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