江戸川区南篠崎町にあるキリスト教会です

日本バプテスト連盟 篠崎キリスト教会

2022年8月10日祈祷会(ルカ12:35-59、終末をどう考えるか)

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1.目を覚ましている僕

 

・ルカ福音書12章後半には、やがて来る「終末にどのように備えるか」が語られている。イエスは弟子たちに対し、「終末の時が迫っている。だから目を覚ましていなさい」と言われた。

-ルカ12:35-38「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたく時、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来た時、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ・・・主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。」

・イエスは突然に侵入する盗賊の譬えを用いて、終末に臨む心得を教えられた。

-ルカ12:39-40「家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

・初代教会は強い終末観をもっていた。彼らは「自分たちが生きている間に終末は来る」と考えていた。

-ルカ12:41-44「主は言われた。『主人が召し使いたちの上に立てて、時間通りに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、一体誰であろうか。主人が帰って来た時、言われた通りにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。』」

・「主の帰りは遅くなる(=再臨は今すぐではない)」と考えて、自分の思うままにふるまうならば、帰ってきた主人(再臨のキリスト)は彼を懲らしめるであろうと言われている。

-ルカ12:45-47「しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思い通りにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。」

・初代教会にとって、再臨=終末は差し迫った問題だった。パウロも主の再臨の前に、「すべての人に福音を知らせる」ために、世界伝道の活動を急いでいる。しかし終末は来なかった。そのため、教会の信仰に緊張感がなくなってしまった。

-第二ペテロ3:8-10「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません・・・主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます」。

 

2.分裂をもたらす

 

・「イエスの到来によって終末は始まった」と人々は理解した。イエスの火によって人々は選り分けられる。初代教会はペンテコステの火によって清められて、その活動を開始した。

-ルカ12:49-50「私が来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、私には受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、私はどんなに苦しむことだろう。」

・イエスが語る分裂は、イエスを信じて従う者と、そうでない者の分裂である。イエスに出会った者(聖霊の火を受けた者=洗礼を受けた者)は、この世とは違う生き方を迫られる。その結果、家族の離反や争いも起きるだろう。この世で信仰者として生き続けることは容易な道ではない。迫害も差別もある。しかし「恐れるな、神は共におられる」とイエスは語られる。

-ルカ12:52-53「あなたがたは、私が地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。」

 

3.時を見分け、なすべきことを為せ

 

・人々は「西の地中海上に積雲が出ると雨になる、砂漠から南風が吹くと暑くなる」と見分けることができるのに、キリストが来られ、終末が始まっていることに気付いていない。

-ルカ12:54-56「イエスはまた群衆にも言われた。『あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、にわか雨になると言う。実際その通りになる。また、南風が吹いているのを見ると、暑くなると言う。事実そうなる。偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」

・人々は日常において様々なものを見てはいるが、見ていてもそのしるしを理解しているわけではない。「メシア=キリストが来られて終末が始まった」のだと、福音書記者は力説している。

-マタイ16:1-3「ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。イエスはお答えになった。『あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。』」

・債権者に訴えられ、裁判にかけられる時、あなたは必死に自分を告発する者と和解しようとするだろう。今、審判の時が迫り、残された時間は少ない。「早く悔い改め、裁かれる神と和解せよ、私はその和解の使者として来たのだ」とイエスは迫られる。

-ルカ12:58-59「あなたを訴える人と一緒に役人のところに行く時には、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない。」

・しかし人々はイエスの言葉を聞かなった。そのために紀元70年、エルサレムはローマ軍に攻め滅ぼされて廃墟となり、人々は国外に散らされていった。ルカはその無念の思いをイエスの言葉として語る。

-ルカ13:34-35「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決して私を見ることがない。」

 

4.現在の私たちは終末をどう考えるのか

 

・終末、世の終わりという考え方は、日本人にはない。春が終われば夏が来て、やがて秋になり冬になる。そして再び春が来る。季節が巡るように歴史もめぐる。しかし、聖書は歴史には一つの到達点があり、目標があると主張する。それが終末だ。この終末を死にたとえてみると判りやすい。私たちは今日生きている。明日も生きるだろう。恐らくは明後日も。しかし、終わりの日は必ず来る。明日は今日の繰り返しではない。私たちは死に向かって毎日を歩んでいるのだ。聖書が「目を覚まして待っていなさい」ということは、「私たちは死に向かって歩んでいるのに、今のような生き方を続けて良いのか」と問いかけているのだ。つまり、私たちにとって「終末を覚える」と言うことは、「私たち自身の死」を覚えることだ。

・死は私たちの理解を超える。死んだらどうなるのか、誰も知らない。知らないから怖い。怖いから、人は死を忘れて現在を楽しもうとするが、何の解決にもならない。別な人は「この世は悪い、希望がない」として、来世にのみ目を注ぐ信仰に走る。しかし、そこにも満たしはない。死そのものは克服されていない。聖書は第三の道を私たちに示す「目を覚まして待っている」ことだ。目を覚ましている=死を見つめることだ。死を見つめた時、私たちは大事だと思っていたものの大半が、実は本当に大事なものではなかったことを見出す。お金があっても死の前には役立たないし、生涯をかけた仕事にしても死ねば意味がなくなる。家族さえもそうだ。死を見つめることによって、私たちはこの世の出来事が全て過ぎ去るもの、相対的なものにしか過ぎないことを知り、それらから自由になる。

・私たちが癌にかかり、余命1年だと宣告された時、私たちはどうするだろうか。最初は反発し、そんことはないと受け入れない。やがて、それがどうしようもない事実であることを知り、私たちは怒る。何故私が今死ななければならないのか、それは不公平ではないか。次に私たちは死が避けられないことを認識し、どうすればいいのか探求する。解決策はない。やがて死の重さに負け、悲しむ日々が続く。その悲しみと苦しみを経て、やがて死を受容するようになる。そして死を受容した者は、残された生を充実して生きるためには何をなすべきかを模索し始める(キュブラー・ロス「死ぬ瞬間」から)。

・この死の受容の過程は、全ての人がいつかは経験しなければいけない出来事だ。それを「今経験しなさい」と聖書は言う。一度死ぬ、具体的には水のバプテスマを受けることだ。バプテスマ=洗礼は全身を水の中に入れ、そこで古い自分に死ぬ。そして新しい命となって水から引き出される。これが死の受容の最初だ。クリスチャンの出発点だ。そして「死に続けよ」と聖書は言う。死に続ける、「イエスの死を体にまとうことだ」(第二コリント4:10)。具体的には傍観者としてではなく、主体者として生きることだ。

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